魔剣フロスティア 3
『俺はお前を守れない』
絶叫のようにルシエルの中から溢れ出した瘴気が、背中で羽ばたく大きな二枚の翼にべったりと張り付いて、その色をより深く孤独に満ちた黒に変えた。
闇の存在を強調するかのような、左頬の不気味な黒い刻印。長く伸びた漆黒の爪。体から溢れ出す行き場のない妖気は瞬時に白く凍り、猛毒を振りまくマントにあおられて辺りに広く散乱する。
女神の弟でありながら闇に堕ち、天地大戦で多くの命を奪った男。恐怖の象徴として誰からも恐れられきた闇の王が、シェリルの目の前で完全に復活を遂げた。
「ヴオオオォォッ!」
声ともつかない獣の咆哮のような雄叫びを上げたルシエルを中心にして、暗黒の霧が辺り一面に拡散する。
闇の王ルシエルの復活によって大気は激しく絶叫し、その震動ははるか地上の下界イルージュ全域にまで響き渡った。竜の爪跡のごとく裂かれた大地は、瑞々しい生命に満ちた自然をいとも簡単に飲み干して、代わりに触れるだけで死を早まらせる腐った闇を撒き散らす。優しい緑も美しい花々も、女神が産み育て慈しんだものすべてが枯れ果てて、下界は成す術もなく闇に溺れていった。
「これは……っ」
遠く空の彼方で踊り狂う赤黒い闇の瘴気を凝視して、エレナが唇をぎゅっと噛み締めた。傍らにいたクリスも確実に迫り来る終幕の宴に身震いしながら、天界へ向かった親友の事を思い出す。
「闇。……暗黒の王」
「エレナ様。この妖気はあの時の」
その言葉に頷いたエレナは真っ直ぐな瞳をクリスへ向けて、それ以上の言葉を伏せさせる。エレナの意図に気付いたクリスも少し悲しげな視線を返して、再び不気味な空へと顔を向けた。
アルディナ神殿を襲ったあの闇を、シェリルはカインと呼んだ。その名はシェリルが淡い恋心を抱いていたあの天使と同じ名前。それ以上は考えなくても解る。憎み続けてきた闇と、愛を感じた存在が同じ人物であるという事実に、シェリルは耐える事が出来るのだろうか。互いが敵として向かい合わねばならない瞬間に、シェリルは一体何を思うのだろう。
次々と襲いかかる悲運は迷う事なくシェリルを選び、弄ぼうとする。きっと今でも大切な友は、天界で自分の想いと必死に戦っているに違いない。クリスに出来る事といえば、ただひたすら祈る事しかなかった。
「シェリル……どうか無事でいて。闇に、自分の運命に負けないで」
凍ってしまった色彩がカインの中で崩れ落ちた。
類稀な紫銀の髪は灰色に近い銀に輝き、その隙間から垣間見える瞳は今はもう青い色を完全に失っていた。柔らかな翼と大きな腕でシェリルを守ってくれたカインはいない。シェリルだけの守護天使は、もうどこにもいない。
「……カイン」
吐息よりも小さく音のないその声を聞き取ったかのように、ルシエルが真紅に煌く瞳をゆっくりとシェリルに向けた。薄い笑みを浮かべたまま何か言おうと唇を動かしかけたルシエルはすぐにそれを止めて、緩く首を左右に振る。たったそれだけの仕草なのにシェリルの胸は痛いほど早鐘を打ち、体からは冷や汗がどっと溢れ出していた。
蠢く闇の音や瘴気に紛れて姿を現した魔物たちの歓喜の声が止む事なく響いていると言うのに、シェリルの周りだけ遮断されたようにふっと音が掻き消える。聞こえるのは異常に速い自分の鼓動音だけだった。
――――怖い。
圧倒的な邪悪の闇を前にして、シェリルは初めてルシエルを怖いと思った。未だに自分が縋っていた虚像を失い、ルシエルというもっとも危険な存在をやっと認識する。かたかたと震える指先に力を入れても、両手に握りしめた剣が滑り落ちてしまいそうだった。
出来る事なら今すぐここから逃げ出してしまいたい。けれど体は少しも言う事を聞かず、シェリルは空中で見えない枷に捕われる。
ただ黙ってルシエルを凝視する事しか出来なかったシェリルの翡翠色の瞳の中で、ゆらりと漆黒の影が揺らめいた。かと思うと瞬きする暇さえ与えずシェリルとの距離を一気に縮めたルシエルが、その手に握りしめたフロスティアを勢いよく真横に振り払った。
魔剣を離れた冷気は氷刃となり、辺りに漂う瘴気の渦を切り裂きながら真っ直ぐにシェリルへと飛びかかる。迫り来る危機を察知し防御結界を張ったムーンロッドの剣に内心びっくりしたシェリルだったが、それでも防ぎきれなかった氷刃を瞳に捉えて瞬時に右へ身を翻した。その頭上に、ふっと影が落ちた。
「っ!」
