飛べない天使 1
冬の弱い朝日がカーテンの隙間から射し込んでいた。細い光の糸はベッドの乱れたシーツを横切り、その上に投げ出された白く細い腕を静かに照らし出す。腕がゆっくりと動いて、光から顔を守るように覆い被さった。
「……う……ん」
それでも完全に防ぎきれなかった朝日に観念して、シェリルは顔から腕をどけるとひどくゆっくりとした動作で上体を起こした。と同時に体の上からシーツがずり落ちて、何もつけていない白い柔肌が冷えた空気に晒された。
慌ててシーツを胸元まで引き上げたシェリルは、一気に甦った昨夜の記憶を振り払おうと真っ赤になった顔を両手で多い、頭を横に振ってみる。けれどそれは消えるどころか更に鮮明に思い出され、シェリルは少しの間呼吸困難に陥った。
乱れたシーツも、そこに残るカインの匂いも、記憶を呼び戻す道具にしかならない。耳元で甘く囁かれた事を思い出して、シェリルの背筋がぞくりと震えた。
「……カイン」
名前を呼ぶだけで、肌に触れたカインの手の感触までもが甦る。恥かしさに耐え切れず俯いたシェリルだったが、白い胸元に咲いた幾つもの赤い花弁を見て今度は耳まで赤く染まる。
シーツを首まで引き上げて気持ちを落ち着かせようと深呼吸したシェリルは、今ここにカインの姿がない事に心の底からほっとした。
シェリルを下界へ送る転移魔法は、アルディナ自身が行ってくれると言ってくれた。それによりシェリルは天界から直接、下界のアルディナ神殿へと送られる。風の回廊を使わずとも、シェリルひとりで下界へ戻れる方法だった。
なるべく早い方がいいと言うシェリルの申し出によって、帰還の魔法は昼過ぎの宮殿屋上にて行われる事になっている。朝から昼までの間シェリルは天界の街を散歩したり、ルーヴァやセシリアたちと最後のお茶会を楽しんだりしてのんびりと過ごした。天界の事を忘れないように、やり残した事がないように、シェリルは短い時間を精一杯有意義に楽しんだ。
カインとは、今日まだ一度も会っていない。けれどもう心配する事は何もなかった。昨夜かけられたあの魔法は、どんな事があっても絶対に解けない事を信じているから。シェリルはただカインを信じて待てばいい。カインならきっと約束を果たしてくれると、迷いもなくそう確信していた。
星の宮殿屋上にはルーヴァとセシリア、リリス、そしてアルディナがシェリルを見送りに集まっていた。他の天使たちはシェリルが帰る事を知らない。大勢に見送られるよりも親しい者たちだけで別れを告げたいと、シェリルが願った事だった。
「シェリル。カインには会いましたか?」
控えめな声で少し心配そうに訊ねたルーヴァに、シェリルはにこりと微笑み返して首を横に振る。
「でも今日は……会うと反対に辛くなりそうだから」
「……シェリル」
「大丈夫。だって、約束したもの」
安心させるようにこくんと頷いて、シェリルは改めてルーヴァを正面から見つめ返した。
「今までいろいろありがとう。私ここでの事、絶対に忘れないから」
「ええ、私もあなたの事は忘れませんよ。シェリル……お元気で」
ルーヴァの優しい笑顔に思わず涙ぐんだシェリルが、慌てて顔を横に向けてせわしく瞬きをする。そんなシェリルの様子を見て、リリスが相変わらずの態度で小さく息を吐いた。
「ちょっと泣かないで頂戴。あなたの為にわざわざこうして来てやってるんだから、湿っぽいのは勘弁してよ」
「……うん。ありがとう、リリス」
「どうしてそこでお礼言うのよ、あなたは」
呆れたと言う風に額に手を当てたりリスに、シェリルは泣き顔のままそれでも何とか笑顔を作ってみせる。
「言いたかっただけなの。だから、ありがとう」
