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飛べない天使  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第6章 新しい物語
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狂神 3

 泣いていた。

 目の前で崩れ落ちた華奢な体を両腕にかき抱いて、男はただ激しく咽び泣いていた。

 白い体は毒々しい赤に汚れてしまった。翡翠色の瞳は、もう二度と男の姿を映し出す事はなかった。


 男は、女を殺した。

 血に濡れたその手で、もっとも美しい命を殺めてしまった。


「いっ……。……リルっ。シェ……リルっ!」


 強く抱き締めても、幾度となく名前を呼んでも、シェリルはカインに応える事はなかった。慰めにもならない弱い体温と異常なまでに濃い血臭がカインの腕の中にあるだけで、運命は奇跡を起こす事なくただカインに残酷な現実を知らしめている。それを否定しようと目を背けても、カインは腕に抱いた熱が徐々に消えていくのを無視する事が出来なかった。


「……嘘だっ……。こんな……こんなっ!」


 嗚咽と共に声を漏らし、カインがシェリルに頬を寄せる。触れ合ったシェリルの肌に、熱はもうなかった。


「シェ……リ、ル。……シェリルっ!」


 舞い散った羽根と鮮血の花が、脳裏から消えてはくれない。右手に染み付いた絶望的な感触が、消えてはくれない。

 カインは、シェリルを殺した。


「う……あっ」


 守ると誓ったシェリルを殺した。


「うあああああっ!」


 耳を劈くカインの悲痛な絶叫に耐え切れず、地界という空間そのものが歪み、捩れ、軋み始める。漂う漆黒の闇でさえ粉々に引き裂かれ、地界はまるでカインの心を表すかのように止まる気配なく崩れ落ちていった。


 ――――俺は、望むべきじゃなかった。


 落下する空の破片からシェリルを守るように、その体をもっと強く腕に抱いたカインが、身を屈めシェリルの頬に顔を寄せる。


 ――――手にすべき光ではないと、分かっていたのに。


 軋む地界の悲鳴に紛れて、カインの中で忌まわしい闇の声がした。けれどカインは、その声に耳を傾ける事はなかった。今のカインを満たすものは計り知れない悲しみだけで、そこに闇が入り込む余地などどこにもない。


『我らが堕ちるだとっ? こんな奴の意識に吸収されるなど……認めぬっ!』


 カインの中で必死に足掻く闇の意識は、けれど初めての誤算に対処する方法も見つけられないまま、出口を探して闇雲に暴れまわる。


『この体に残るのは我らだ! こんな所で堕ちるはずがない。我らが負けるなど!』


 ――――もう、何も聞きたくない。


 己の内にある闇を巻き込みながら、カインの意識が悲しみの渦に自ら望んで落ちていく。その先には何もなかった。深い絶望ゆえに己が存在する術さえ失い、カインは闇と共に落ちて、崩れて、消滅する。


 ――――俺はもう……消えてしまいたい。


 カインの中で、カインと闇の意識が完全に消えた。





 天界が大きく左右に揺れ動いた。次いで轟く雷鳴に大気がびりびりと震動し、導かれるようにして鋭い稲妻が暗い夜空を縦真っ二つに引き裂いていく。

 耳を劈く雷鳴、その残響に紛れて、地底深くから絶望に満ちた声ともつかぬ絶叫が木霊した。


「離れろっ!」


 アルディナの厳しい声音に、そこにいた魔道士たち全員が意味も分からず空へと避難する。その中でただひとり、セシリアだけがアルディナの側を離れようとはしなかった。


「アルディナ様。一体何が……。シェリルは」

「説明は後だ。……――――ルシエルが、来るっ!」


 セシリアの言葉を強い視線で押さえ込み、アルディナが有無を言わさずセシリアの腕を掴んで上空へと駆け上がった。その瞬間、アルディナがいた場所、地界への入口である荒野の真ん中が地底からぼこりっと押し上げられたかと思うと、そのまま間を空けず一気に爆発した。

 爆風にあおられ舞い上がる砂塵。何が起こったのか確かめようとしたセシリアは、土煙に覆われた視界にゆらりと現れた人影を見てはっと息を呑む。


「……あぁ、カイン。……嘘でしょう」


 弱々しく呟いたセシリアの視線の先、そこに血まみれのシェリルを抱いたカインの姿があった。


「うああああっ!」


 悲痛な叫びはただそれだけで大地を割り、風を止め、緑を枯らした。天界は脆い部分から崩れ、見る間に塵と化していく。聞いたものの命を奪いかねないその声は、人のみならず天界をも消し去ろうとしていた。

