女神の目覚め 2
罅割れた水晶球。
赤黒い色をした丸い球体の表面にびっしりと敷き詰められていた鋭い亀裂は、慈愛に満ちた女性の声音に形成された癒しの呪文によって徐々にその傷跡を消していく。リリスによって傷付けられた水晶球は、空から光が消え夜が訪れた頃にやっと元の姿を取り戻した。
一度に大量の闇を吸収した水晶球の穢れは、簡単に浄化できるものではない。しかし今のこの状況で、セシリアに残された時間はほとんどなかった。普通なら徹夜、あるいは丸一日かけてゆっくりと行う浄化魔法。それを短時間で完成させたセシリアは、辛うじて残った力でもってしても己の体すら支える事が出来ず、その場に倒れるように崩れ落ちた。
深く何度息を吸い込んでも体がまともに反応せず、朦朧とした意識の中で視界がぐにゃりと変形する。異常なほど速く大きく鳴り響く鼓動は耳のすぐ側で聞こえ、それ以外の音をセシリアに届ける事はなかった。
気を失ってしまえればどんなに良いだろうか。しかしセシリアは自分の意思で必死に意識を引き留め、水晶球に向かってなおも呪文を唱えようとする。震え出した指では印も組めず、乾ききった喉からは十分な声すら出ない。けれど、ここで止めるわけにはいかなかった。元に戻った水晶球を核として、新たに天界を包む結界を張り直す事がセシリアの使命なのだ。
疲れきったこの体で結界を張るという大掛かりな魔法を行う事が何を意味するのか、分からない訳ではない。きゅっときつく唇を噛み締めながらやっとの思いで立ち上がったセシリアは、別れ際にシェリルが言った言葉を思い出す。
『犠牲になんかならないで』
翡翠色の瞳に涙を溜めて、今にも泣きそうな顔をセシリアに向けたシェリル。苛酷な使命を最後まで果たそうとする、強い意思を持った運命の落し子。
――――多分、もう二度と会う事はないだろう。
血で赤く滲んだセシリアの唇が、震えるように小さく動く。込み上げてくる吐き気は、血の匂いがした。
「……犠牲ではないわ、シェリル」
――――私は天界を守る事が使命。あなたたちを守りたいの。
水晶球がセシリアの音にならない呪文を受け取って、自ら青白い光を放ち始めた。水晶球を核として結界の再生が始まると同時に、乾ききったセシリアの喉が生温かい液体によって一気に潤う。
濃い、血の味がした。
冷たい空気に包まれた青白い空間が、彼女の訪れを待ちわびたようにざわめいていた。
壁に刻まれた不思議な模様は自ら白く輝き始め、空間自体が神聖で神々しい光に包まれる。その光に導かれるようにして、石造りの床に光の線が流れ出した。水の上を軽やかに滑るようにして素早く現れた光の魔法陣は、その中心にひとつの影を召喚して緩やかに消滅する。
青白く光る空間が、再度大きく空気を震わせた。
「……ここは」
光の魔法陣によって召喚されたシェリルは、自分が現れ出た場所をぐるりと見回して、意を決したように唇をきゅっと噛み締めた。天界へ戻り、女神の目覚めを強く望んだシェリルは、下界で自分を取り巻いた光がその願いを叶えてくれた事を知る。
シェリルが真っ直ぐ見つめた視線の先、その壁に刻まれた三日月の窪み。眠りについたアルディナの元へ、シェリルを導く唯一の扉。
「アルディナ様」
壁に向かって小さく呟いたシェリルの胸元で、三つのかけらを取り込んだ紫銀の首飾りが淡く点滅を始めた。息詰まりそうな威圧感と心に流れ込んでくる強く切ない真摯な願いは、シェリルを使命の重さと運命の過酷さでぐしゃぐしゃに押し潰そうとしてくる。威嚇にも似た空気の重さに拳をぎゅっと強く握りしめて、シェリルは自分の胸にあるたったひとつの思いを確認するようにすうっと静かに瞳を閉じた。
