魔剣フロスティア 1
互いの死だけがすべてを終わらせてくれる。罪深き我が、救われる地はどこにもない。
空を飛ぶ感覚はシェリルにとって馴染み深いものだった。羽ばたきを繰り返す背中の翼は知らぬ間にシェリルの意図を読み取って、誰もが恐れる暗黒の墓標へと彼女を導いていく。
そこに、彼はいる。きっとシェリルを待っているはずだ。
憎しみの渦巻く遥か地底のその奥で、シェリルを求める呪われた声が木霊する。シェリルを殺す事で女神の力を手に入れようと企む闇が、その手に捕えたルシエルの体を操ってシェリルを何度も呼んでいた。懐かしいカインの声が胸の奥に届く度、願わずにはいられない望みをその胸に抱いたシェリルは、同時にそれを自分自身で否定する。
創世神アルディナと互角に戦う闇。孤独と恐怖の象徴であるあの闇に、光を受け継いだばかりのシェリルが勝てるとは到底思えない。けれどシェリルは、もう逃げる訳にはいかなかった。シェリルの前に立ちはだかるのは十年前に両親を殺した闇ではなく、誰よりも愛しいと感じるカインなのだから。
背中の翼はカインと似た余韻を残しながら大きく羽ばたいて、確実にシェリルを砂漠の墓へ連れて行く。その淋しい場所から辛く苦しい戦いが始まる事を、シェリルは誰よりも早く感じ取っていた。
地面にへばり付く白い色彩。それに纏わり付く毒々しい赤。ふわりと揺れた翼から解放されたように、幾つもの羽根が散っていく。
暗闇に鮮やかな血色の跡を残しながら、やっとの思いで邪気渦巻く砂漠の中から逃げ出してきた天使が、見上げた空に光り輝く影を見つけて救いを求めるように手を伸ばした。弱々しく震える指先にまで絡み付いてくる闇の触手は、暗黒の領域から逃げ出した獲物を引き戻そうとし、既に深手を負わされていた天使は抗う力も無に等しく、生きたまま四肢を引き裂かれ贄となる運命だった。
そこに突如現れた救いの光はその輝きだけで闇を追い払い、天使の傷付いた体を柔らかく慈しむように包みこむ。退けられ、天使の命を奪おうとしていた闇の触手が、苛立った悲鳴を上げながら砂漠の奥へ引き返していった。
「しっかりして! 今、助けるから!」
闇を照らす一条の光の如く空から舞い降りた金色の天使が、優しく響く声音で素早く治癒魔法の呪文を唱え始めた。どこかたどたどしい呪文の羅列はそれでもすぐに効果を発し、命を奪いかねないほど深く抉られていた胸元の傷をみるみるうちに塞いでいく。それに合わせて今にも止まりそうだった呼吸は規則正しく繰り返され、ぼやけて歪んだ視界に色が戻り始める。体の奥にまで届く温かい力の波に心地良さを覚えながら、命を取り留めた事を実感した天使が、自分の傍らで必死に呪文を唱える見知らぬ女天使に視線を向けた。
どことなく頼りなげな雰囲気のその奥に隠された、揺らぐ事のない芯の強さ。思わず見惚れてしまうほど清楚でいながら、逆らう事の出来ない高貴さを秘めた不思議な天使。その白い額にくっきりと刻まれた女神の刻印。
「大丈夫?」
「……あなたはっ」
女神の分身として語り継がれていた神の落し子。その彼女を目の前にして、天使は目を大きく見開いたまま次の言葉を喉に詰まらせる。そんな天使の様子を気にも止めず、急かすように手を差し伸べて彼を立ち上がらせたシェリルは、横に突き立てていた剣を握りしめながら遠くに見える黒い闇の海を睨みつけた。
「闇が動き出す前にあなたは早く戻って。それから宮殿にいるアルディナ様に、彼が来たと伝えて下さい」
どこか緊張した声音でそれだけを言うと、シェリルは天使の返事を聞く間もなく再び空へ駆け上がっていった。
「待って下さい!」
シェリルが向かおうとしている場所を知り、慌てて空へ上昇した天使だったが、それ以上先へ進む事が出来ずに空中でひとり立ち止まる。
