悲劇の再会 2
暗闇に毒々しい赤をちらつかせながら飛び回っていた三つ目のカラスは、やがて目的地を発見したかのように堂々とした声で一声鳴くと深い闇を真っ直ぐに突き進んでいった。
誇らしげに飛んでくるカラスを見つめた淡いブルーの瞳が闇に揺らめいて、彼の視界を一瞬だけぐにゃりと歪ませる。溢れ出しそうな意識を抑えようと深く息を吸い込んでから再び目を開けた男の肩に、三つ目のカラスがゆっくりとした動作で羽音ひとつ立てずに降り立った。
男の頬に頭を擦り付けながら喉を鳴らすその様子は、まるで子が親に甘える時のようだ。そんなカラスの小さな頭から、面倒臭そうに顔を背けた男が、低い声音で独り言のように呟いた。
「……そうか、戻ったか」
途端、男の背からぶわりと闇が溢れ出した。
それは空気に触れるや否や男の背で漆黒の輝きを放つ二枚の翼へと姿を変え、伸びでもするかのように大きく羽ばたきを始める。突然の事に驚いて不意を突かれたカラスが、男の肩から無様に滑り落ちた。
「やっとひとりになったか、落し子。頼るべき天界はあの女のおかげで、今は手一杯だ。お前を守る天使は、もうどこにもいない」
押し殺した声でくっくっと笑みを零して、男は自分の胸に手をあてる。確かな、そして少し速い鼓動が手のひらを通じて男にはっきりと届いた。
「嬉しいか? それとも、この姿を見られるのは苦痛か? ……そうだろうな。この姿は落し子が憎むべき宿敵のもの。一目見れば、お前の真実を明らかにしてしまうものだ」
自分に問うように囁いて、男はその答えを己の中から見つけ出そうとした。が、その答えを持つのは男ではなく、彼のはるか奥底に閉じ込められたもうひとつの影。それを知っていた男は嘲るようにふんっと鼻で笑い、胸にあてた手を引き剥がして無造作に前髪をかきあげた。指の間からさらさらと滑り落ちた紫銀の髪の向こうで、淡いブルーの瞳が冷たい輝きを放つ。
「しかし、お前にはもう関係のない事だ。そして、我にも関係ない」
ばさりっと音をたてて、男の黒いマントが闇に大きく翻った。
大聖堂の中は、避難した神官と礼拝に来ていた人たちとで溢れかえっていた。
突然の魔物の襲撃に恐怖と混乱とで平常心を失っている人々を想像していたシェリルだったが、大聖堂の中はいつもの礼拝の時のように……いや、それ以上にしんと静まり返っている。
物音ひとつ響かない、完全な静寂。泣き声も話し声も聞こえない。
この状況下でこれだけ落ち着いていられるのも珍しかったが、人々に埋もれて見え隠れする純白の法衣を見つけて、シェリルはそれがエレナの影響である事を知った。ここにいる者は皆、エレナに絶対の信頼を寄せている。魔物に襲われ大聖堂に避難しても、そこにエレナの存在がある限り彼らの心から希望の光が消える事はない。
「エレナ様っ!」
決して大声を上げた訳ではなかったが、シェリルの声は大聖堂の空気を一瞬にして震わせ、高い天井の隅々まで響き渡っていった。そこにいた者が全員が申し合わせたようにシェリルを見つめたが当の本人はそれどころではなく、大聖堂に入るなりすぐにエレナの元へ走り出す。
「エレナ様っ! 良かった」
シェリルがどうしてここにいるのか特に驚く様子も見せず、エレナは側に走り寄ったシェリルの頭を優しく撫でながら穏やかな微笑みを零した。
「やっぱりあなただったのですね、シェリル。クリスティーナを外に出したのが間違いでなくて良かった。……でも、どうして戻ってきたのです。ここの状況は見て分かる通り、いつまた魔物が来てもおかしくありません。あなたには使命があるはず。それをやり遂げる為に……シェリル、あなたは天界へ戻りなさい」
優しい口調の中にも、親であり神官長でもある厳しさを秘めたエレナの言葉に、シェリルは同じ事を言ったセシリアの姿を思い出した。
『かけらを集め、使命をまっとうしなさい』
魔力をほとんど使い果たしたセシリアは、シェリルを下界のアルディナ神殿まで送り、その体で再び天界に結界を張ろうとしている。もはや、自分の命を惜しむ場合ではなかった。おそらく天界の住人は皆命をかけて戦い、天界を、女神を守り抜こうとするだろう。セシリアも、そしてルーヴァも。そうならない為に、シェリルは己の内に宿った力と正面から向かい合う決意をしたのだ。すべてが手遅れになる前に。すべてを失ってしまう、その前に。
「エレナ様っ。エレナ様、どうかお力を! 私にアルディナ様の力を振るう為の知恵をお授け下さい! この力で天界を……皆を助けたいのですっ!」
シェリルのただならぬ様子に何かを感じ取ったエレナが、優しい笑みを消した顔に威厳のある表情を浮かべた。