（怖くない。恐れてなんかないわ。私は……救うの）
心の奥に囁いた言葉はシェリルの唇を割って、確かな誓いとして空間全体に響き渡った。
「私は、カインを救うの」
それを合図にシェリルの胸元で淡く点滅していた光が、誓いを認めたかのように勢いよく弾け飛んだ。青白い空間に飛び散った光のかけらはそれぞれ赤と白と青に輝きながら、まるで引き合うかのように空中で再びひとつに纏まってその形を三日月へと変え始める。
徐々に変形していく光はやがて完全な三日月形の水晶へと変化し、シェリルの目の前で壁に刻まれた三日月の窪みにぴったりと嵌まり込んだ。そして次の瞬間。
『目覚めの時が来た』
どこからともなく聞こえてきた声と共に、シェリルを囲む青白い空間がぐにゃりと歪み出した。水中に潜ってしまったかのようにゆらゆら揺れ動く壁を見回したシェリルの目の前に、今度は淡い金色の光がぼんやりと浮かび上がる。
『待ちわびた、私の半身。私たちの力を受け継ぐ、たったひとりの落し子』
金色の光がふわりと膨らんで、水中を漂う人の影に姿を変えた。不思議なほど優しい光を放つ金色の影に自然と手を伸ばしたシェリルのその指先に、光の糸がするすると絡み付いてくる。指先から感じる温かい何かに誘われて瞳を閉じたシェリルは、そのまま眠るようにゆっくりと光の中へ倒れ込んだ。
『もうひとりの私。……名は？』
「……シェリル」
シェリルの名を認め、辺りを取り巻く空気が大きく波打った。
喜びと悲しみ、そして苛立ちや憎悪。ありとあらゆる感情が津波のように押し寄せて、シェリルの中を所狭しと駆け巡る。息も出来ないほど多くの感情を取り込んだシェリルは、耳の奥で切ない女の声を聞きながら最後の感情を自分の中に招き入れた。
それは、希望。
どんな事があっても、決して見失う事のなかった真摯なる願い。
『私は……女神としてではなく、姉としてルシエルを救いたかった』
自分の体を包みこむ金色の光を抱きしめるように腕を広げて、シェリルが小さくけれど強く確かに頷いた。
「――――私もです」
その瞬間、シェリルを包んでいた金色の光が辺り一面に勢いよく弾け飛んだ。そしてシェリルは優しく揺れる水の揺り籠に捕われたまま、静かな眠りへと落ちていった。
浮遊する幾つもの光の粒子。何もない暗黒色の闇を幻想的に彩るそれはまるで星屑の海にも似て、緩やかにうねりながらそこに漂うシェリルの体を優しく優しく包みこむ。
間近で誰かに呼ばれたような気がしてゆっくりと瞳を開けたシェリルの前に、懐かしい感じを覚えたさっきの光があった。
『……謝らなければならない。残された天使たちに。犠牲となった人間たちに。……そしてシェリル、私はあなたに謝らなければならない』
さらさらと解けた光はそのまま金色の髪となり、足元にまで達したその見事な金髪に包まれたひとりの女性が、シェリルの前に完全な姿を現した。緩やかに波打つ蜜色の長い髪に埋もれた、青い宝石のような瞳。
「……アルディナ様」
唇から零れたその名前を静かに伏せた瞳で肯定し、アルディナはシェリルを真っ直ぐに見つめ返した。
『あなたに辛い過去と運命を背負わせてしまった事。そして、本来ならば私が成すべきルシエルの救済を、あなたに押し付けてしまった事。どうか、許して欲しい』
その言葉に驚いて、シェリルが思わず声をあげた。
ルシエルを元に戻す方法を、アルディナは知っていると思っていた。だからこそシェリルはアルディナを目覚めさせ、そして彼らと共に戦う決意をしたのである。それなのに、やっと出会えたアルディナはシェリルに全てを任せると、そう言ったのだ。
