最後の夜 2
「えっ? 明日帰る?」
カインが天界へ残ると聞かされたあの日から数日後、シェリルは部屋を訪れたルーヴァにそう告げて彼を驚かせた。
「うん。さっきね、アルディナ様にお願いしてきたの」
「それにしても急ですね。せっかくリリスと二人でパーティーの準備をあれこれ考えていたんですけど……まぁ、仕方ありませんか」
「ごめんなさい」
肩を竦めて笑うシェリルに、ルーヴァはあえてその理由を聞こうとはしなかった。
「それじゃあ今夜、シェリルのお別れパーティーを開くことにしましょう。急でたいした事は出来ませんけど」
「ううん、してくれるだけで十分。ありがとう、ルーヴァ」
そう言ってどこか寂しそうに微笑むシェリルを、ルーヴァは切ない思いで見つめていた。
日が西に沈み、天界を薄闇が包み始める頃、シェリルを迎えにカインが部屋を訪れていた。あの日以来一度も顔を合わせなかった為か、今夜久しぶりにカインを見たシェリルは言葉では言い表せない思いに胸を震わせていた。
たった数日顔を合わせなかっただけで、心はこんなにも不安で寂しく泣いている。それがカインを前にして、嘘のように消え失せる。会いたい気持ちを、カインを愛していると言う思いを再確認させられて、シェリルは思わず涙ぐんだ瞳を見られまいと慌ててカインから視線を逸らした。
どうにもできない。
ずっとそばにいたいと願うのに、シェリルの思いは叶わずに消えていく。言葉にすれば少しは楽になれるのに、口を開こうとすれば声より先に涙が溢れ出そうになる。シェリルに出来る事といえば、ただ黙って嗚咽を堪え、隣を歩くカインの手をぎゅっと強く握りしめる事だけだった。
ルーヴァの家に集まったのはセシリアとリリスの三人に加え、後から到着したシェリルとカインの五人だった。アルディナは、自分がいては堅苦しいだろうと気を利かせて、宮殿にひとり残ったのだと言う。
テーブルの上にはたくさんの料理が所狭しと並べられ、ルーヴァの家には珍しく数種類のワインも用意されていた。
「ルーヴァ、お酒以外の飲み物ってないの?」
どこをどう見てもそこにあるのはワインのボトルばかりで、シェリルが飲めそうなものはひとつも見当たらない。お酒について苦い記憶しかなかったシェリルは、ワインから目を逸らして他の飲み物を探そうと更に視線を泳がせた。
「今夜は特別にシェリル専用のワインを用意したんですよ」
いつもの倍、優しげな笑みを浮かべたルーヴァが一本のワインを棚から取り出して、どこか誇らしげにシェリルへと差し出した。青いボトルに銀のラベルが貼ってあったが、文字は天界の古代文字なのかシェリルにはさっぱり分からない。不安そうなシェリルをよそにルーヴァは慣れた手つきでコルクを抜き、グラスにワインを注いでそれをシェリルに手渡した。
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。これは一日限り有効の特別なワインですから」
「一日限り?」
「ええ。つまり今日だけ酔えるワインです。明日は絶対に二日酔いしません。シェリルの為に私が作ったんですよ」
その言葉に、グラスを取りかけていたシェリルの手がぴくんと震えた。
「大丈夫ですよ。別に変なものなんて入れてませんから、安心して飲んで下さい」
「香り付けに媚薬を少々……なんて言うんじゃないでしょうね? ルーヴァ」
ルーヴァの背後から声をかけてきたセシリアが、冗談交じりにそう言ってくすりと笑みを零した。いつかと同じ光景にシェリルも思わず笑い出す。
懐かしい談笑に包まれた、変わらない笑顔たち。忘れてしまわないようにしっかりと目を開いて、彼らを記憶の中に閉じ込めていく。零れ落ちそうになる涙を瞬きで押さえ込み、シェリルは持っていたグラスに口をつけてそのまま一気にワインを飲み干した。
「おあっ! 馬鹿かっ、お前。一気に飲んでどうすんだよ」
慌ててグラスを奪い取ったカインを抗議の眼差しで睨みつけて、シェリルが強引にグラスを奪い返す。そんな些細なやり取りでさえ懐かしい。
「いいの! 今日は特別なんだから、カインも浴びるほど飲めばいいじゃない」
拗ねた子供のように唇を尖らせてカインにグラスを握らせたシェリルが、そこにルビー色の液体を並々と注いでにこりと笑う。
「はい、乾杯」
自分のグラスを目線まで上げて小さく首を傾げたまま、シェリルはカインを見つめて淡く微笑みながら頷いた。
今夜くらいは楽しく行こうと思った。皆と一緒にいられる最後の日を、涙なんかで台無しにしたくはない。最後だからこそ、シェリルは笑っていようと思った。
夜も更け、暗い夜空にやっと昇った月は獣の爪のように細い三日月だった。それでも小さな星が月の代役を果たしていて、外は夜中とは思えないほど明るかった。
仄かな月明かりをぼんやりと見上げながら、シェリルはついさっき終わりを迎えたパーティーの余韻を静かに楽しんでいた。結局シェリルはルーヴァが特別に用意してくれたあのワインを、ひとりで半分ほど飲んでいた。元々アルコールは低かったのだろう。シェリルは我を忘れるほど酔っている訳ではなく、強いて言えばただ少しだけ頬が紅潮し心がふわりと軽くなる程度であった。
