母子の絆 2
闇のはるか遠くで何かが崩れ落ちていく音を聞いたシェリルが、ぎくんと震えて顔を上げた。瞳に映った空間の亀裂はあっという間に蜘蛛の巣状に張り巡らされ、端からぱらぱらと剥がれ落ちていく。ディランの悪夢が終わろうとしている事を知り、シェリルはほっと息をつくと同時に慌てて辺りを見回した。
ディランの悪夢は終わる。悪夢を増殖し続けたこの空間も、存在理由を失い消滅する。そこに残されたままのシェリルたちは……。
「ディラン! ここは消えてしまうわっ。早く逃げないと……」
叫んでシェリルが家の扉に手をかけた瞬間、足元の闇がぐらりと大きく左右に揺れた。バランスを崩したシェリルの体が木作りの扉に支えられたのも束の間、今度はその家全体が罅割れた鏡のように鋭い亀裂を走らせる。びきびきっと太い音を響かせて割れていく家を目の当たりにして、シェリルが小さく悲鳴を上げた。
「ディランっ!」
今もその中にいる母子を求めるように手を伸ばしたシェリルの足元が、罅割れた家より先に崩壊する。足場を完全に失い、シェリルの体は崩れた闇の破片と共に、歪んだ時空の彼方へ飲み込まれようとしていた。
「きゃあっ!」
底の見えない奈落へ引きずられていくような感覚に心まで震わせながら、シェリルは何とかこの渦の中から抜け出そうと必死にもがいて手を伸ばす。逃げたいと叫ぶシェリルの心に同調して、背中から飛び出した純白の翼が大きく羽ばたいたその瞬間。
「翼なんて邪魔なだけよ。しまいなさい」
どこかで聞いた事のある声がシェリルの耳にはっきりと届いた。と同時にもがいていた片腕を何者かによって捕まれ、シェリルはそのままくんっと真上へ引き寄せられる。未だ忙しく動く翼の向こうに、見覚えのあるブロンドが揺れていた。
「……リ、リス?」
自分を助けてくれた存在を確認するや否や、シェリルがその翡翠色の瞳をめいっぱい大きく見開いた。凝視したままの視界の中では、リリスの顔を激しく打ち付けている自分の翼が映っていたのだが、突然の、しかも思ってもみないリリスの登場にただ驚くばかりのシェリルがそれに気付くのは難しかった。
「どうしてここに……」
「ちょっと、痛いわよ! さっさと翼をしまいなさいっ。それともこの手を離してほしいの?」
自分の翼がリリスを攻撃している事にやっと気付いたシェリルが、あっと小さく声を漏らして翼を背中にしまいこむ。
「ごめんなさいっ」
「アルディナ様の力を受け継いだようだけど、中身はまったく成長してないのね。身を守る結界くらい作れるようになりなさいよ」
はあっと呆れたように大きな溜息をついて、リリスがシェリルの腕から手を離す。空間を覆っていた闇は恐ろしい速さで時空の歪みに吸い込まれていると言うのに、二人の周りだけは完全に切り離されたように無風状態を保っている。まるで荒れ狂う海を別の空間から傍観しているようだった。
「結界……リリスが? ……ありがとう」
「人の夢の中でぎゃあぎゃあ騒ぐあなたが煩かっただけよ」
「夢? でもここはディランの悪夢よ? どうしてリリスが……」
「さぁ。ここにいたんだから仕方ないでしょ。何がどうなってるのか、私にもさっぱり解らないわよ」
崩れ行く空間を肩を竦めながら見ていたリリスが、その視線の先に古びた家の残骸を見つけて少し悲しげに目を伏せた。
「……でも多分、同じ闇に捕われていたからじゃない? 私と、あの子は」
その瞬間、時空の渦に引き寄せられていたディランの家が、激しい衝撃に耐え切れず硝子のように砕け散った。粉々に砕けた家の中から亜麻色に輝く柔らかな光が飛び出し、それは闇を泳ぐようにゆらゆら揺れながらシェリルたちの目の前まで近付いてきた。その光が誰であるのか、シェリルには解っていた。
「最後まで見届けなさい」
「リリス」
「あの子と母親が救われる瞬間よ」
リリスの言葉にシェリルの胸がじんと熱くなる。
愛を知らずに育った少年ディラン。彼がその小さな手にやっと掴んだ幸せは、もう二度とディランを裏切りはしないだろう。くるくると円を描く亜麻色の光の中に少年を抱く母親の姿を見て、シェリルはそう強く確信する。