「声をお下げなさい、シェリル。皆の不安を駆り立ててどうするのです」
静かに、それでいてずしんと心に響く声音で言われたシェリルは、自分が注意された事の真の意味を知り、思い出したようにはっと顔を上げて口を噤んだ。
天界で今何が起こっているのかを安易に口にしてしまえば、それこそここにいる者たちは激しく動揺し、今まで崇め信じてきた光を失う事になる。焦り、苛立ち、ただ前に進む事しか見えなかったシェリルは、後少しのところで天界が危機的状況に陥っていると言う事を大声で叫んでいた。シェリルの様子とその言葉から曖昧ながらも状況を悟ったエレナが素早く口を挟んだおかげで、神殿にいた者たちは二人の会話が何を意味するのか知る事はなかった。
「こちらへいらっしゃい、シェリル」
さっきとはうって変わって優しげに言ったエレナが、神殿の奥にある部屋へ歩を進めた。しゅんと項垂れたシェリルを連れて部屋に入ったエレナは、再び顔をのぞかせて補佐であるクリスの名を呼んだ。
「クリスティーナ。結界に異変があったらすぐに知らせて下さい」
「分かりました」
不安げに返事をしたクリスを見て、エレナは大丈夫だと言い聞かせるようにゆっくり頷いて、シェリルと共に部屋の奥へ消えて行った。
別室に入るとすぐにエレナは親の顔に戻り、唇をきつく噛んだまま大きな目を潤ませているシェリルの両手をぎゅっと握りしめた。
「一体どうしたと言うのです? 手に入れたアルディナ様のお力を借りてまで、あなたは何をしようとしているのですか? 天界の方々は……」
「……――天界は……今、魔物に襲われていますっ」
低く押し殺したシェリルの声は少しも響きを持たず、エレナの耳にだけ届くものだった。エレナの言葉を待たずに、シェリルは天界が今どのような事態に陥っているのかを簡単に説明し、そして自分の宿敵である闇の正体についても隠す事なくすべてを告げた。
少し興奮気味に早口で語られる真実をひとつも漏らす事なく聞いていたエレナは、シェリルの言葉が終わると同時に重い溜息をついてシェリルを真っ直ぐに見つめ返した。
「……感じますか? シェリル。世界が、大きく動こうとしています。光であるアルディナ様と、闇であるルシエル様。……けれど私にはどちらも同じように輝く神に見えます。二つはまったく違うもののように見えて、実はまったく同じものなのです」
エレナの言葉に、シェリルは信じられないと言うように強く頭を振る。
「分かりませんっ! ……私に、何を分かれと仰るのですか! 彼はっ、ルシエルは私の両親を殺した張本人なんですっ。……憎しみしか湧いて来ないっ!」
「憎しみは何も生み出しません。その事は地界神の心により多く触れたあなたが、一番よく知っているでしょう? 闇に身を置き、多くの仲間を手にかけた彼こそ、一番の犠牲者なのかもしれません」
同じ事を言っていた。
女神が残した力に宿る魂たちも、闇に魅入られたルシエルを救えと言っていた。
しかしシェリルにとってルシエルは未だに闇の王であり、憎むべき敵なのだ。彼を倒す事ただそれだけを支えに生きてきたシェリルが、すぐに頷けるはずもない。
「……ルシエルは闇です。闇は私からすべてを奪い、天界を、そしてこの神殿を襲った。それでもエレナ様は彼を許せと仰るのですか? 憎むなと! ……分からないわ。私は、何を信じたらいいの? これまでの私は全部、意味を持たないとっ!」
「落ち着きなさい、シェリル。怒りに我を忘れてしまえば、それこそ闇の思うつぼです」
「エレナ様っ」
「何もかもをひとりで背負ってどうするのです。あなたはもう、怯えて泣いていたひとりぼっちの少女ではないのですよ? あなたを思い、あなたを愛する者たちが近くにいる事を忘れてはいけません。私もクリスティーナも、そしてずっとあなたを守ってくれた天のお方も」
「……天の……。――――カイン」
声は出なかった。
掠れた声で呟かれた名前は外に出る事なく、シェリルの胸の中に深く深く刻まれていく。
『お前が俺を信じるなら、俺は決してルシエルになんかに負けやしない』
カインがいないだけで、シェリルの心はひどく混乱していた。心に余裕を持てず、ひとり焦っていただけだと言う事に気付いて、シェリルは弾かれたようにエレナへ顔を向けた。
「信じなさい、シェリル。あなたが本当に求めているものが何なのかを知るのです。憎しみではなく、愛を」
自分が闇を許せる確証はなかった。しかし闇を憎いと感じる一方で、シェリルの心は不思議とエレナの言葉も素直に受け止めていく。
「あなたは誰にも負けない強さと深い愛を持っています。それは親である私が、一番よく知っていますよ」
