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飛べない天使  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第6章 新しい物語
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罪の十字架 3

 中庭には五本の白い石柱と大理石の噴水、そして二人掛けの小さなテーブルと椅子が置いてあった。

 冬の陽光は儚げで、凍えた指先を温める事も出来ない。羽織ってきたショールで体をきゅっと包み込みながら、シェリルはぼんやりと中庭の中央に彫刻のように佇んでいた。吐き出す白い息を見つめながら、思考は過ぎ去った過去とこれからの未来を行ったり来たりしている。何も映さない虚ろな瞳が不安げに揺れていた。


 シェリルが目を覚ました時、世界を脅かしていた邪悪な闇の姿はどこにもなかった。激しい戦いにより見るも無惨に崩壊した天界の街並みや星の宮殿は、天使たちの力で素早く修復が成されている。同じように傷付いた下界の大地にも奇跡の光が降り注ぐのだろう。

 世界は救われたのだ。そう、シェリルはやるべき事を成し遂げた。落し子としての使命を果たしたシェリルは……もう、ここにいる理由がない。


「冴えない顔してるわね。まだ疲れてるの?」


 確実に訪れようとしている天界との別れに胸を痛め、物憂げに佇んでいたシェリルは、突然背後から聞こえた女の声にどきりとして弾かれたように後ろを振り返った。

 赤と黒の衣装がモノクロの冬の景色に鮮やかな色を落としていて、それだけで彼女の姿が引き立って見える。


「そんな所でぼーっと突っ立ってちゃ風邪引くわよ。さっさと部屋に戻りなさい」

「……リリス」


 胸に溜まった思いを口に出そうとして、シェリルが窺うようにリリスを見つめる。そんなシェリルの様子を訝しげに見ながら、リリスは綺麗に整った細い眉をむっと顰めた。


「リリス。私……まだ、戻りたくない」

「何言ってるの。風邪引くつもり?」

「そうじゃなくて……。私、下界に……」


 最後まで言えずに口を噤んだシェリルに、リリスは言葉の意味を悟って小さく溜息をついた。


「なぁに? あなた、うじうじ悩む性格は全然変わってないのね。少しは成長したかと思ったけど大間違いだったようね」

「そんな風に言わなくてもいいじゃない。……寂しいんだもの。皆と別れるなんて、嫌だもの」


 翡翠色の瞳を潤ませて今にも泣きそうな顔でそう言ったシェリルに、リリスはわざとらしく大げさに肩を竦めてみせる。そして急に真剣な表情を浮かべて、シェリルを真っ直ぐに見つめ返した。


「だけど、貴方が帰るべき場所はイルージュよ」


 声は冷たかったが厳しく諭すように言われて、シェリルはそれ以上何も言えずに唇をきつく噛み締めた。

 リリスは無責任な言葉を持たない。曖昧な優しさがどれだけ相手を傷つけるかを知っているから。

 シェリルは人間。天使たちの住む天界に残れるはずがない。どう足掻いても変えられぬ現実がそこにある限り、無責任な優しさなど相手にとって酷なだけだ。それが分かっていたから、リリスはあえてそう冷たく言い切ったのだ。


「世界を救った英雄が情けない顔するもんじゃないわ。……まぁ、気持ちは分からなくもないけど」


 腰と額に手を当ててはぁっと仕方なさそうに溜息をひとつ落としたりリスが、未だ俯いたままのシェリルをちらりと見て緩く首を横に振る。


「何も今すぐ帰れとは言ってないでしょ。お別れパーティーくらいはしてあげるから元気出しなさい」

「……うん」


 小さく頷いてやっと顔を上げたシェリルの額を軽く指で弾いて、リリスが呆れたようにふっと笑みを浮かべた。


「まったく、手のかかる英雄ね。早く部屋に戻らないと本当に風邪引くわよ」

「……ありがとう、リリス」

「あら、別に元気付けたつもりはないわよ」


 そう言って背を向け、宮殿内へ歩き出したりリスを見送りながら、シェリルは再度小さく「ありがとう」と口にした。


 中庭にひとり佇み、深く息を吸う。冷たい空気が体中を駆け巡っていくのを感じながら、シェリルは胸に手を当ててゆっくりと空を見上げた。

 少し曇った冬の青空。凍える風に誘われて空を舞い始めた白い雪が、シェリルの頬に落ちて溶ける。降り始めた雪と天使の羽根を重ねて見たシェリルが、苦しそうに表情を曇らせて目を閉じた。

 瞬間、脳裏に浮かんだ愛しい影に、シェリルは自然と彼の名を口にしていた。


「……カイン。カインは……」


 小さく呟かれた不安は、誰もいない中庭に静かに響いて消えた。






 シェリルをひとり中庭に残して先に宮殿内へ戻ったリリスは、青い絨毯の敷かれた長い廊下を歩きながらさっきシェリルが口にした言葉を思い出していた。


「寂しい……でしょうね」


 呟いて、無造作に髪をかきあげる。

 シェリルは下界へ、自分の場所へと戻らなくてはいけない。別れが確実であるならば、無駄に時間を引き延ばしても辛いだけだ。それを知っていて皆が口に出そうとしないのは……二人が人と天使だから。