だがそれも、冷たい夜風に当れば一気に醒める。
「飲みすぎたんじゃないのか?」
ふいに声をかけられ、隣を歩くカインへと目を向けたシェリルは、小さく首を振ってまた顔を前に戻した。
「……平気。明日になればお酒も消えてるだろうし」
自分の声がかすかに震えている事に気付いて、シェリルは慌てて言葉を喉の奥に押し込んだ。視線を足元へ落として、深く息を吸い込んでみる。火照った体が内側から冷やされていくのを感じながら、シェリルはもう少しワインを飲んでおけばよかったと後悔した。
酔っていれば、その勢いで胸の奥の思いを口に出来たかもしれない。まだ辛うじて体に残るワインの力を借りて口を開こうとしてみるものの、帰路の先にある星の宮殿が近付くに連れてその勇気は相反するようにしぼんでいく。
二人が一緒にいられるのは、宮殿へ続く道の途中からシェリルの部屋までのたった数分間。その短い距離が二人にとって最後の時間だと分かっていても、シェリルは互いの足を止める言葉を何ひとつ口にする事が出来なかった。
宮殿内はしんと静まり返っていた。
明かりの灯された長い廊下を歩く二人の足音は絨毯に吸い込まれ、聞こえてくるのは自分の呼吸音だけだ。それも部屋が近付く度に途切れ、代わりに狂ったように鳴り響く鼓動がシェリルの耳元で煩いくらいに響いていた。
ルーヴァの家からここまで、結局会話らしいものは何も話さなかった。シェリルに残された最後の時間も、後数歩で確実に終わりを告げる。泣き出してしまいそうな自分を必死に抑え、シェリルは少し前を歩くカインの背中を縋るような眼差しで見つめていた。
言いたい事はたくさんあるのに、シェリルの唇はまるで凍ってしまったかのように少しも動かない。シェリルには、カインの気持ちが分からなかった。
「……――――どうして」
言葉は吐息のように零れ落ちた。瞬時に溶けて消える雪のように儚い声音は、けれど完全に消滅する前にカインの耳にはっきりと届く。開きかけた扉もそのままに後ろを振り返ったカインの前で、シェリルが俯いたまま小さな体を震わせて立ち竦んでいた。
「シェリル……」
「……どうして言ってくれないの」
俯いたシェリルの足元、青い絨毯にぽたぽたと次から次に雫が落ちて染みを作っていく。小刻みに動く肩が一段と大きく震えた。
「私を……守るって、言ったくせに……嘘つき。カインの嘘つきっ」
「……俺はここでお前を」
カインの言葉を遮って首を激しく左右に振ったシェリルが、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げて目の前のカインを睨みつけた。怒りからではなく、不安と悲しみに濡れた翡翠色の瞳に、カインが切なげに歪んで映る。
「私の孤独は、どこで癒せばいいのっ? ……こんな事ならっ」
言いかけて言葉に詰まる。その先を口に出してはいけないと分かっていても、シェリルはそう思わずにはいられなかった。シェリルがここへ戻ってきたのは別れる為ではなく、カインのそばにいたいと願ったから……だったと言うのに。
「言うな」
はっとして顔を上げたシェリルの体が、一瞬にしてカインの腕の中に引き寄せられた。反射的に逃れようと身を捩ったシェリルを更にきつく抱き締めて、カインはシェリルの自由を完全に奪い去る。
「それ以上は言わないでくれ」
呼吸さえ止まりそうなほど強く抱き締められ、その腕の力にカインの思いを感じ取ったシェリルが、縋るようにカインの両腕をぎゅっと握り締めた。
「だったら……カインが言ってよ。……どうして言ってくれないの」
さっきと同じ言葉を繰り返して、シェリルが腕の中からカインを真っ直ぐに見上げた。
「たった一言でいいの。それだけで……いいの」
「……シェリル」
「お願い……」
それは安易に口に出す事を躊躇われた言葉。その一言だけでシェリルの人生を潰してしまう可能性がある事を、カインは誰よりもよく知っていた。だからこそ、声に出して伝える事が出来なかった。何よりも一番に伝えたい言葉であったのに。
――――けれど。
シェリルは、それを望んだ。たったそれだけで不幸を招こうとしていた言葉は、カインの中で確かな希望へと生まれ変わる。
「……お願い、カイン。……言って」
その言葉は魔法の呪文。二人を結ぶ、確かな絆。
「……――――待ってろ」
唇から音が零れるより先にシェリルの体を強く抱き締めて、カインが再度シェリルと自分に魔法の呪文をかけ直す。
「俺はここで罪を償い……そして、いつか必ずお前の元へ戻る。だから……待ってろ。俺だけを待っててくれ」
「……――――うん」
小さく、けれど確かに頷いて、シェリルがカインの背中に腕を回す。応えるようにシェリルへ身を屈めたカインが、そのまま少し強引に互いの唇を重ね合わせた。
思いを確かめ合うように深く強く重なり合った二つの影は、いつまでも離れる事がなかった。




