すれ違う心
渦巻く瘴気に絡み付く愛憎。
絶叫に似た風のうねりは大地を激しく揺り動かし、その震動に耐え切れず、乾ききった砂漠が轟音を上げて縦にばっくりと引き裂かれた。そこからずるりと這い出した新たな闇は再び砂漠を飲み込んで、邪悪な勢力を天界全土にまで伸ばすようにじわりと広がり始める。砂漠をすっぽりと覆い隠した闇は、枯れ果てたその土地から更に生気を奪い取り、荒野そのものを巨大な砂漠へと変えていった。
目に映るものを忌み嫌い、触れるものをすべて破壊していくその闇の圧倒的な黒い力は、悲運がもたらした天地大戦の惨劇を思い出させる。
焦がれたものを拒み、癒える事のない悲しみに捕われた孤独な神の絶叫のように、止まる術を知らないまま延々と膨れ上がった暗黒の闇。それはあの日と同じ姿のままで、思い焦がれた光の前に立ちはだかっていた。
闇よりも深い漆黒の翼。白い手に握られた氷の魔剣フロスティア。毒々しい赤に煌く双眸がゆっくりと動き、虚ろな視界に狂おしく求めたアルディナの姿を捉えたその瞬間。
「――――アルディナ」
ぴたりと風が止んだ。我先にと天界を蝕んでいた黒い触手は凍ったように動きを止め、それまで辺りに木霊していた闇の騒音までもが幻聴であったかのように、静寂を超えて沈黙にひれ伏している。
恐ろしいまでの静けさ。激しく打ち付ける鼓動音さえ掻き消され一切の音を拾えない鼓膜は、完全に麻痺してしまったようだった。
永遠にも近い時の中で互いを愛し、そして激しく憎しみ続けてきた者たちの再会は異様なほどに静かで、かえってそれがルーヴァたちに不気味さを与えている。無音の空間を支配するルシエルの存在に、心臓を鷲掴みにされているような痛みを感じたルーヴァが、思わず顔を歪ませた。
ルシエルから放たれる気は、少しの乱れも感じさせない。しかしその静の中に潜む邪悪さは更に力を増し、ルーヴァたちの心の奥にまで襲いかかって来る。
熱のない闇。その魔手の黒。戦士の頃から友として親しんできた彼が振るうには、あまりにもかけ離れてしまった暗黒の力。アルディナからすべてを聞き真実を知っても、未だ半信半疑だったルーヴァは、暗黒に染まってしまった友の姿を瞳に映して絶句する。
「ああ、何て事。……カイン」
真後ろにセシリアの声を聞きながら、ルーヴァは目の前に立ちはだかる闇の王の姿を打ち消すように、ぎゅっときつく瞼を閉じた。
(カイン。……貴方はそこで何をしているんですかっ)
瞼の裏にくっきりと焼き付いたルシエルの姿に耐え切れず、ルーヴァは叫び出してしまいそうになる衝動を必死に堪えて、唇を強く噛み締める。乾いた口の中に、血の匂いが充満した。
「愚かだな」
静寂を少しも乱す事なく響いた声に、ルーヴァがぎくんと震えて顔を上げた。
「たかが人間の小娘に、何を期待したのだ? 我をこの体から追い出す事が出来るとでも?」
嘲るようにそう言ったルシエルがぱちんっと指を鳴らすと同時に、彼の真後ろで音もなく蠢いていた瘴気がぶわりと辺りに弾け飛んだ。その中からぐらりと傾いて現れ出た人影にルーヴァが声を上げるより早く、ルシエルの不気味な声音が再度闇に木霊した。
「落し子は我が闇に貪られた。もうお前たちの元に戻る事はあるまい」
瘴気の枷を無くし、暗い空に投げ出されたシェリルの体が、砂漠を覆う闇の海めがけて真っ逆さまに落下した。
「シェリルっ!」
弾かれたように空へ駆け上がったルーヴァを、そのはるか上空で無感情に見下ろしていたルシエルが、やがて興味を無くしたように彼からアルディナへと視線を移した。砂漠を支配していた沈黙が、僅かに揺らぎ始める。
「――アルディナ」
その音に導かれ、闇が妖しく踊り出す。