「……エレナ様。……私っ」
胸に詰まった不安を、洗いざらい話してしまいたかった。今の天界にとって自分が何の役にも立てない事。女神の力も思うように扱えず、ひとりでは何ひとつ出来ない事。そして何も言わず離れていってしまった、意地悪な天使の事もすべて。
シェリルにとってカインの存在を身近に感じられない事が、何よりも心を不安にさせる。カインが側にいない、ただそれだけでシェリルは自分がこんなにも取り乱してしまう事を嫌と言うほど実感していた。
「私っ。もう、どうしたらいいかっ」
縋り付くようにエレナを見上げ、かすかに震えた声を絞り出すようにして呟いたシェリルの言葉は、突然荒々しく開いた扉の音によってあっけなくかき消されてしまった。
「エレナ様っ! 結界が!」
慌てて部屋の中に入ってきたクリスが全部言い終わらないうちに、大聖堂がぐらりと大きく左右に揺れ動いた。みしみしっと音を立てて軋む天井から、石の破片がぱらぱらと雨のように降り注ぐ。
「闇がっ?」
弾かれたように部屋から飛び出したエレナの後に続いて大聖堂へ戻ったシェリルは、辺りを覆う異様な雰囲気に思わず足をぴたりと止めて立ち尽くした。
大聖堂を包んでいた神聖な気が、まるで吸い込まれるかのように外へ通じる大きな扉へ引き寄せられていた。目で見るのではなく直接肌で感じるその光景は、闇が光を喰らうそれと似ている。外へ引きずり出されていく神聖な気の悲鳴がシェリルの耳元で弾け飛び、シェリル自身もその波に飲み込まれ外に連れて行かれそうになる。耐え切れず一歩前に足を踏み出したシェリルを引き止めたのは、エレナの鋭い叫び声だった。
「扉から離れなさいっ! 早くこっちへっ!」
その瞬間――――大聖堂の重い扉が、体に響く爆音を轟かせながら勢いよく弾け飛んだ。
あっという間に光は奪われ、大聖堂の中は暗い地底の闇に包まれる。エレナが瞬時に張った結界のおかげで大聖堂の中にいた人々は扉の爆発に巻き込まれずに済んでいたが、その結界も強力な闇を前にしてどれだけもつか分からない。
大聖堂の扉を粉砕した闇は中にずるりと侵入し、エレナの張った結界の周りをうねうねと取り囲み始めた。
「……シェリル」
初めて耳にするエレナの苦しげな声に、シェリルが慌ててエレナの側へと駆け寄った。
「エレナ様っ」
「シェリル、よく聞きなさい」
嫌な予感がした。
「もしもの場合、あなたはここからお逃げなさい。私たちが闇を止められるのは短い間ですが、あなたなら逃げ切る事が出来るはずです」
一瞬目の前が真っ暗になった。そのまま倒れてしまった方が幸せだったのかもしれないと、シェリルは思う。天界から逃げてきたように、今度は育った家も親も友も見捨ててひとりで逃げる事を、エレナはシェリルに選択させようとしていた。
「……エ……レナ様。……何を仰るのです」
身近な者を失うかもしれないと言う恐怖は、シェリルの脳裏に十年前の忌まわしい出来事を鮮明に思い出させた。愛しい者の血に濡れて、もう一度ひとりで泣き叫べと言うのか。
「お願いです、エレナ様っ。私はもうひとりで逃げたくないのです! 大切な者を守れない力ならいらないっ。私は私の為に、ここに残りたいのですっ!」
叫んだ言葉に、嘘はなかった。
今ここで逃げてしまえば、それこそシェリルは本当にひとりきりになってしまう。アルディナ神殿で過ごした十年も、苦労して手に入れた女神の力も、そしてシェリルの存在までもが意味を無くしてしまうのだ。
大切な人ひとり守れないで、この力は何を守ると言うのか。シェリルは闇から逃げない事を決意していた。それがこれから重く圧し掛かる、辛く悲しい運命の始まりだという事も知らずに。
「――――ほう、我から逃げずに戦うと言うのか。……尤も、我はもう十年前と同様にお前を逃がすつもりなどないがな」
粉砕された扉の向こう、夜にも似た重く暗い闇の中で何かが軽やかに揺らめいた。闇から響く足音がゆっくりと近付くにつれ、シェリルの胸が痛いほどに早鐘を打つ。
この闇を知っていた。
体を一瞬にして凍らせてしまう、恐ろしく冷たい声を知っていた。
忘れるはずのない邪悪なそれに、シェリルの体が小刻みに震え出す。
「……――――ルシエル……」
掠れた声音は、闇に引きずられて消滅した。
「そう、我が名はルシエル。……――――それとも、お前は我を違う名で呼ぶか?」
悲劇の扉は、シェリル自身の手によって開かれた。
その先にある光と闇はシェリルを激しく翻弄し、そして真実の愛までもが粉々に砕け散ろうとしていた。
「ルシエルではなく――――カイン、と」