見上げたシェリルの瞳が、あっという間に漆黒に染まる。白い冷気の尾を棚引かせながら、力任せにフロスティアを振り下ろしたルシエルの笑い顔が、シェリルの脳裏にしっかりと焼きついた。
体の神経を麻痺させる高く鋭い金属音と共に、シェリルの剣が暗い空にくるくると光の螺旋を描く。剣と剣のぶつかり合った衝撃、それよりも圧倒的な力の差に押し負けて、シェリルの体は空中へ吹き飛ばされ石のように落下した。
全身に響く衝撃に悲鳴すら上げられず、地面に激しく叩きつけられるはずだったシェリルの体は、地上すれすれで無意識に羽ばたいた翼によって一度だけ浮いてから静かに砂の上へ辿り着いた。続いて落ちた剣が、シェリルの傍らに深く突き刺さる。
「くっ!」
唇をきつく噛み締めて何とか膝をついて立ち上がったシェリルは、まだ震える手を戒めるように強く剣の柄を握りしめた。
噛み合わない歯がかたかたと震えている。闇の王が、カインが怖い。
(――――殺される)
怯えた心に、シェリルの声が虚しく響いて消えた。
剣を交えた時、間近に見たルシエルの真紅の瞳に慈悲はなかった。あるのは、『殺意』ただそれだけ。
女神の力を得て少しでも強くなったと勘違いした自分が恥かしい。もしかしたらカインの意識が残っているかもしれないと期待した自分が惨めだった。受け継いだ力はシェリルにはあまりにも大きすぎて、十分な威力を発揮できないままシェリルの中で死んでしまっている。
勝てない。ここでルシエルに、殺されてしまうのだ。
死。死。――――死。
(カインを救えずに……私はここで、死ぬ)
絶望と恐怖に支配され、生きる気力も望みもシェリルの中から消え失せる。それを肯定するかのように、頭上でルシエルの低い声がした。
「惨めに足掻く姿は好まぬ。お前はどう殺して欲しい?」
遠い昔、シェリルは母親の背中に守られながら今と同じ言葉を聞いた。
(――――ああ、やっぱりそうだ。あの闇は、私からすべてを奪ったのは……ここにいるルシエルだったんだ)
「せめて苦しまずに逝かせてやろう」
笑みを含んだ声音でそう言って、ルシエルがフロスティアを頭上に高く掲げる。その刃に、周りの瘴気が纏わり付いた。
――――――我を、救ってくれ。
見開いた瞳が、再び黒に染まる。自分の命を一瞬にして奪うであろう瘴気の渦をただ呆然と見つめていたシェリルの心に、記憶の片隅から零れ落ちた声が木霊した。
『シェリル。あなたを選んだのは、ルシエル自身だった』
――――我を、救ってくれ。シェリル。
(……そうだ)
死にかけた瞳が徐々に鮮やかな翡翠色を取り戻す。体を支えるだけだった剣に力を込めて、シェリルがゆっくりと立ち上がった。
(戦っているのは私だけじゃない。ルシエルも、あの闇の中で戦ってる。私の光を待っている!)
「死ね! もう二度と我の前に現れるなっ!」
怒号のような声にあわせて、刃を離れた闇の瘴気が勢いよく降下した。
「死ねないわっ。ルシエルを……カインを返して!」
高らかに響いたシェリルの声と共に、瘴気の渦が真下から眩いほどの白い光に弾き返された。
「何だとっ!」
光は瘴気を突き破り、その向こうにいるルシエルめがけて一直線に襲いかかる。思っても見ない反撃に一瞬躊躇したルシエルの前方に、彼を守る灰青の影が滑り込んだ。
「ルシエル様っ!」
光とルシエルの間に割り込んだディランの魔法陣によって、シェリルの光はあと少しのところで威力をなくし消滅した。
「ここは僕が。ルシエル様は一度地界へ戻って……」
「余計な真似をするな、ディラン」
その冷たい声に、シェリルの心臓が一瞬止まる。
「ルシエルさ……っ」
真下のシェリルと向かい合ったまま視線だけを後ろに流したディランの言葉が、そこで不自然に途切れた。
ディランの言葉を止めたのは……――――熱い血潮を求める魔剣フロスティアだった。
「お前はもう用済みだ」
体を貫く凍った異物。耳の奥で響いた、肉を裂く音。瞳に映る凍った微笑み。
何が起こったのか解らなかった。
見開かれた瞳に映る氷の魔剣はディランの胸元から顔をのぞかせ、頬を赤らめるように鮮やかな血色に濡れていた。
喘いだ口から音は漏れず、深く吸い込んだ空気が全身に激しい痛みを伝えていく。
耳元で、何よりも信じていた者の声を聞いた。
「我に、もうお前は必要ない」
長い眠りから醒めた魔剣フロスティア。
その凍えた刃が最初に欲したのは、ディランの熱い心臓だった。