「ディラン。……良かったね」
唇から零れ落ちたシェリルの言葉を受け取って、ディランとエリザを包む光が応えるように一度だけ大きく光り輝いた。
『ありがとう、お姉ちゃん』
ディランの声を耳のすぐ側で聞いたような気がして、シェリルが暗闇だけの空を仰ぎ見る。その視線を追うようにして、亜麻色の光が一気に空へと駆け上がった。辺りに残った悪夢のかけらを吹き飛ばし、崩れかけた空間に一筋の軌跡を描く亜麻色は、シェリルの見守る中で完全に闇を突き破って光ある世界へ消えていく。それがシェリルの見た、二人の最後の姿だった。
主を失い均衡をなくした空間は、留まる術を持たず一気に崩壊する。その向こうから降り注いだ白い光は、明ける事のなかった夜を照らす眩しい朝日のようだった。
――――さようなら。ルシエル様。
決して優しくはない声で何度も名前を呼ばれていた。無重力空間をゆらゆら漂うように未だ夢の世界を彷徨っていたシェリルは、遠くから聞こえてきたその声音に居心地の悪さを感じてむっと眉間に皺を寄せる。声から逃げるように身を捩ったものの、次の瞬間頬に響いた思ってもみない痛みによってそれ以上の夢を遮断され、シェリルは驚きと共に目を覚ました。寝起きにしてはあまりにも冴えた視界に見知った姿があった。
「まったく、いつまで寝てるのよ。一緒に戻ってきたくせに、あなたは随分ゆっくりしてるのね」
呆れたようにそう言って、リリスは最後にもう一度だけシェリルの頬をぺしんっと軽く叩いた。
「リ、リス?」
「さっさと起きなさい。皆が下で待ってるわ」
「ここ……星の宮殿?」
上半身を起こしてぐるりと周りを見回したシェリルに、リリスが隠しもせずに少し面倒くさそうな表情を浮かべたまま息を吐いた。そして、少し早口で話し始める。
「私たちはあの夢から戻ってきたのよ。あなたも見た通り、あの少年は救われたわ。でも私たちが本当に救うべき相手は他にいる、そうでしょう? 皆は下で今後について話し合ってるわよ。あなたもカインを救いたいと思うのなら、さっさと起きて。時間がもったいないわ」
母親が子供を叱るような厳しい口調で、リリスがシェリルを急きたてる。しかしそんなリリスをちらりと見ただけで、シェリルはすぐに視線をそらして俯いた。
「私……カインを救いたいわ。――――でも、解らないの」
魔剣フロスティアがディランの胸を貫いた時からずっと抱え込んでいた不安が、堰を切ったようにシェリルの口からぽろぽろと零れ落ちる。
ディランを救う事は出来た。けれど彼の心には、ルシエルの裏切りと言う悲しい傷が残ってしまったに違いない。そしてその傷跡を作ったのは、紛れもなくカインなのだ。
「あの時、ディランを殺したのは闇だと思ったわ。闇に操られたルシエルなんだって。……でも、違った」
鮮血の光景とそれを見据える淡いブルーの瞳を思い出して、シェリルが耐えるようにシーツをぎゅっと握り締める。
「ディランを殺したのは闇でもルシエルでもない。あれは、カインだった。カインがディランを殺したの。誰よりもルシエルを慕っていたのに……どうして」
それ以上言葉を続ける事が出来ずに、シェリルはきゅっと唇を噛み締めた。
自分を射るリリスの鋭い視線を感じて、逃げるように目を閉じる。何を言われるのか解っていた。自分は弱いのだ。カインを理想化して、天界戦士と言うその本質をすっかり忘れてしまっていた。
躊躇いもなく剣を突き刺したカインを見た時、何を思ったのか。
――初めて見るカインの姿に、シェリルの体は震えていた。彼を別人だと思いたかった。けれどあの瞳の奥に煌いた温もりは確かにカインのもので、でもシェリルはそれを受け止める事が出来なくて。
『……シェリル』
ディランを殺した直後に、彼は懐かしい声でシェリルの名前を呼んだ。その続きは、今もシェリルの耳に届いては来ない。
「呆れた」
冷たいリリスの声に、シェリルの体がびくんと震える。
「あれだけカインを独り占めしてたくせに、あなたカインの事何も解ってないのね」
「……え」
