母子の絆 1
闇の合間に伸ばされた、小さな小さな少年の手。当たり前の幸せを心から望む、彼の震える両手を握りしめるのは、もう遠い過去に出会った同じ悲しみを持つ地界神ではなかった。
決して消える事のない傍らの光に導かれ、少年は自分の足で歩き始める。望んだものを今度こそ手に入れる為に。もう二度と闇に捕われない為に。何よりも、自分自身の思いの為に。
辺りはしんと静まり返っていた。夜の闇に包まれたフィネス村は不気味なほどに人の気配がなく、シェリルはそこに自分とディランの二人しか存在していないかのような感覚に襲われる。
崩れた家を幾つも通り過ぎ、二人は先の見えない淋しい道をただひたすら歩き続けていた。通り過ぎる度に塵と化していく家々は、まるで崩れていく夢を暗示しているようにも見える。お互いを繋ぐ手のひらの熱だけが、この世界で唯一確かな感覚だった。
「とても、長い夢を見ていたんだ」
夜に溶ける静かな声で、ディランがゆっくりと話はじめた。
「長くて、凄く悲しい夢。……そこには二つの月が存在していて、光と闇に包まれていた。光を宿す黄金の月に隠れた、もうひとつの紫銀の月。闇を宿す月の裏側、そこに佇むあの人の姿を、僕はこの目に映したかった。ずっと、ずっとそれだけを望んでいたんだ。彼の姿を見、その悲しみを癒す事が出来たなら、僕もまた同じように救われると信じていた」
ディランの声は幼さをなくし、大人びた青年の声音に変わっていく。姿は少年のまま、けれどその意識は遠い夢の世界へ引き戻され、闇の従者としてディランが何を思い行動していたのか、その記憶が幼い少年の中に甦る。
「闇に堕ちる事を望んだのは彼自身だったけど、あの人はいつもそれを悔やみ苦しんでいた。神であるがゆえに、己の弱さを認める事が出来なかった。僕はそんな彼を救ってあげたかったんだ。……でも、その役目は僕じゃない」
視線を感じて下を向いたシェリルの瞳に、一瞬だけ青年の姿をしたディランが映る。
「あなたは……彼を許せるの?」
自然と口から零れ落ちた言葉に、シェリルはルシエルがディランを殺した時の事を思い出す。ディランを裏切り、殺したのは闇ではなかった。淡いブルーに輝いたあの瞳が、闇の王であるはずがない。
「この体を貫いた魔剣によって、僕は闇から救われた」
「え?」
「シェリル。君が持つ、君自身の力を信じて。ルシエル様がそれを信じたように」
ふわりとディランの体が淡い光の帯に包まれる。その光が流れるようにディランの体の中へ消えていく瞬間、シェリルの周囲の闇ががらりと音をたてて剥がれ落ちていった。
「……お姉ちゃん?」
幼い少年の声が、怯えたようにシェリルを何度も呼んでいた。浅い眠りから引き戻され目を覚ましたシェリルは、体を通り抜けていく夢の残骸にかすかに震えて息を呑む。
「お姉ちゃん……大丈夫?」
「ディラン?」
不安げな表情を向けてくる少年を瞳にしっかりと確認して、シェリルはあやふやな意識を追い出すように数回頭を振った。
「大丈夫よ。ごめんね」
「本当? ……良かった。僕、まだひとりは怖いから……お姉ちゃんがいてくれないと進めないよ」
シェリルの手をぎゅっと強く握りしめて、ディランがゆっくりと前方の闇を指差した。何もなかった暗闇の向こう、ディランの指先に導かれて淡いオレンジ色の光が浮かび上がる。不安定に揺れながら近付いてくるその光は、シェリルたちに手招きをしているようにも見えた。
「ここだよ。ここが、僕の家」