「長き眠りの中で、我はずっとお前の事を考えていた。憎悪、嫉妬、渇望。それは、我の中で燃え上がる狂おしい愛に似ていたのかも知れぬ。……アルディナよ、我を感じるか? その心に、肌に、我の存在を感じているか? ――――我には遠い。指先に佇むはずのお前が、我にはまだ感じられぬ。夢の中だけでなく……アルディナ、お前をもっと近くに感じさせてくれ」
ごうっと激しく闇がうねり始めた。それまでの静寂を打ち消すように勢いよく跳ね上がった闇の触手は、上空に浮かぶルシエルの体を飲み込みながら、そのまま眼下のアルディナをめがけて一気に崩れ落ちた。
落下したシェリルを空中で抱き止め、アルディナたちから少し離れた場所へ着地したルーヴァは、消えたルシエルと襲い来る暗黒の闇に一瞬躊躇し、焦ったように周囲を見回した。
意識のまったくないシェリルを守りながら戦う事は、非常に危険で難しい。かと言って、シェリルをこのままここへ置き去りにするなどもってのほかだ。
闇から感じる邪気はたったひとつで、しかしそれはかつて天界をも恐怖に陥れた邪悪な闇の王ルシエルの力。女神の力を受け継いだシェリルが闇に捕われ、アルディナも本領を発揮できないこの状況では、闇を迎え撃つ事など到底出来ない。ありとあらゆる可能性は、ルシエルによってそのすべてを否定されていった。
勝機の見えない戦い。けれど逃げる事は許されず、ルーヴァはほとんど無意識に唯一の武器であるサファイア色の短剣を自分の右手に召喚していた。
「武器をっ!」
迫り来る闇の邪悪な魔力を引き裂いて、アルディナの凛とした声音が闇に強く木霊した。暗黒の触手に蝕まれる事なく毅然と輝くアルディナの姿は、闇に覆われた空間に何者にも堕とす事の出来ない絶対の存在を浮き彫りにさせる。
闇に侵され漆黒と化した視界の片隅に創世神の姿を垣間見たルーヴァが、右手に召喚していたサファイア色の短剣を半ば反射的に空中のアルディナへと投げ飛ばした。薄青の軌跡を一直線に伸ばして闇を切るサファイア色の短剣は、まるで何かに引き寄せられているかのようにアルディナの右手へ導かれ、神聖な熱を受け取りながらその形を一本の長剣へと変形させた。
高く鋭い音と共に、アルディナを中心にして闇がぶわりと左右に弾け飛んだ。波紋のようにざあっと広がる光と闇の衝撃波は、触れた者の意識をあっという間に奪うほど激しく入り乱れた力の渦で、それをまともにくらったルーヴァとセシリアは力任せに剥がされそうになる意識を寸前のところで何とか必死に引き止めた。
透き通った薄青の刃に十字に重なった白い魔剣の向こう側で、闇から現れ出たルシエルが真紅の瞳を妖しく揺らめかせて、にいっと不気味に微笑んだ。
「間に合わせの剣では、我が積年の憎悪を受け止める事など出来ぬ」
剣を合わせたままで、残った左手をアルディナへ伸ばしたルシエルが、その冷たい指先に求めた熱を感じて愛しそうにすうっと目を細めた。
「あの忌々しい聖杖はどうした? 翼と共に力なき落し子へ貸し与えたのか?」
愛しい表情は一転して嘲笑に変わり、そのまま唇を寄せるようにゆっくりと顔を近付けたルシエルを、アルディナは退く事もせず落ち着いた静かな瞳で見つめ返していた。
「シェリルは負けない」
迷う事なくきっぱりと返された言葉に、ルシエルがふんっと鼻で嘲笑う。
「お前の望みは我がすべて壊してやろう」
脳裏に描く理想郷に酔いしれながらそう言ったルシエルが、アルディナから引き戻した手に赤黒い瘴気の塊を作り上げた。
「我の世界に、光はいらぬ」
凍って落ちたルシエルの言葉にアルディナがはっと目を見開いたその先で、細い稲妻を幾つも絡ませた赤黒い邪気の塊がルシエルに命じられるまま勢いよく爆発した。その場で粉々に弾け飛んだ邪気の破片はアルディナの白い柔肌を容赦なく切り裂いて砂漠へ落下し、砂に埋もれる前に醜悪な姿を象った忌むべき魔物へと変化していく。突如現れた魔物に応戦する二人の天使の姿を視界の端に捉えたアルディナが、小さく声を漏らして表情を曇らせた。
