愛を求める少年 2
望んだものは決して多くはなかった。
一緒に遊んでくれる友達と、見た事もない父親と、少年を待っていてくれる温かい家。悲しみの過去も偽りの今も、ただそれだけを望み生きてきた彼は、ここでもその願いを叶えられずに崩れ落ちてしまった。
夜を纏った暗いだけの空にディランの体は既になく、取り残されたおびただしい量の鮮血だけが彼の存在を刻み込むように砂漠の砂を真紅に染めた。
「……嘘。ディラン……殺っ……」
大きな瞳が捉えた現実を認められず、シェリルは驚愕に震えながら空中のルシエルを凝視していた。闇よりも深い黒にくっきりと浮かび上がった魔剣の白が、その刃から今も赤い涙を滴らせている。
ディランの命を奪った氷の魔剣。そしてその魔剣を操ったルシエル。無慈悲に剣を突き刺したのが闇である事を頭では理解しているのに、親しいカインの姿で行われたそれに思考がついていかずシェリルは呼吸する事も忘れてその場に立ち尽くしていた。
震える体に大きく響く鼓動音。その音に共鳴しじわりと歪んだ視界の中で、空中の影がゆっくりとシェリルへ向き直った。
「どうして……こんなっ」
不安、迷い、恐怖、多くの感情に左右されながらルシエルと向かい合ってきたシェリルの胸に、激しい憎悪が生まれ出る。
ディランにとってルシエルがすべてだったように、孤独の闇に囚われたルシエルにとってもディランは唯一の安らぎだったはずだ。それをことごとく打ち砕いていく憎き闇。無垢なディランを闇の従者に仕立て上げ、用が済めば簡単に彼を放棄する。己が奥底で泣き喚くルシエルの声を嘲笑いながら、闇は幾度となく彼を傷付けて来たに違いない。
「許さないっ」
潤んだ瞳に強い意思が舞い戻る。体を支えるだけだった剣の柄をぎゅっと強く握りしめて、シェリルが空中のルシエルを睨み返した。その視線を受け止めたルシエルが、口元を緩めてにやりと笑う。
「我が憎いか?」
「……返してよ。カインを返して! これ以上彼を汚さないでっ!」
「汚すだと? ……お前は未だに我を認めたくないらしい。我を望んだのはルシエル自身だ。我に縋り、手を伸ばした時点であいつは既に汚れていた」
「それでもっ!」
強く、誰にも負けないほど強く叫んで、シェリルがルシエルの言葉を遮った。
「それでも私にはカインが必要なの!」
その強い意思を具現化したように、シェリルの背中で力なくしおれていた二枚の翼が再び左右に大きく広げられた。と同時に一気に空を駆け上がったシェリルが剣の刃をルシエルに向けて、躊躇う事なく斬りかかった。
天地大戦において創世神アルディナと互角に戦い、その剣一振りで多くの命を奪ったルシエルにとって、シェリルの攻撃はただ力を暴走させただけの子供騙しにしかすぎない。体はおろかその影すら切り裂く事の出来ないシェリルの刃は虚空に虚しい軌跡を残し、ルシエルの側をただ通り過ぎていくだけのはずだった。
けれど。
鈍い音と共に、伝わる感触。その生々しい重みにはっと見開かれた翡翠色の瞳が、シェリルの剣の刃を鷲掴みにしたルシエルの左手を映し出した。
「……なっ」
躊躇う事なく剣を掴んだルシエルの左手はみるみるうちに赤く染まり、その雫は滑らかな刃を伝って柄を握りしめたシェリルの指先にまで届く。かすかに触れたルシエルの熱にぎくんと体を震わせたシェリルが弾かれたように顔を上げたそのすぐ目の前で、ルシエルが左手に掴んだ剣を引き寄せながら冷たく悲しげに微笑んだ。
「…………シェリル」
凍った唇が紡いだ音は、かすかに熱を帯びていた。
「カインっ?」
その声に彼の持つ音を感じ取ったシェリルが、信じられないと言うように目の前のルシエルを凝視する。大きく見開かれた翡翠色の瞳の中で一瞬だけ真紅から淡いブルーに色を変えたルシエルの瞳が、シェリルの脳裏に強くはっきりと焼き付いた。
「シェリル……」
再度呟かれた言葉の先を、シェリルは聞く事が出来なかった。不意に現れた漆黒の闇に視界を阻まれ、凍った冷気が体中の感覚はおろかシェリルの意識までも奪い取ろうと冷たい指先を伸ばしてくる。
「カイン……っ」
朦朧とした意識の中でシェリルが最後に見たのは、自分を真っ直ぐに見据えた曇りのない淡いブルーの瞳だった。
『シェリル……』
確かに響いたカインの声音は、シェリルの胸に深く切ない波紋を残す。
魔剣を手にしたルシエルは闇の王として完全な復活を果たし、体の奥底に残るカインの記憶を貪り尽くしてしまった。地界神だったルシエルも、天界戦士だったカインの人格も、もうそこには何ひとつ残らないと嘲笑うように、闇はシェリルを無情に攻撃しディランをその手で殺したのだ。
そこに存在していたのは闇に間違いない。それなのに。
シェリルの瞳と重なり合った、淡いブルー。それは彼を意味する瞳の色に他ならなかった。
――――どうして、カイン。……ディランを、殺したの?
返事はどこからも聞こえない。ただ耳に残るカインの声だけが、いつまでもシェリルの中に響いていた。