再度そう口にしたシェリルを心底呆れ顔で見ていたリリスだったが、やがて観念したようにふっと表情を緩めて淡く微笑み返した。リリスの笑顔を受け取ったシェリルは次にセシリアへと視線を向けて、そのまま深く頭を下げる。
「セシリアさん。本当にお世話になりました」
「私は何もしていないわ。お礼を言うのは私たちの方」
シェリルの両手を優しく握りしめて、セシリアが姉のようにシェリルの体を抱き締める。
「あなたの勇気に私たちは何度も救われたわ。ありがとう、シェリル。その思いをいつまでも忘れないでね」
辛い事も悲しい事もたくさんあった。自分の宿命を呪い、その重さに押し潰されそうになった事もあった。けれどシェリルはここで、かけがえのない多くのものを得たような気がする。それは人生の宝物とも言える大切な思い出。決して色褪せる事のない宝石のように、シェリルの心にいつまでも鮮やかな記憶として残るだろう。
セシリアの腕を離れ、リリス、ルーヴァと順に顔を見つめて、シェリルが最後にもう一度だけ笑顔を浮かべた。
「……じゃあ、さよなら」
小さくはあったがはっきりとした声で別れの言葉を告げて、シェリルはアルディナの前へ歩を進めた。少し離れた場所で四人の別れを見守っていたアルディナが、やがて自分の方へと歩いてくるシェリルを見てかすかに微笑む。
「この世界を救ってくれてありがとう」
「そんな……アルディナ様」
「シェリル。いつの日か必ず、私はお前に最高の贈り物を届けると約束しよう。それはきっと、お前を幸せにしてくれる。それが、私からの礼の気持ちだ」
美しい微笑みを向けられて、シェリルはそれが何なのかも分からないままただ首を縦に振る。そんなシェリルにありがとうと静かに告げて、アルディナが右手に持った聖杖ムーンロッドを空高くに掲げた。
六つの飾り鈴が、青い空に澄んだ音色を響かせていく。それに導かれるようにしてシェリルの足元に白い線が現れ、まるで生き物のようにすうっと円を描き始めた。流水の如く石畳を滑る線は見る間に小規模な魔法陣を形成し、最後の線が重なり合った瞬間に淡い光に包まれる。その中に身を置くシェリルをも光で包み、魔法陣と外とを完全に切り離す薄い光の壁が、陣の外周から上へと滲み出ていた。
これで本当に最後だと思った瞬間に、シェリルの瞳から止めどなく涙が溢れ出す。最後までしっかりと目に焼き付けておこうとした光景は涙であっけなく歪み、シェリルは堪えきれずに顔を両手で覆って俯いた。
心配してかけられるルーヴァたちの声が遠くに聞こえる。けれどシェリルを下界へ連れ戻す魔法は中断される事なく、徐々にシェリルの体をそこから消し去ろうとしていた。最後まで皆の姿を見ておきたいと自分に強く言い聞かせ、シェリルが涙で濡れた顔を必死に上げたその瞬間。
「シェリル!」
愛しい声が、光の壁を突き破ってシェリルの耳にはっきりと届いた。反射的に声のした方へと視線を巡らせたシェリルの瞳に、きらりと光る一本の細い軌跡が映る。それは真っ直ぐにシェリルの元へ導かれ、魔法陣の光を通り抜けてシェリルの両手にしっかりと受け止められた。
「……カインっ」
見上げた空に、紫銀の髪をなびかせて笑うカインがいた。
それがシェリルの見た、最後の光景だった。
『お前の元へ帰ってくる。だから、待ってろ』
最後にカインから投げ渡されたのは、紫銀の小さな石がつけられた彼の羽根の首飾り。一枚の羽根に込められた溢れるくらいの愛情に、シェリルの瞳からまたひとつ涙の粒が零れ落ちる。
この羽根とカインの言葉があれば、シェリルはいつまでだって彼を待つ事が出来る。白い羽根にカインの姿を重ねて見て、シェリルは愛しそうに頬を寄せて口付けた。
「ずっと……ずっと待ってるから」
晴れ渡った青い空を見上げてそう呟いたシェリルは、やがてくるりと踵を返して自分の戻るべき場所、アルディナ神殿へと駆け出していった。