今のアルディナに、ルシエルと互角に戦えるだけの力はない。天使の象徴とも言える翼も、女神としての力も聖杖も、唯一の希望と共にすべてシェリルへと受け継いだ。闇を打ち負かす事が出来るのも、ルシエルを救う事が出来るのも、今となってはシェリル以外に誰ひとりとしていない。天界の、世界の希望であるシェリルが闇に捕われた今、アルディナたちに勝機はまったくなかった。
『シェリルは負けない』
それはアルディナ自身が信じたかった言葉だったのかもしれない。
「忌むべきものこそ光だ」
ふっと頭上に影が落ちたかと思うと、真上を見上げたアルディナの視界が黒い闇を割る白の軌跡に埋め尽くされた。
「くっ!」
脳天めがけて振り下ろされた魔剣を間一髪で右に避けたアルディナの真横を、白い軌跡が素通りする。と同時に素早く身を翻したルシエルが空中で急停止し、瞬きする暇も与えず再度アルディナへと切りかかった。
「お前も、あの落し子も排除する。――――そして、ルシエルもな」
真横になぎ払われた魔剣の刃から溢れ出した氷の衝撃波に体当たりされ、遠くへ吹き飛ばされたアルディナが視界を確保するより先に、ルシエルの冷たい声が間近で静かに囁かれた。
「お前の負けだ」
その音は、断末魔の絶叫に似ていた。
『…………――――のか?』
体の全神経を震わせる耳障りな金属音。暗い空に弧を描く、青の軌跡。間近で重なり合った赤と青の瞳。その奥で揺らめいた過去の残像に、アルディナがぎくんと体を震わせる。
『お前は我の赦しを得たいのか?』
悲鳴を上げて真っ二つに折れたサファイア色の剣が、役目を果たせないままアルディナの手を離れ、砂に飲み込まれて消えていった。
「アルディナ様っ!」
意識のはるか遠くでその声を聞きながら、アルディナはルシエルから逸らせないその瞳に、忘れる事の出来ない天地大戦の光景を浮かび上がらせた。
姉としての自分を棄て、創世神である事を認めなければならなかったあの夜。世界を守護する女神としての責任に押し潰され、破裂しそうになる悲鳴を必死に堪えた辛い日々。
迎え撃つ敵が、なぜルシエルでなければならなかったのか。
なぜたったひとりの弟を、この手で殺めねばならないのか。
――――なぜ、ルシエルを手放してしまったのか。
すべては創世神である自分に非があった。闇の邪悪さを知りながら、ルシエルをたったひとりで地界へ送り、天地大戦の発端を作り上げてしまった事。ルシエルを救う事ばかり考え、悪の根源である闇を滅ぼせなかった事。
アルディナとして進みたい道は創世神の影によってすべて塞がれ、彼女には選択の余地すらなかった。アルディナの思いは創世神である彼女にとって邪魔なもの以外の何でもない。己の罪と運命と非力さに嘆き悲しみながら、それでもアルディナは創世神として聖杖を手に取ったのだ。世界に害を成す闇の王ルシエルを倒す為に。
『お前は躊躇う事なく、我を斬る事が出来るのだろうな』
瘴気の影に垣間見たルシエルとしての最後の表情は、アルディナの心に深く鋭い傷跡を残して消えていった。
「我が闇で永久に眠れ」
呪いのように告げられた忌まわしいその声音を合図にして、ルシエルの体の中からおびただしい量の瘴気が勢いよく弾け飛んだ。それは大気に溶け込むより早く、アルディナとルシエルの間に禍々しい気を放つ漆黒の魔法陣を完成させる。敵を威嚇するかのように絡み付いた髑髏の幻影に重なって、漆黒の魔法陣の向こう……そこに魔剣を突き立てようとしていたルシエルが、アルディナを見つめてにやりと冷たい笑みを浮かべた。
「我は……――――」
その先を、アルディナが耳にする事はなかった。
