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飛べない天使  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第6章 新しい物語
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罪の十字架 1

 草原が陽光に溶けて歪んでいくのが見えた。

 足元が崩れ落ち、何もない虚無の空間に落下したのを覚えている。大きくて優しい手のひらに包まれた事を覚えている。深い眠りに落ちるかのごとく意識を失い始めたカインの耳に、弱く小さなシェリルの声が聞こえた。けれど何を言っているのかは分からなかった。

 草原の緑と光の白、シェリルの金とカインの銀。様々な色が入り乱れ溶け合い落ちていく中で、カインはシェリルを手放してしまわないように彼女を抱く腕にぎゅっと力を込める。カインに必要なのは、ただそれだけだった。






 弾かれたように、がばっと身を起こした。目を開けると同時に体を起こした為、カインは一瞬軽い眩暈を覚えてそのままベッドの上から床へと転げ落ちそうになる。その体を受け止めたのは、アルディナだった。


「……アル……?」


 夢の名残に意識を奪われているわけではなかった。目は冴えていた。意識もはっきりしている。ただ状況が上手く把握できていなかった。しかし自分を見つめるアルディナの優しい眼差しに、カインはそれまでの思いを無意識に解放し、胸がじわりと熱くなるのを感じていた。


「長かったな」


 たった一言だけ、けれど失われていた二人の空白を埋めるにはそれだけで十分だった。


「おかえり、ルシエル」


 カインの手を包み込んで、アルディナが姉としての微笑みを弟へと向けた。


「アルディナ。……――迷惑をかけてすまない。……姉さん」

「お前が戻ってきた。それだけで私は救われている」

「……」

「私は救われた。お前も救われてここに居る。では誰が我ら姉弟を、そして世界を救った? 名を、忘れた訳ではないだろう?」


 はっと顔を上げたカインに、アルディナが頷いてベッド脇から身を引いた。


「隣の部屋にいる。目を覚まさせてやってくれ。……お前にしか出来ない」


 抑えきれない衝動が全身を駆け巡っていくのが分かった。意識の果てで消えない熱が甦る。何があっても決して放さないと、腕に強く抱いた愛しい温もり。その感触に急きたてられるかのように、カインは勢いよくベッドから飛び出した。

 荒々しく開かれた扉の向こうに消えていくカインを見送りながら、アルディナは未だ目を覚まさない「死んだ」シェリルを思い浮かべて少しだけ表情を曇らせる。しかしその翳りは一瞬で、カインの中に確かに息づくシェリルの魂に、アルディナは何の迷いもなく最後の奇跡を感じていた。






 部屋の中は薄暗かった。

 中央のテーブルに置かれたランプの灯りだけが室内唯一の光源で、シェリルはその淡いオレンジの光にぼんやりと照らされたままベッドの上に静かに横たわっていた。血の気のない青白い肌がやけにくっきりと浮かび上がっている。あまりの白さに一瞬胸をどきりとさせたカインだったが、やがてゆっくりと中へ足を踏み入れ、シェリルの眠るベッドの上に腰を下ろした。


「……シェリル」


 吐息のように小さな声で囁いて、カインがシェリルの頬を左手で包み込んだ。記憶を辿り、思い出される草原の夢。そこにいたシェリルは、ここにある体よりもずっと温かな熱を持っていた。夢ではなくあれは現実で、カインは確かにシェリルを抱いた。シェリルの魂に触れたという実感に、カインの体が大きく震える。


「次はお前の番だ。……シェリル、聞こえてるんだろう?」


 ベッドに横たわるシェリルではなく、カインは自分の胸にもう片方の手を当てて語りかけるように呟いた。自分の言葉に、心の奥がざわりと騒ぐ。それを敏感に感じ取ったカインは、シェリルの魂が自分の中にある事を確信した。


「悪い夢は終わった」


 囁いてシェリルの体を抱き起こし、カインはまるでそうすべきである事を知っていたかのように、ゆっくりとシェリルへ唇を寄せた。シェリルの名を呼ぶカインの声は、重なり合った唇に溶けて消えた。






 白い花の匂いが続いていた。

 遠い夢の中で嗅いだ、あの香り。懐かしさを感じるのはどうしてだろう。


「…………――――どうして」


 最初に口から零れた言葉はそれだった。いるはずのない人物をぼんやりと視界に捉え、シェリルは未だはっきりとしない意識の中に疑問の答えを探そうとする。

 瞬きしても消えない幻影。重なり合った遠い日の瞳。触れる事すら叶わなかった愛しい熱が自分の体を包んでいる事も、シェリルはすぐに理解する事が出来なかった。

 どうしてこんなにも胸が締め付けられるのだろう。悲しいわけではないのに、涙が溢れて止まらないのは……なぜ?


「不満か?」


 冗談めいた懐かしいカインの声音に、シェリルの瞳から涙の粒がぼろぼろと零れ落ちる。愛しいカインの声。もうずっと長い間、耳にしていなかった気がする。


「……っ」


 名前を呼ぼうとして言葉に詰まる。込み上げてくる嗚咽を堪えきれないまま、シェリルは首を横に振ってカインの冗談を何度も否定した。

 不満な訳がない。ずっとカインのそばに戻りたいと願っていたのだから。ただ自分に起こった奇跡を信じられなかっただけで、けれど重なり合った互いの鼓動音にシェリルは現実を疑う余地がない事を知った。

 自分は生きている。そしてカインも生きてここにいる。もう、それだけでいい。


「……――――呼んで」


 抱き締められた腕の中で、シェリルがカインの胸に頬をすり寄せながら呟いた。夢でもなく、ルシエルでもない、カイン自身の声で名を呼んで欲しかった。カインの声を聞いていたかった。


「シェリル」


 シェリルの耳元に唇を寄せてカインが囁く。その音に目を閉じ、聞こえてくる鼓動をもっと近くに感じようと、シェリルがカインにぎゅっとしがみ付いた。


「もっと呼んで」

「シェリル。……シェリル、何度だって呼んでやる」

「もっと……。カインの声が、聞きたい」


 言って顔を上げたシェリルが、涙を零しながら嬉しそうに微笑んだ。あの雪の日の別れ以来、一度も重なり合う事のなかった互いの熱。離れていた時間を埋めるように絡まりあう視線と吐息。そして二人は引き寄せられるかのように顔を寄せ、静かに、けれど熱く唇を重ね合わせた。


 窓の外では闇の物語が終わり、白み始めた空と共に昇る朝日が新しい物語の幕開けを告げていた。

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