「ま、待って下さい。私ひとりでは何も出来ません。私はアルディナ様や他の皆と一緒に戦おうと思ったから、ここにこうして来たのです」
『シェリル』
シェリルの名を呼んで、アルディナが少し悲しげに目を伏せた。
『ルシエルを……いえ、カインを救えるのは……もうあなたしかいない』
「……え？」
――――お前の亡骸と完全な死が手に入らないのなら意味がない。この苦しみを続けるくらいなら、いっそひと思いに殺してくれ。
『ルシエルは、もう私の声すら届かないほど闇に深く捕われてしまった。常に私を求めながら私を憎み続けてきたルシエルは、己が求めていたものすら忘れている。それを思い出させ、彼を救えるのは……憎まれ続けた私ではない。私に最も近く、そして私ではない存在』
怯えた猫のような視線を向けてくるシェリルににっこりと微笑んで、アルディナはシェリルの額に刻まれた三日月にそっと指を滑らせた。
『弟が、闇に捕われてまで何を望んだのか、分かるか？』
「……」
『ルシエルは……――――愛を望んだ。地界神として孤独を生き抜く間も、闇に支配されてしまった今でも、ルシエルは自分を愛してくれるたったひとつの光を求めている』
――――我を愛してくれ。……そして、殺してくれ。
闇を受け入れてまでルシエルが望んだ、彼だけの光。
闇に支配されながらも僅かに残った理性に必死でしがみ付きながら、ルシエルはアルディナを憎みそして愛し続けてきた。己の行動も心の弱さも全部知りながら、それでもたったひとつの愛を求めた彼は……それと同時に死をも望んでいたのだ。
己の弱さに負けた愚かな自分を恥じながら、求め続けたアルディナのその手によって殺される時を願っていた。その瞬間に唯一の愛を手に入れる事が出来ると、そう信じていたのだ。
『闇に捕われ私を憎む事しか出来なかったルシエルと姉である私を繋ぐ糸は、カインが生まれたあの瞬間に切れてしまった。最後まで弟の望みを拒んだ私では、ルシエルを救う事は出来ない』
「……でも……ルシエルが求めるのはアルディナ様の光です。私は……私はただ、もう一度カインに会いたかった。ただ、それだけ……」
闇の王を名乗るルシエルを、自分ひとりで救える自信などどこにもなかった。ルシエルを闇から救い、カインにもう一度会う事を望んでいたのに、たったひとりでルシエルに立ち向かう勇気さえなかったのだと気付かされ、シェリルは恥かしさと愚かさに耐え切れずにアルディナから目を逸らした。
『シェリル。あなたの力を私たちに貸して欲しい』
「……でも……っ。でも私には」
『あなたは選ばれた落し子。ルシエルを救えるのは世界にあなたひとりだけ。他の落し子でも、それは叶わない』
「そんな……。一体、誰が選んだと言うの？」
潤んだ目をきつく閉じて首を振ったシェリルの頬から、涙の粒がぼろぼろと零れ落ちる。
涙の理由は、不安。
今シェリルの肩に乗っているものはカインを救うというシェリル個人の願いではなく、世界の運命そのものなのだ。それはひとりの人間が背負うには、あまりにも苛酷な使命だった。
運命の重さと逃れようのない責任の重大さ、そして押し潰されそうなほどの不安に眩暈すら覚えて、シェリルの体が無意識に震え出す。
「私はただの人間で……落し子としての力も扱えない。ただカインを……カインを取り戻したいと願っただけ！」
『シェリル』
取り乱し、少し声を荒げてそう言ったシェリルの耳に、アルディナの落ち着いた静かな声音が届いた。
『あなたを選んだのは……――――ルシエル自身だった』
はっと顔を上げたシェリルの脳裏にアルディナがルシエルを封印した時の情景が、まるで自分の記憶のように鮮やかに甦る。