凍った魔剣を受け入れた漆黒の魔法陣は、絶叫に似た轟音を上げながら無数の亡者を暗い空いっぱいに召喚し、それとほぼ同時に力を失い風化するように崩れ落ちた。魔法陣の悲鳴はそこにいた光あるものすべてを呪い、皮膚の内側にまでその魔手を伸ばし、体の全神経を麻痺させていく。
『我はお前を赦しはせぬ』
唯一残された視覚の自由すら奪われようとする中で、アルディナは自分が何よりも望んでいた者の声によって告げられた憎しみの言葉を、心のはるか奥底で聞いたような気がした。
「ルシエルっ!」
アルディナの叫びは、悲しき神に届くものではなかった。闇に堕ち、『自分』を失った時から彼はルシエルである事を棄て、弱き心を己が手で破壊したのだ。ルシエルの存在を放棄した肉体に、彼の魂が戻る場所はもうどこにもない。希望の光シェリルが闇に捕われ彼を救う事が出来ない今、ルシエルは果て無き闇でたったひとり朽ち果てていくはずだった。
けれど。
空間を引き裂く鋭い音と共に、アルディナを飲み込もうとしていた亡者の群れが両端に勢いよく弾き飛ばされた。動けないアルディナを確実に捕えるはずだった闇の触手は、まるで聖なる光を浴びてしまったかのように恐れおののき、そこへ留まる事すら許されず粉々に粉砕されていく。
空を覆い尽くす勢いで膨張していた亡者の群れが一瞬にして消滅し、辺りは再び何もない暗い闇の静寂に包まれる。それを破ったのは、驚きに満ちたルシエルの声音だった。
「何だとっ!」
余裕に満ちたいつもの彼からは考えられないほど激しく動揺したその声に、アルディナがぎくんと震えて閉じていた目をぱっと開いた。
青い瞳に、そこにあるはずのない色彩が弱々しく揺らめいていた。
「――――ルシエル……?」
アルディナを闇の魔手から救ったのは、他の誰でもないルシエル自身の幻影だった。
目の前に突如現れた紫銀の幻影をすぐには信じられず、アルディナが緩く首を左右に振る。闇に飲まれ、その意識すらもう二度と戻る事はないだろうと思われていたルシエル。その彼が今この窮地において、何よりも憎んでいたはずのアルディナを救った。天地大戦ではただの一度も姿を現す事のなかった彼が。
「……ルシエル……お前は」
震える唇からやっとそれだけを口にしたアルディナの言葉を掻き消して、闇の荒々しい怒号が空をも撃ち落す勢いで辺りに激しく木霊した。
「……なぜだっ! なぜお前がそこにいるっ。お前は我が……お前のすべては、我が残らず食い尽くしたはずだっ!」
魔剣の切っ先を向けて狂ったように叫ぶ闇の前で、儚く揺れるルシエルの幻影が黙したまま静かに瞳を閉じた。途端その姿を崩し、ひとつの丸い光球となったルシエルが、目にも止まらぬ速さで闇に向かい一直線に飛び掛った。
「まだ足掻き続けると言うのかっ」
思ってもみない事態の変化に一足出遅れた闇の攻撃を潜り抜け、淡い紫銀の光球が闇に奪われたルシエルの体、その胸元を鋭く一気に貫いた。
「ぐあっ!」
胸を貫いた光球は貫通する事なく体の中へ引き込まれ、その衝撃だけが背中から外へ吐き出されていく。漆黒のマントが激しくあおられ、そこから溢れ出した大量の瘴気が、ルシエルの体をそのまま闇の深淵へ連れ去ろうとしていた。
「待てっ、ルシエル! お前は……」
徐々に薄れていくルシエルへ手を伸ばしたアルディナの視線の先で、灰色の髪を振り乱したルシエルがその隙間から鋭い瞳をのぞかせて、彼女をぎろりと睨みつける。凍った光を残す、血のように赤い瞳。それはルシエルが闇に堕ちた証。
かつて全世界を震え上がらせた恐るべし邪眼は、しかし闇に消えるその前に、かすかな熱を持つ淡いブルーへと色を変えた。
その色は、アルディナに似て非なるもの。彼女と同じ力を持ち、闇に分かれたもうひとりの創世神。
「ルシエル。……――――カイン?」
指先で消えたルシエルを思い、静かに零れたアルディナの音は、憎むべき敵のいない砂漠に少しだけ悲しく響いていった。