「あの少年は心からカインを……いえ、ルシエルを慕ってた。新しい居場所を作ってくれたルシエルの為ならどんな事でも出来る。その彼がルシエルじゃなく、他の誰かの手によって死ぬ事を望むと思う? ルシエルでなければ彼は殺せない。ルシエルじゃなかったら、ディランには憎しみしか残らなかったわ。それをすべて知った上で、カインは彼を殺したのよ」
言われてシェリルが、はっと目を見開いた。もしもディランを殺したのがシェリルであったなら、彼はルシエルの役に立てなかった事を後悔しながら死んでいっただろう。体だけが消滅し、心は永遠に闇に捕われたままだったのかもしれない。……けれど。
「憎しみは残らなかったわ。……でも、悲しみが残った」
「あなたって本当に救いようがないわね。見てて苛々するわ」
再びしゅんと俯いたシェリルを見て、リリスがうんざりしたように大きく溜息をついて額に手をあてた。その様子に少しむっとしたシェリルが、項垂れていた頭を上げてリリスを睨みつける。
「あの夢でディランは悲しんでたじゃないっ。何度も裏切られて傷付いてたじゃない!」
「じゃあ聞くけど、あなたがその夢に入り込んだのはなぜ?」
「……え?」
『……シェリル』
ディランの死を目にして、怒りを抑えきれずに飛び掛ったシェリルを止めたのはカインの声だった。彼の青い瞳の奥にかすかな悲しみを見た瞬間、そのまま深い闇に落ちていった事をシェリルは鮮明に思い出す。最後までシェリルを見つめていた青い瞳が伝えたかった事を知る間もなく、闇に落ちディランの悪夢に迷い込んだ。
「……カインが。でも、どうして」
「あなたなら、彼を救えると思ったんじゃないの? 壊れてしまった母親も、闇に捕われたルシエルも、彼の魂を導く事は出来ない。望まない剣を振るって闇から彼の体を解き放ったその後で、シェリル……あなたにディランを救ってほしかったんじゃないの?」
シェリルの中で渦巻いていた謎が、リリスの言葉で一気に吹き飛んだ気がした。ディランの言葉もカインの行動も、シェリルの中ですべてがひとつに繋がっていく。その先に自分がいたという事を知り、シェリルは心の奥がふわりと温かくなるのを感じて静かに目を閉じた。
ディランも、そしてカインも、シェリルという小さな人間を信じてくれていた。シェリルにとって二人の思いは何より強い力になる。
「カインを信じるというより先に、あなたはまず自分自身を信じなさい。でないと出せる力も出せないわ」
「……リリス。――――ありがとう」
零れ落ちそうになる涙を瞬きで止めて、シェリルがリリスを素直な瞳で見上げる。その真っ直ぐな視線から、今度はリリスが逃げるようにふいっと顔をそむけた。
「これで借りは返したわよ」
「借り?」
「……あなたを襲った事」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、シェリルの返事も待たずにリリスは部屋を後にする。少し荒く閉められた扉のこちら側では、シェリルがベッドに座ったまま淡い微笑を浮かべていた。
「素直じゃありませんね」
部屋を出てすぐにかけられた言葉にむっとして、リリスがくるりと後ろを振り返った。
「……ルーヴァ。いつからのぞき専門になったの?」
「たった今からですよ」
リリスの皮肉に怯む様子もなく笑顔で答えて、ルーヴァがシェリルのいる部屋の扉へ視線を流す。
「あなたがいつ手を出すか、内心ひやひやしてましたけどね」
「あら。あの子が泣き言ひとつでも零したら、遠慮なく引っぱたいてたわよ。結局カインを助けられるのはあの子しかいないんだし、こんな所でめそめそされてちゃ困るでしょ」
見事なブロンドの髪を指先で弄びながら強気に言うリリスを見て、ルーヴァが堪えきれずにくすくすと笑い出した。
「何よ」
「やっぱり素直じゃありませんね」
「今ごろ素直になったって気味悪いだけでしょ」
そっけなく言われ、ルーヴァは思案するように宙を見つめて再びリリスへ視線を戻す。と、にこりと微笑んで……。
「それもそうですね」
「……ちょっと。少しは否定しなさいよ」