目の前で形を崩した光は木作りの扉に姿を変え、まるで風に吹かれ身に纏ったものを引き剥がすようにして、完全な家が闇の中から這い出した。扉からはオレンジ色の光がかすかに漏れていたが、家の中に人がいる気配はまったくない。その無気味な静けさにシェリルは一瞬だけ嫌な考えを巡らせたが、すぐにそれを追い払い、自分の中にある確かな真実に目を向ける。
夢のように曖昧で、幻のように触れる事も叶わないそれは、けれどいつでもシェリルのすぐ側で囁きかけていた。エリザの思いはシェリルの中に偽りのない、かすかな言葉を残していたのだ。
「ディラン。扉を開けて」
シェリルの言葉にディランがぎくんと体を震わせる。
「……で、でも……中には誰もいないみたいだよ」
「大丈夫よ。あなたが呼べば、きっと来てくれる。だってあなたのお母さんは、ここでずっとあなたを待っていたんだもの」
淡い微笑みを向けながら、シェリルは繋いでいたディランの手をゆっくりと扉へ導いていく。小さな手のひらに伝わった冷たい感触が、再度ディランの体を震わせた。
「私が手伝えるのはここまでよ。ディラン、この扉はあなた自身が開けなくちゃいけないわ」
「……怖いよ。僕、やっぱりまだ」
「勇気を出して。お母さんに、会いにいこう?」
離れていくシェリルの温もりに何か言いかけた唇をきゅっと噛み締めたディランが、言葉を押し留めてその場にじっと立ち尽くす。
ディランがずっと欲しかったもの。何度も殺されながら、切に願った救いの手。自分を守ってくれると言ったその言葉だけを信じて、その時だけを待って、ディランは今日この日まで終わる事のない悪夢に身を委ねていた。
見覚えのある木の扉の向こう、そこには彼が心の底から願った光があるはずだった。躊躇う必要などどこにもない。けれどディランの中には、幾度となく裏切られた傷跡が未だ癒える事なく根付いている。その恐怖が枷となり、ディランはなかなか扉を開ける事が出来ないでいた。
「……また、ひとりにならないよね?」
かすかに震える両肩に手を置いて、シェリルが後ろからディランの体をふわりと優しく抱きしめた。
「私はここにいるわ、ディラン。あなたを置いて行ったりしないから」
汚れない言葉は、怯えたディランの心を優しい光で包み込んでいく。決して消える事のないシェリルの光は、これから先をひとりで進まなければならないディランの傍らにいつでも灯りをともし、彼がひとりではない事を静かに告げているようだった。
暗黒の闇の中、少年を救う為だけに現れた真白き光が、彼をひとり置いて消滅する事は絶対にない。体に、心にシェリルの温もりを感じて、ディランが深く静かに息を吸う。
そして、ゆっくりと扉を押し開いた。
ディランとエリザを隔てていた大きな扉は、意外なほど軽く容易に開け放たれた。
古びたカーテンの隙間からオレンジ色の光が射し込んでいた。少し埃っぽい室内を一直線に横切った光は、僅かに開いたままの壊れかけた扉を悲しげに射している。鼻の奥をつんと刺激する薬品の匂い。それに紛れて響く、高く小さな金属音。五感に感じるすべてが、少年の中に鮮血の記憶を甦らせる。
ディランの目の前に、あの日と同じ光景が広がっていた。
「……母さん」
唇の手前で囁いて、ディランは少しだけ開いた扉に手をかける。錆付いた扉は耳障りな音を響かせて開き、その向こうに白く凍った空間を曝け出した。
埃に埋もれた白い部屋。薬品と湿ったカビの匂い。絶え間なく続く金属音を辿ってゆっくりと目を向けた部屋の奥で、色褪せる事のない鮮やかな色彩がディランの音を待っていた。
「……お母さん」
再度零れ落ちたか細い音に、それまで延々と続いていた耳障りな金属音がぴたりと止まる。静寂が津波のように押し寄せ、ディランの小さな胸がどくんっと大きく脈打った。
