悲劇の再会 1
天界に侵入した魔物も、結界の核である水晶球を覆い隠していた闇も、邪悪なものはすべて跡形もなく消え去っていた。
ただひとり、魔方陣の真ん中に立つ、ブロンドの影を除いては。
「あと少しで殺せたのに……。まったく、その女にどれだけの価値があるというの?」
「リリス……っ?」
「私の闇を退けるなんて、本当に忌々しい女」
リリスの中から、凄まじく強大で邪悪な黒い気が爆発したように溢れ出した。リリスの手に握られた闇を操る黒い水晶が、その衝撃に耐え切れず悲鳴を上げて砕け散る。
「さあ、シェリル。行きましょう。ルシエル様があなたを待っているわ」
不気味な笑みを浮かべてすうっと手を差し出したリリスに、シェリルが怯えた目を向けて首を緩く左右に振った。
「……リリス、どうして? どうして闇なんかに」
「どうして? あなたを始末してカインを手に入れる為よ。ただの人間で、落し子のあなたなんて邪魔なだけ」
「リリスっ!」
「消えてちょうだい」
言葉が終わると同時に、黒く燃え上がる炎の渦がリリスの前に踊り出た。それはまるでリリスの心を読み取っているかのように激しくうねりながら、亡者の悲鳴に似た轟音を辺りに轟かせる。
びりびりと震動する空気に乗って伝わってきた恐ろしいまでの殺意に、リリスを凝視したままのシェリルが大きく体を震わせた。邪悪な闇に捕われた激しい殺意に、シェリルの魂が警告の鐘を打ち鳴らす。
「シェリルっ!」
怒号のようなルーヴァの声を耳にするより先に、シェリルの体が勢いよく後ろに引き戻された。流れた視界を遮って正面に立ちはだかった青い影と、すぐそこまで迫っていた黒い炎の塊にシェリルの瞳が大きく見開かれる。
「ルーヴァ!」
「早く安全な所へ! 姉さん、シェリルをっ!」
そう言いながら空中に素早く短剣を走らせて薄青の軌跡を描いたルーヴァは、ぐるぐると渦を巻きながら迫り来る黒い炎を睨みつけたまま、軌跡の光によって作りあげられた青い魔法陣の中心に短剣を勢いよく突き立てた。
耳を突く破裂音と共に白い霧を織り混ぜた風が、ルーヴァの魔法陣を中心にしてぶわりと溢れ出した。ルーヴァが唱える呪文のかけらを絡め取りながら徐々に形を作っていく不思議な風は、ルーヴァの短剣を羽根代わりにした翼へと変化し、敵を威嚇するかのように大きくそして力強く羽ばたいてみせた。
「覚悟して下さい、リリス。あなたであろうと手加減はしません」
「楽しみだわ」
間を開けず返事をしたリリスが赤い唇を引いて笑ったのを合図に、黒い炎の塊がルーヴァの目の前で数十倍にも膨れ上がった。それとほぼ同時に風の翼も大きく羽ばたき、サファイア色に輝く無数の短剣を、文字通り風の刃に変えて攻撃し始めた。
辺りは一瞬にして白い風と黒い炎に埋め尽くされ、視界を遮られたシェリルは聞こえてくる生々しい音に体を震わせながら、それでも状況を確認しようと翡翠色の瞳を大きく見開いた。その視界の片隅に、罅割れた結界の隙間から侵入しようとする魔物が映る。
「セシリアさん! また魔物が……っ。早く結界を直さないと!」
「ええ、分かってるわ。でも、その前に……シェリル」
一呼吸置いてシェリルの名を呼んだセシリアが、厳しい表情のまま空から屋上に渦巻く風と炎、そしてシェリルへ視線を移してきゅっときつく唇を噛み締める。
「天界は戦場になるわ。安全だとは言い切れない。……シェリル、あなたは下界のアルディナ神殿へ戻りなさい。落ち着いたら連絡するわ」
シェリルの腕を強く掴んで、セシリアが低く重みのある声で言った。その瞳の奥に巧みに隠された決心を敏感に感じ取り、シェリルは目を大きく見開いたまま駄々をこねる子供のように首を振った。
「……いや、よ。私もっ、私も戦うわ! アルディナ様の力で一緒に……まだ上手く使いこなせないけど、大丈夫。戦いながら覚えるから! それにっ」
「シェリル」