「……辛いわね」


 吐息と共に言葉を落として、止まっていた足を動かそうとしたその時。


「俺は自分が壊したものを出来る限り再生させ、世界の復興に力を注ぎたいと思っている」


 立ち止まったリリスの右隣の部屋から、カインの声が聞こえてきた。


「アルディナ。お前と力を合わせれば、崩れ去り塵となった大地も元に戻せる事が可能だろう」

「確かにお前の力があれば可能だろうが……。しかしルシエル、お前はそれで本当にいいのか? 我らの力を合わせてもどれだけ時間がかかるか」

「地界神としての力を、世界の為に使いたい」


 向けられた真っ直ぐな瞳には一点の曇りも見当らない。そこにカインの固い決心を感じ、アルディナはそれ以上言う事をやめて一度だけ頷いた。カインがそう決めたのなら、アルディナはもう何も言う事はない。


「分かった。お前の力を借りよう」


 そう言って、アルディナが再度カインへと視線を投げかけた。心の奥まで見透かすような、鋭く、それでいてどこか優しい眼差しにカインの胸がどくんと鳴る。


「――もうひとつは?」

「もうひとつ?」

「お前の望みはそれだけか?」


 確信めいた口調で問われ、カインが思わず息を呑む。その様子に優しく微笑んだアルディナが、緩く首を振って言葉の続きを口にした。


「遠慮はするな、ルシエル。私はお前の願いを今度こそ叶えてやりたいと思っている。世界復興の申し出と、……それとお前の内に秘めたもうひとつの願いもな」


 何もかもを知って、それをすべて受け入れようとするアルディナの姿勢に、カインは自分がどれだけ愛されていたのかを知り胸が温かくなるのを感じた。

 その願いは決して容易く叶えられるものではない。今までの自分を捨て、新しく生きていく事は、二人にとって永遠の別れになり得るものであるから。

 それをアルディナは、叶えてやりたいと言った。今更ながらカインは、姉であり創世神であるアルディナの器の大きさを実感した。


「……――――すまない」

「お前の最後の願いになりそうだからな」


 気高く優しい微笑みを壊さないようにそっと触れて、カインは愛しい者を見つめるように熱を持つ視線をアルディナの瞳に絡ませる。


「……ありがとう」


 消えそうに小さく囁いて、カインはアルディナの体を両腕に強く抱き締めた。


「すべてが終わったら、俺を……――――」






 扉を開け、部屋から出てきたカインを待っていたのは、壁に寄りかかって腕を組んでいたリリスだった。特別に驚いた様子もなく前を通り過ぎていくカインを追って、リリスも足早に廊下を歩き出す。


「随分と思い切った事をするのね」


 その言葉だけで彼女が話を全部聴いていた事を知り、カインがぴたりと足を止めて隣のリリスへ視線を移した。


「あいつにはまだ言うな」

「分かってるわよ。あの子も貴方の口から聞きたいだろうし。……でも、早めに言う事ね」

「……そうだな」


 薄く笑って同意し、再び歩き出したカインの後ろ姿を見ながら、リリスは彼が放つ雰囲気に何か違う別のものを感じて驚いたように息を漏らした。

 ルシエルの人格を取り込んだ為であるのか、不良天使と呼ばれていた彼はいつもよりずっと落ち着いて見える。そしてそれ以前に、彼を変えたのがシェリルであるという事を思い出して、リリスは少し寂しそうに微笑んだ。


「昔の貴方なら女ひとりにそこまで気を使わなかったわよね。自由奔放な所が魅力でもあったけど。……そうね、今の方がよっぽど素敵よ。むかつくくらいにね」

「はぁ? 何でそこでむかつくんだよ」


 呆れたように、けれどどこか楽しそうに笑いながら、カインが背後のリリスへちらりと目を向けた瞬間。ブロンドの美女を捉えた視界が、ぐらりと前に傾いた。強引にリリスの方へ引き寄せられ、カインが言葉を発するよりも早く互いの唇が重なり合う。驚きに見開かれた瞳の中で、リリスが赤い唇を横に引いて艶っぽく笑った。


「置き土産にこれくらいはいいでしょ」


 昔、カインが惹かれた強気な微笑みを浮かべて、リリスはそのまま何事もなかったように先を歩いて行った。






 ――――すべてが終わったら。


 アルディナに告げた最後の願い。それがいつ叶うのかは、カイン自身にも分からなかった。

 けれど。


『俺を下界に降ろしてくれ』


 もう迷う事はない。


『俺の翼を、お前の手で切り落としてくれ』


 確かな思いはカインの中にあるのだから。


『限りある時間を、あいつと一緒に生きていきたい』


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