「ディラン。ちゃんと謝ってきた?」
体中の血が逆流する。小さな体を所狭しと駆け巡る声音は彼の奥底に封じられた惨劇の記憶を呼び覚まし、ディランの時間をあっという間に逆戻りさせていく。あの日と少しも変わらない冷たい声。けれどそれはディランがいつの日かもう一度聞きたいと願っていた、懐かしい母の声に変わりはなかった。
「駄目だよ。……みんな、僕の話聞いてくれない。みんなで僕を殺っ……殺そうとっ」
あの日と同じように、ディランの頬を大粒の涙が滑り落ちていく。変える事の出来ない過去を繰り返すだけの世界で、ディランに告げられるべき言葉はひとつしかなかった。そのたったひとつの言葉をディランが変える。
『そうでしょうね。お前は魔物の子ですもの』
ここは過去の世界ではない。悲しみの枷に繋がれたディランが見る、目覚めない悪夢の一片なのだ。夢を紡ぐディラン本人が変わる事を望むなら、それは決して難しくはない。
「僕はっ……魔物なの? お母さんの側にいちゃいけないの?」
白く凍った冷たいだけの空間に、目には捉える事の出来ない何かが駆け抜けていく。それは、ディランの熱い涙の雫だったのかもしれない。内に秘めたディランの熱に、空間さえもかすかに揺れる。
「お前は……」
導かれるがままに、エリザの唇がゆっくりと動く。そこから零れ落ちた言葉はディランの熱を受け取って、エリザ本人の心の奥に深く強く刻み込まれた。
「お前は、私の子よ。ディラン」
その瞬間、エリザの中で何かが音をたてて崩れ去った。
掠れた声は、けれど確かにディランがずっと待っていた言葉を紡ぎ落した。失ったはずの涙が熱を取り戻して、あの日以来凍り付いていた心までも溶かすように、エリザを優しく包んでいく。と同時にそれはディランに絡み付いた枷を外す唯一の鍵となり、ディランはやっと己を取り巻く闇から完全に解放された。
「……母さっ……僕ね、僕っ。ずっと母さんを待ってたんだよ」
止まらない涙を腕で拭いながら、ディランは嗚咽を堪えて必死に言葉を繋げていく。
「母さんが言ったからっ。僕を守ってくれるって言ったから」
話したい事はたくさんあった。聞きたい事もあった。けれどいざエリザ本人を目の前にすると、ディランの口からは言葉がうまく出てこない。溢れ出す幾つもの思いに揺れて落ちた音だけが、互いにぶつかりあって消えていく。
「……ディラン」
心を探るだけの言葉はいらない。真実は二人の目の前にある。
「辛かったでしょう? たったひとりで残されて苦しかったでしょう? でも……もうひとりで泣かなくていい。これ以上傷付かないでいいのよ、ディラン」
躊躇いがちに頬に触れたエリザの指先が、ディランの涙を拭い去っていく。忘れかけていた母親の温もりを直に感じて、ディランがぱっと顔を上げた瞬間、彼の小さな体はエリザの温かい両腕の中にすっぽりと包まれていた。
「今度こそ私がお前をずっと守ってあげるから。こうしていつまでも抱き締めていてあげるから」
「……――――お母さん」
震える両手を伸ばしてエリザにしっかりとしがみ付いたディランが、もう二度と奪われる事のない母の温もりを全身に感じながら眠るように瞳を閉じた。
「ごめんね、ディラン。――――愛しているわ」
エリザの唇から紡がれたその言葉は彼らを救う最後の魔法となり、ディランは自分を強く抱き締めるエリザの体ごと柔らかな光の糸にくるくると包まれていった。みるみるうちに二人の体を飲み込んだ光の球体は、ディランの夢を蝕んでいた闇の空間を淡く白く照らし始める。その光景はまるで、白い満月の光に浄化される闇夜のようだった。