 強大で異常な魔力の渦に耐え切れず、天使たちは武器を捨て、両手で耳を塞ぎながら次々とその場に蹲った。ありとあらゆる命を奪う呪いの絶叫、それは闇の王が振るう力に似てはいたが、根源はまったく違うものだった。

 闇の力は破壊し、奪い、支配を求める力。対して、今天界を崩壊させている力は、完全な「無」であった。何も求めないその力に意味などひとつも存在しない。力を振るう本人でさえまったくの無意識であり、行き場を失った力だけが意味を持たぬまま暴走していた。

 カインの体は、シェリルを失った悲しみにただ嘆き喚くだけ。その悲しみが力を持ち、天界を消し去ろうとしていても、カインにはもうどうする事も出来なかった。その体に、意思などかけらも残っていないのだから。


「何なのっ、これ!」


 たった一瞬で急変した事態にただ驚くばかりだったリリスが、無の力を孕む絶叫に耳を塞いで悪態をついた。リリスの横でルーヴァは耳を塞ぐ事もせず、鋭い視線を周囲に素早くめぐらせる。その視界に探していた黒い人影を確認するや否や、ルーヴァは翼を広げて右手に三本の短剣を握りしめた。


「ちょ……ルーヴァ?」


 ルーヴァの様子に驚いたリリスが何も分からないまま、彼の後を追おうと背中の翼を大きく羽ばたかせた。


「来るな!」


 今までにないくらい強い口調で行動を制止され、リリスが見て分かるほどびくんと震えて目の前のルーヴァを凝視した。


「ルーヴァ?」

「いくら君でも、敵う相手じゃない」


 厳しく言い切って、ルーヴァはそのままリリスの返事も待たずに空を更に上へと駆け上がっていった。ただ無言でルーヴァの行き先を目で追ったりリスは、そこに揺らめく漆黒の影を見つけて再度ぎくりと体を震わせる。


「……カイン」


 零れ落ちた音は、天界を蝕む彼の絶叫によってかき消されてしまった。




 希望と絶望を胸に抱いて、ルーヴァははるか上空に現れたカインを見上げた。黒い瘴気を纏い、その全身は確認できなかったが、揺れる影の隙間からかすかに覗く、彼の持ち得ない色彩がルーヴァの目にははっきりと映っていた。

 光の白。乙女を象る眩しい金。それがルーヴァの心を激しく急きたてていた。


(こんなのは貴方らしくないっ!)


 ぎりっと歯を食いしばって、ルーヴァが目の前のカインを鋭い眼差しで睨みつけた。ルーヴァは戦士であった頃のカインを誰よりもよく知っている。どんな窮地に立たされてもカインは決して諦めず、いつも自力で道を切り開いてきた。自分に自信を持ち続けてきた彼が、弱音を吐く事は絶対にありえない。ましてや敵に屈するなど、問題外だったはずだ。それなのに。

 目の前で惨めな姿を曝け出すカインに、ルーヴァは激しい苛立ちと切なさを感じてきゅっと唇を噛み締めた。


「カインっ! ……貴方はどこにいるんですかっ」


 そう叫んでみるもののまったく反応しないカインの様子に、ルーヴァはいつもの冷静さを欠いて徐々に焦り始める。

 天界は崩壊する速度を緩めず、呪いの叫びは下界にまで影響を及ぼすだろう。唯一の希望であったシェリルは、カインの腕に捕われたまま身動きひとつしない。それが何より心配だった。


「カインっ!」


 再度名を呼んで、ルーヴァは持っていた短剣のひとつをカインめがけて勢いよく投げつけた。カインの注意を引きつける為だけに投げられた短剣は、白い風を絡ませながら、まるで矢のように真っ直ぐ飛んでいく。その隙にルーヴァはカインの背後へと回り、彼からシェリルを奪い返すつもりだった。

