彷徨う心 1
昨夜から降り続いていた雨は朝方にやっと止み、天界と下界は久方ぶりの太陽の光に包まれていた。闇を吹き飛ばす陽光の下、邪悪なる影はどこにもない。
いつもと同じように太陽は昇り、そして沈む。己の下に広がる荒廃した世界など、気にも止めないまま。
天界を汚した毒々しい赤は雨に流され、動かなくなった体だけが冷たい石畳の上に散乱していた。広場に集められた天使たちの亡骸は女神の手によって輪廻の流れへと送り出され、彼らを弔う讃美歌が天界に絶え間なく響いていく。その歌を荒野の真ん中でひとり聞いていたルーヴァはやり切れない思いを胸に抱いたまま、瞳をきつく閉じて緩く首を振った。
はるか昔から続いていた光と闇の戦いは幕を下ろした。闇は光を覆う事が出来ずに消滅し、世界は再び平和を取り戻した。しかし、失ったものは決して少なくはない。
多くの天使たちが闇に飲み込まれていった。下界イルージュも、一部は激しい地震により大地がばっくりと引き裂かれている。生き残った天使たちも今回の避けられぬ戦いにひどく心を病み、一部のものは激しい憤りさえ感じていた。
失ったものは戻らない。ルーヴァたちに出来る事といえば、このような悲劇を繰り返さぬよう世界を静かに見守る事だけだった。
しかし、そう簡単に割り切れるものではない。誰かが犠牲にならなければ救えない世界、そんな話ではなかった。これはすべてを救う為に、それぞれが身を投じた戦いであったはずだ。誰かの死によって成り立つ世界ではなかったはずなのに。
それなのにシェリルは死に、カインは自我を失った。親しい者たちの無惨な結末にルーヴァは現実を呪い、知りうる限りの知識でそれを否定しようとしていた。
「こんな所にいたのね。探したわ」
頭上から届いた声に、ルーヴァが閉じていた瞳を静かに開く。荒れ果てた大地を映す悲しい瞳が、空から舞い降りたリリスを無感情に見つめていた。
「ここも緑の芽吹く大地になるそうよ」
荒野を見回してそう言ったリリスを一目見ただけで、ルーヴァはまた視線を遠くへ投げかける。瞳は何も映さない。何の音も拾えない。けれどルーヴァの細胞ひとつひとつが、昨夜の悲劇を彼の脳裏にありありと甦らせていく。
冷たく動かないシェリルの体。狂い泣き叫ぶだけのカイン。死を呼ぶカインの絶叫が、まだルーヴァの耳の奥で木霊しているようだった。
「リリス。……すみませんが、暫くひとりにしてくれませんか?」
曖昧な視線を遠くへ投げかけたまま、ルーヴァがリリスを見ずに小さく呟いた。その言葉にあからさまむっと眉をつり上げて、リリスは隣のルーヴァをぎろりと睨みつける。
「ルーヴァ、あなた私の事そこまで無神経な女だと思ってるの? 特別な用事じゃなかったら探しになんか来なかったわ。……誰だって、辛いんだから」
怒鳴るようなリリスの声音。そこにかすかな震えを感じて、ルーヴァが目を覚ましたようにリリスへと顔を向けた。辛いのはルーヴァだけではない。悲しみに浸り現実から逃げていた事を教えられ、ルーヴァは自分を強く恥じる。
出来る事はまだどこかに残されているはずだ。死んでしまった者の魂を呼び戻す事は、天使であろうと出来るものではない。けれど、閉ざされてしまった心に呼びかける事は出来る。心が完全に戻る事はないのかもしれない。しかしカインはまだ「生きて」いる。そこに僅かでも希望が残されているなら、ルーヴァたちはそれを簡単に放棄してはいけないのだ。
「すみません、リリス。……ありがとう」
「腑抜けた貴方をアルディナ様の所へなんか連れて行けないでしょう? それだけの事よ」
「アルディナ様? ……何か、あったんですか?」
繰り返し尋ねたルーヴァへ顔を向けて、リリスが肯定の意を表してこくりと頷いた。
「戦いの後、どこを探しても魔剣フロスティアが見当たらないの。それと……」
言葉を切ったりリスを訝しげに見つめるルーヴァの前で、リリスは緩く首を振って溜息をついた。
「シェリルの魂も、消えてしまったわ」
「どういう事ですか? アルディナ様」
白い壁に囲まれた冷たい空間に、セシリアの声が木霊する。それほどまでにこの地下室はしんと静まり返っていた。
壁に刻まれた神聖文字が未だ青白く光を放つここは、女神アルディナが深い眠りについていた場所だ。カインとシェリルをかけらの元へ導いた二つの魔法陣は消滅し、代わりに現れた金色の魔法陣が部屋の中央で淡い光を放っている。その中に横たわるシェリルの体は、けれどやっぱり少しも動く事はなかった。
「シェリルの魂がどこにもないと言ったのだ。転生の儀を行おうと魂の気を探っても、何も感じない。天界は勿論、地界と下界そのどこにもシェリルの魂を見つけ出す事は出来なかった」
「魂の消滅? ……そんな事が」
あるはずがないと呟いて、セシリアは口元に手を当てたまま難しい顔をして黙り込む。
命ある者は例えそれがどんな存在であろうと、生と死の終わりなき輪廻に導かれている。朽ち果てた肉体を離れた魂は新しい器を得て、新しい時代を新しい存在で歩んでいくのだ。それは女神の手によって行われる転生の儀式によって繰り返されている。