その先には憎悪にまみれた闇しかなかった。運悪く禁忌とされていた砂漠の墓へ引きずり込まれた彼は、そこが天使にとってどれほど恐ろしく危険な場所か、その身をもって経験している。天使が持つ独特の光を激しく嫌い、そこに彼らが存在する事を許さない幾つもの声が鼓膜を突き破り、そのまま心臓が止まってしまいそうだった。そんな場所へ、しかもたったひとりで向かおうとしているシェリルの無謀さに半ば唖然としながら、天使が恐怖に震える手を再度シェリルへ伸ばした。
「ひとりでは危険すぎます!」
その声に立ち止まってくるりと後ろを振り返ったシェリルが、自分を心配してくれる天使に向かって淡く微笑んで見せた。今にも消えてしまいそうなほど儚げな微笑みは、それでいて心の奥にいつまでも残る忘れられない瞬間を天使の脳裏に刻み込む。
「私……やっぱり、カインに会いたいから」
自分自身に呟くように言って、シェリルは再び天使に背を向ける。その影が振り向く事は二度となかった。
さらさらと引き寄せられ流れていく砂に混ざって、汚れた油に似た闇の帯がずるりと地中に潜り込む。封印を象った五芒星の砂漠は辺りの空気を黒く染め、その場を闇独特のずしりと重い邪悪な空間へと変えていた。
その重苦しい雰囲気は、地界ガルディオスに似ていた。
闇の滞る領域へ一歩足を踏み入れた瞬間、シェリルは体中からすべての生命力が見えない手によって引きずり出されるのを感じて、思わず後ろへ飛びのいてしまった。少し触れただけで心臓が爆発しそうなほど早鐘を打つ。体中からどっと冷たい汗が噴き出し、呼吸が完全に止まったのかと思った。
鎮まるどころか逆に速さを増していく鼓動を何とか押えながら、シェリルはあの天使が異常なまでに怯えた訳を知り両手を強く握りしめる。
確かにそこには光を激しく憎むものしか存在していなかった。どんな器にも収まる事のない憎悪と悲愴は長い年月をかけてもなお少しも消える事なく、いつでも襲いかかれるように鋭い牙を剥き出しにしている。無防備なまま中へ入れば一瞬にして崩れ落ちてしまうだろう。だからこそこの場所は誰からも忌み嫌われていたのだ。
向かうべき場所、シェリルが望む人物はこの砂漠の中にいる。なのに触れるだけで意識を奪われそうになる重苦しい闇がそれを阻んで、シェリルの侵入を絶対的に拒否していた。
光あるものは許さない。天界が闇を拒むように、闇もまたシェリルの存在を許そうとはしなかった。
「そんな……。どうすれば」
唇から転がり落ちた言葉だけが、砂に埋もれて闇に迎え入れられる。
「焦っては駄目。大丈夫、きっと出来る」
静かに瞳を閉じたシェリルのすぐ耳元で、安心感のあるしっかりとしたもうひとつの声が木霊した。
『そう、恐れてはいけない。自分の持つ力を信じなさい』
アルディナの言葉に導かれるまま、右手に握りしめていた剣を目の前までゆっくりと持ち上げた。その細い刃に映ったアルディナの幻影を見た瞬間、シェリルの体から不必要な力がふっと抜け落ちる。
「アルディナ様」
ひとりじゃない。多くの人がシェリルに力を貸し、温かく見守ってくれていた。闇の中で嘆く彼を救いたいと願うのは、シェリルひとりではないのだ。
風もないのにふわりと髪が舞い上がる。同時にシェリルの中から霧に似た柔らかな光の粒子が溢れ出し、それはまるで吸い寄せられるかのように剣の刃へ隙間なくびっしりと貼り付いた。銀色だった長剣は光に包まれ、時々群れを離れた光の粒が綿毛のようにシェリルの頬を撫でていく。その柔らかさがカインの翼と似ていて、穏やかに落ち着いていたシェリルの胸がとくんと小さく高鳴った。
『俺を憎め。……そして、次に会った時は迷わずに殺せ』
剣を握りしめる手に力を込めて、シェリルが目の前に渦巻く闇を睨みつけた。
「そんな願いなんか、聞いてあげないっ」
自分はカインを救うのだと再度心に強く誓って、シェリルが光に包まれた剣を闇に向かって力任せに振り下ろした。
『さあ、来るがいい。女神の力を受け継ぐ者よ。眠りから醒めし我が魔剣に、熱い血潮を捧げてくれ』