 カインであるならば、簡単に避けられるはずだった短剣。しかしそれは的を外す事なく、ルーヴァの思惑を無視して、カインの左腕に深く突き刺さった。


「なっ……」


 驚いて目を見開くルーヴァの前でカインの中から金色の人影がずるりと滑り落ち、暗い空に投げ出された。


「あああああっ!」


 シェリルを失い、カインの声が力を増す。その声にはっと我に返ったルーヴァは、カインの背後へ回ろうとしていた体を素早く方向転換させ、石のように落下していくシェリルの元へ急降下した。空中で何とかシェリルを捕まえたルーヴァは、その体の異様な冷たさにぎくんと震えて硬直する。


「……シェ、リル?」


 完全に失われた熱。腕に感じる異常な重み。蒼白く凍った頬を、そして胸元を染め上げたおびただしい量の血痕。


「まさか……そんな。……シェリル。シェリルっ!」


 強く名を呼んでも、返事はない。シェリルの状態を一目見ただけで、ルーヴァは医者として彼女の死を冷静に判断する。しかし、変わる事のない確かな現実が自分の腕の中にあっても、ルーヴァは息をしないシェリルの運命をすぐには認める事が出来なかった。


「……シェリルっ」


 弱々しく名を呼んで、ルーヴァはぎゅっときつく目と閉じた。


(こんなっ……こんな事が……あっていい筈がないっ)


 心の奥で叫びながら、ルーヴァは首を振る。カインの放つ異常な力。それがシェリルを失ったカインの悲しみによって暴走したものだと言う事を知り、ルーヴァの胸は痛いほどひどく締め付けられる。

 シェリルが死に、カインが狂った。二人を救う方法は、もう何ひとつ残されていない。


(こんな結末っ……僕は認めない!)


「うああああっ!」


 真後ろで、カインの絶叫が木霊した。はっとして振り返ったルーヴァの真横を、カインの腕が空振りする。


「カインっ?」

「あああああっ!」


 カインは相変わらず叫び続けるだけだったが、その行動に僅かな変化が生じていた。シェリルを抱えたまま上空へ移動するルーヴァを追って、カインも空を駆け上がる。さっきは何をしても無反応だったカインが、シェリルを奪われただけで焦ったようにルーヴァへ飛び掛ってきた。まるで大切なものを奪われた子供のように激しく泣き叫びながら、必死になってシェリルを取り戻そうとする。


「カインっ! カイン……シェリルは、もう……」


 その続きを口にするのは、例えルーヴァであっても躊躇われた。きっとカインには誰の言葉も聞こえないのだろう。けれど傷付いた彼を更に追い詰める言葉でしかないそれを、ルーヴァは喉の奥に押し込んで殺した。


「目を覚まして下さい、カイン! ……そんな貴方は見たくありませんっ」


 今にも泣きそうな顔を向けてそう叫んだルーヴァが、カインの腕を難なく避けて身を引いた。その距離を慌てて縮めようとしたカインの目の前、視界からルーヴァとシェリルを覆い隠すようにして現れた金色の風が、完全にカインの行く手を遮った。


「――――すまぬ、ルシエル」


 声と共に、澄んだ鈴の音が暗い夜空に響き渡る。

 ――瞬間。大きく見開かれたカインの瞳の中で、アルディナが手にした聖杖を勢いよく振り下ろした。






 ――――りぃん。


 物悲しい鈴の音が聞こえていた。ずっと……ずっと遠くから。

 俺を戒めるように、鳴り響いていた。






 激しく降り続いていた雨は、小雨に変わっていた。雨をどれだけ吸っても決して潤う事のない荒野の真ん中に、紫銀のムーンロッドが突き刺さっていた。

 雨に濡れ、涙を流すその聖杖は、狂った神の胸を貫いて、彼の体を荒野に留める枷となる。


 天界は、異様な静けさに包まれていた。




 聖杖に胸を貫かれたまま、カインは荒野の真ん中に横たわっていた。聖杖に力を奪われ、声はもう出ない。体も動かない。ただ双眸だけが、虚ろに空を見上げていた。

 彼を殺す為ではなく、その叫びを止める為に用いられた銀の聖杖。しかし「カイン」はもう二度と目を覚ます事はなかった。




 闇との戦いの末に残ったものは、崩壊を免れた天界と傷付いた天使たち。

 そして、抜け殻のようになってしまった、かつての闇の王カインだけだった。

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