そう、人も天使も器は死ぬ。しかし魂は未来永劫生き続けるのだ。変わらない、変える事の出来ない自然の理。
それがなぜ、シェリルの魂だけが消滅してしまったのか。それほどまでにルシエルの、闇の力は邪悪であったと言うのか。ルシエルの心に触れたシェリルの魂そのものを消し去ってしまうほどに。
「もうひとつ、消えたものがある」
低い声音で静かに呟かれたアルディナの言葉に、セシリアが顔を上げて息を呑む。
「……魔剣フロスティア、ですね」
怯えた口調で呟いて僅かに表情を曇らせたセシリアに、アルディナがこくりと静かに頷いた。
「フロスティアはルシエルの孤独が生み出した忌まわしき産物。ルシエルが闇の王として振るってきた暗黒の力の集合体なのだ。魔剣を得てルシエルは闇の王に成り代わり、そして闇は魔剣に渦巻くルシエルの孤独を糧として力を増す」
「すべてを繋ぐ鍵……だったのですね」
「あれがある限り、ルシエルの心の闇は消えない。狡猾な奴等はそれを利用し、ルシエルを再び闇の王に仕立て上げるだろう」
奴等と聞いて、セシリアがぎくんと体を震わせた。セシリアが何を言いたいのか、その表情だけですべてを悟ったアルディナが悲しげに目を伏せて、床に横たわるシェリルへと目を落す。
「闇はまだカインの内に潜んでいる」
「そんな! あれほどの犠牲を出しておきながら、闇はまだ消滅していないと仰るのですかっ」
世界救済の代償として、セシリアたちはかけがえのないものを失った。だと言うのに、一番の敵である闇が未だ存在していると言う事実に、セシリアは憤りを感じずにいられなかった。
「闇の排除には、魔剣の消滅が絶対条件だ。……ルシエルの孤独を癒せるのは、シェリルしかいないと思った。だがシェリルは死に、魔剣も行方知れず。残された我らに出来る事は少ない」
シェリルからセシリアへ視線を戻して、アルディナが小さくけれどはっきりとした声で言った。
「魔剣をルシエルに渡してはならぬ」
消えない残響。
途切れない記憶。
狂おしいほどに求めたはずの熱でさえ、彼の指を拒み逝くように冷めてしまった。
木霊する声の向こうに、戻らない夢。犯した罪を償う前に、汚れた両手は血に染まる。繰り返し再生される魂の慟哭を無感情に聞きながら、男は色のない瞳を窓の外へ向けていた。壊れた硝子玉の瞳には、晴れ渡った青空を自由に飛んで行く二羽の白い鳥が……歪んで映っていた。
「……カイン。貴方はこれで終わりですか? もう戻っては来れないんですか?」
星の宮殿の一室。窓辺に置かれた椅子に腰掛けたまま、カインはどこまでも続く青空をぼんやりと見上げていた。見つめると言うよりはただ顔をそちらに向けているだけで、実際にカインはただの一度も瞬きをしていない。まるで良く出来た人形のように、息すら殺してそこにいる。そんなカインを正面から見つめて、ルーヴァが再度優しさを含む静かな声音で語りかけた。
「シェリルの魂が消滅しました。……けれど、私はこう思うのですよ。シェリルは貴方の中にいるのだと」
消えそうに儚い笑みを浮かべて、ルーヴァはそっと目を伏せる。そうあってほしいと願いながら。
「ルーヴァ」
名を呼ばれ振り返った先に、セシリアが立っていた。転移魔法で来たのだろう、部屋の扉は閉じたままになっている。
「アルディナ様が待っているわ。行きましょう」
「……えぇ」
小さく返事をして頷くと、ルーヴァは沈みかけていた己の気持ちを入れ替える為に深く息を吸い込んだ。
「カイン。……また来ます」
そう言い残して部屋から出て行ったルーヴァとセシリアに、カインは最後まで目を向ける事はなかった。
「どこから探すんですか?」
部屋を出て長い廊下を歩きながら、ルーヴァがセシリアへと尋ねた。
「可能性が一番高い地界ガルディオスは消滅してしまったわ。けれどその際に時空が歪み、一部が下界イルージュと繋がったらしいの。だから」
「まずは下界からと言う事ですね」
「イルージュは広いわ。貴方と私、そしてリリスで手分けして探した方がよさそうね」
遠くなる二人の声が完全に消えてしまっても、カインは少しも動く事はなかった。人形のように椅子に座り、息をせずに空を見上げる。壊れた硝子玉を思わせる虚ろな瞳、そこに映る白い鳥の残像が……ゆらりと揺らめいた。
『シェリルの魂が消滅しました』
――――消……滅? 魂?
『けれど私はこう思うのですよ。シェリルは貴方の中にいるのだと』
――――シェリ、ル?
歪んだ視界に捕われた、白く小さな二羽の鳥。
『忘れないで。カイン』
小さな羽根だけを残して、カインの視界から遠く彼方へと飛び去っていく。
「……――――シェリル」
かすかに色を取り戻した瞳の中には、小鳥を奪った青空が静かに映し出されていた。
カインの身の回りの世話を任されたひとりの天使が異変に気付いたのは、それから暫く経った後の事である。
時が止まった静寂の一室。そこに、カインの姿はどこにもなかった。