闇を閉じ込めた紫銀のピアス。届かなかったアルディナの思い。ゆっくり閉じた瞳から逃げるように零れ落ちた一粒の涙。
――――我を、この闇から救ってくれ。
最後の言葉は荒野を走る風の悲鳴に連れ去られ、あっという間に引き裂かれてしまった。
けれど、それは彼の言葉だった。
闇の王ではなく地界神でもない、ルシエルという孤独な男の心の声だった。
アルディナの手のひらに受け止められたルシエルの涙は、光にかき消される闇のようにさらさらと崩れ落ち、そしてそれは傍らに佇むアルディナのムーンロッドへ引き寄せられるように吸い込まれていった。ルシエルの願いを吸収したムーンロッドは彼の色に淡く輝きながらゆっくりと光に溶け、みるみるうちに小さく形を崩していく。
血に汚れた羽根と折れてしまった剣に埋もれた死せる大地の片隅で、世界を恐怖の渦に陥れた闇の王が永い眠りについた時、アルディナの力とルシエルの願いを閉じ込めた、世界でたったひとつしか存在しない紫銀の三日月が誕生した。
『愚かな我を……一体、誰が許すと言うのか……』
ルシエルが最後に望んだのは、自分をこの闇から救ってくれるアルディナではない存在。
その願いは彼の純粋な涙としてアルディナのムーンロッドに受け継がれ、彼の待つ存在が現れるその時まで時間の揺り籠に揺られていた。
紫銀の三日月という形を成して。
そして、それはひとりの落し子と共にこの世に生まれたのである。
アルディナの力とルシエルの願いを、小さな手のひらに握り締めて産声を上げた落し子は、名をシェリルと言った。
『我を、救ってくれ。…………シェリル』
とくん、と胸の奥で何かが響いたような気がした。
薄れゆく過去の情景を見つめながら、遠く……はるか遠くの闇の中から切なく懐かしい声を聞いた。
『俺はもうお前を守れない』
『この力で、皆を助けたいのです！』
『俺を憎め。そして、次に会った時は……迷わずに殺せ』
瞼の向こうで光が炸裂した。
紫銀に煌く光の渦に飲み込まれながら、その中でシェリルが見たものは淡く微笑むアルディナと、儚く消えゆくルシエルの幻影。そして光の糸のように細い影を残す、銀の宝剣だった。
今までシェリルの胸元で揺れていた三日月は本来の姿を取り戻し、そこに残されていた力と願いをシェリルの心に強く刻み付けていく。
「……これは？」
いつのまにかその手に握りしめていた細身の長剣を驚きの眼差しで見つめたシェリルの瞳が、銀の刃にはっきりと映し出される。
『それはあなただけの力。あなたの、ムーンロッド』
「ムーンロッド？」
『眠りの時は終わった。シェリル、私と共に目覚めよう』
アルディナの目覚めは落し子の目覚め。
扉に刻まれたはるか昔の予言が、今成就されようとしていた。その手に幻のムーンロッドを甦らせ、運命の落し子として目を覚まそうとしていた。
シェリルが望むのはカインの救済。そしてルシエルも同じようにシェリルの救いを必要としているのなら、シェリルはただ前に進むしかない。
迷うことは、何もないのだ。
世界よりも自分よりも、カインを救いたい。そう誓った事を、シェリルは自分の胸に強く強く刻み込む。
待ち受ける運命は、決してシェリルに優しくはないだろう。
それでも逃げない事を誓う。
悲しみに負けない事を誓う。
大きく息を吸い込んで傍らのアルディナへ真っ直ぐな視線を向けたシェリルが、気弱だった自分を否定するように力強く頷いた。
「……はい。行きましょう、アルディナ様」
迷いのない澄んだシェリルの声音に反応して、二人を取り巻いていた空間が眩いほどの光に埋め尽くされた。
歴史に残る、創世神アルディナの目覚めの時である。