強く名前を呼んで、セシリアがシェリルの腕を掴んだ両手にぐっと力を込める。強固な意志と逆らえない口調に、シェリルが思わず口を閉じた。
「あなたはアルディナ様が待ち望んだ落し子。かけらを集め、使命をまっとうしなさい」
こんな所で無駄死にするなと言われたようで、シェリルが更に目を大きく見開いた。潤んでぼやけた視界に、セシリアの呪文が連れてきた淡い光のヴェールが映し出される。絹のように優しく体に触れた光のヴェールはそのままシェリルだけをすっぽりと包み込み、蝶に似た光の粒子をひらひらと空へ舞い上がらせていく。
「セシリアさんっ!」
「心配しないで。天界も下界も守ります」
そう言ってにっこり微笑んだセシリアを最後に、シェリルの視界から色が消えた。慌てて伸ばした手は空を泳ぎ、叫んだ声もセシリアに届く事なくばらばらに解けて落ちていく。体を包む淡い光の向こう側に確かに聞こえていた爆音や呪文も次第にそこから遠のいて、シェリルだけが天界を抜け出そうとしている。
「セシリアさん、駄目っ!」
セシリアの真っ直ぐな瞳の奥に感じた強い意志。それが何を意味するのか、シェリルには分かっていた。
天界を魔物から守ろうとする思い。残り少ない魔力で壊れかかった結界を直すには、それなりの代償が必要だった。
「駄目よ! 犠牲になんかならないでっ!」
遠くなる天界へ必死に手を伸ばして叫んだシェリルの言葉は、眩しい光を炸裂させたセシリアの呪文によってかき消された。
『私を女神に合わせてほしいの』
あんな願いなどしなければ良かったと、後悔していた。
両親を殺し、自分を狙う闇の正体を知る為にそれはシェリル自身が望んだ事ではあったが、天界全体を巻き込む恐ろしい事態に発展するなど想像もしていなかった。こんな事になるなら、女神に会うという願いを持たなければ良かったとシェリルは思う。天界の住人が無事であるなら、女神の事は諦めたって構わない。それよりも大切なものを、大切な思いを、シェリルは何が何でも守りたいと心の底から思うようになっていた。
数時間ずっと、指を絡ませて祈っていたような気がする。実際にはもっと短い間だったのかもしれない。肌を刺す冷たい風に現実へと引き戻されたシェリルは、いつのまにか見慣れたアルディナ神殿の大聖堂の前に立ち尽くしていた。残り少ない魔力で自分をここまで送ってくれたセシリアの気持ちに、シェリルは胸が締め付けられる。
「セシリアさん……」
最後に見たセシリアの微笑みを思い浮かべたシェリルは、やがて意を決したように唇をきゅっと噛み締めたまま深く息を吸い込んだ。天界を救う方法があるのなら、それは創世神アルディナの力しかない。そしてその力を受け継いだシェリルが、今やらなければならない事。
天界襲撃を目の当たりにして、シェリルは初めてこの力を受け継いでよかったと心から感謝した。この力で皆を救えるならと、強く決意してシェリルは顔を上げる。その目は神官長であり親代わりのエレナを探していた。
「エレナ様なら、何か分かるかも」
アルディナの力を二つも受け取っていはいたが、実際シェリルは自分の思うように力を扱えた事は一度もない。身の危険が迫った時、それも半ば自動的に発動する力を自分の意思で操れる方法が、エレナになら分かるような気がした。完璧とはいかないまでも、必ず良い助言をくれるだろうと思い、シェリルはエレナを探して辺りをぐるりと見回した。
そしてシェリルはこの時やっと、アルディナ神殿全体を覆う異変に気がついたのだった。
吹き抜ける真冬の冷たい風がアルディナ神殿を包み、物悲しい音を灰色の空高くまで響かせている。聞こえるのは風の悲鳴と、そして驚くほど間近で聞こえた自分の速い鼓動音。
異常なまでの静寂に包まれていた。
神官たちの部屋が並ぶ星の棟にも、束の間の休息を楽しむ広い中庭にも、本来ならばあるべきはずの人の気配がまったくない。
どくんっ、とシェリルの胸が大きく脈を打った。
注意して見れば見るほど、さっきまで気付かなかった小さな異変が次々と翡翠色の瞳に飛び込んでくる。中庭の緑は今しがたやっと火が消えたばかりのように、焼け焦げた地面から黒く細い煙を吐き出しているし、神殿のほとんどの窓が外側から粉々に割られていた。激しい風にばさばさと重く低い音を響かせたカーテンが、外に大きくあおられている。
「……何が……」
イルージュ最高の神殿とだけあって造りはしっかりしていた為、全壊だけは辛うじて免れてはいるものの、壁に残った鋭い爪跡や神殿の一部を焼き尽くした痕跡から、これが人間の仕業でない事くらいシェリルにも分かっていた。変わり果てたアルディナ神殿に、シェリル以外の気配はもう何も残っていない。
「……そんな……まさか、嘘よ」
絶望を帯びた声音は、やけにはっきりとシェリルの耳に戻ってくる。天界と同じように魔物の爪跡を残しただけの荒れ果てたアルディナ神殿、そこにシェリルの帰りを待つ人は誰もいなかった。神官長エレナも親友クリスティーナも、シェリルの前には姿どころか気配すら現さない。辺りはただ、しんと静まり返っているだけだった。
シェリルは喉が一瞬にして干上がったのを感じた。いつのまにか体がかたかたと小刻みに震えている。こんな形で、親しい者たちを失っていいはずがない。闇に二度も奪われていいはずがない。
「エレナ様っ! エレナ様っ……クリスっ!」
シェリルは神殿へと駆け出していた。神殿の中に誰かがいる事を切に願いながら、嫌な予感を追い払うように大声を上げて走り出したシェリルのその背後で、突然彼女の名を呼ぶ小さな声が聞こえた。
「……――――シェリル?」
僅かに空気を震わせただけの声は、冬の冷たい風にかき消されてしまうほど弱々しかったが、仲間を求め不安に押し潰されてしまいそうなシェリルの耳に、それは唯一の希望の音としてはっきりと届いていた。
反射的に身を翻したシェリルの瞳に映った懐かしい影は、まるで闇からシェリルを救い出す一条の光にも見える。
「クリスっ!」
胸に溜まっていた悪い予感を一気に吹き飛ばし、かすかな喜びを顔に浮かべたシェリルは、重く閉ざされていた大聖堂の扉を開けて注意深く外へ出てきたクリスへ足早に駆け寄っていった。
「クリス! クリスっ、よかった。無事だったのねっ!」
「シェリルこそ。他の皆も大聖堂へ避難しているわ。もちろんエレナ様もよ」
少し早口で言いながら、見えない何かに怯えるように辺りをぐるりと見回したクリスが、突然シェリルの手首を強く掴んで有無を言わさず大聖堂へと歩き出した。そのただならぬ様子に再び表情を曇らせたシェリルが口を開くより早く、クリスが今さっきこのアルディナ神殿に何が起こったのかを手短に話し始める。
「二時間ほど前よ。突然神殿が闇に包まれたの。今まで感じた事もない、とても恐ろしい闇だったわ。その中から現れ出た無数の魔物が神殿を襲った」
「そんな……。一体何が目的で」
「ただ遊んでいたようにも思えるわ。だって魔物は私たちを追いまわすだけで、決して殺そうとはしなかった。……エレナ様の指示のもと、私たちは大聖堂へ避難して、エレナ様は大聖堂ごと守りの結界を張ったの」
アルディナ神殿に到着してから人の気配をまったく感じる事が出来なかったのは、エレナの張った結界の影響だったと言う事が分かり、シェリルは納得すると同時にほっと深く息を吐いた。
「早く中へ入って。どこに魔物がいるか分からないわ」
「そうね。……でも、皆が無事で本当に良かった」
そう言ってクリスの手をぎゅっと握り返したシェリルが、少し潤んだ瞳をクリスに向けてにっこりと微笑んだ。
何度も周りを確かめながら滑るように大聖堂の中へ消えていった二人は、さっきからずっと空の上で自分たちをじいっと見つめていた赤い三つ目のカラスの存在に、最後まで気付く事はなかった。




