悲しいキス 1
――――呼ばれているのは我か? それとも……俺か?
浮遊する羽根のように不安定に揺れる意識を、必死に引き戻そうとする声があった。
彼を必要とし、彼の存在すべてを求め愛そうとする声は、彼がはるか昔からずっと求めていたものだったのかもしれない。凍て付いてしまった心を温かく包み込み、その氷塊を溶かしてくれるかもしれない。
淡い期待と抱えきれない不安を胸に、彼はそっと声のする方へと振り返る。そこに感じた汚れのない白い光に指先で触れた瞬間、彼の唇から自然と声が零れ落ちた。その名を彼は、ずっと探していたような気がする。
「……――――ル」
唇が動くと同時に、カインの腕がまるで何かを求めるようにシェリルの背中へまわされた。その力を感じてはっと顔を上げたシェリルが名を呼ぶより先に、カインがゆっくりと瞳を開いて再び唇を動かした。
「……シェリル」
「カインっ? カイン、良かったっ」
泣きすぎて赤くなった瞳を向けて、安心したようににっこりと笑みを浮かべたシェリルを見て、カインは曖昧に笑みを返しながらシェリルの背中にまわした腕に力を込める。いつもなら顔を真っ赤にさせて暴れ出すシェリルだったが、今だけはカインがすぐ側にいる事に喜びを覚え、その存在を感じられるようにもっと近くへ体を寄せた。
「……ここは、どこだ? 俺は確か……」
「涙のかけらを手に入れたの。その力が私たちをディランから遠ざけて、この町へ連れてきてくれたのよ。ここはその町の宿屋よ」
「そうか。……何となく感じていた光と熱は、お前だったんだな」
そう言ったきり黙りこんだカインに不安を覚えて、シェリルが勢いよく体を起こした。腕の中から飛び出したシェリルを求め、未練がましく追いかけようとしていた手を引き戻したカインの胸に、言い表せない喪失感が溢れ出す。それに隠れるようにして存在する、深く暗い孤独感。
「何か温かいもの持ってくるわ。すぐ戻るから」
暖炉の奥で弱々しく燃える炎の音よりも小さく静かに扉を閉めて、シェリルが部屋を後にする。扉に遮られたシェリルの姿を追うように、カインの唇がかすかに動いた。
「……――――アルディナ」
その恐ろしく冷たい声音に、カインは自分の心まで凍て付いていく感覚を覚えて、ぎくんと大きく体を震わせた。
闇の匂いを含んだ声は、確かにカイン自身のものだった。その影に潜む闇の存在を、カインはあの地界ガルディオスで見たような気がする。記憶に残るかすかな夢と、流れ込んできた感情の渦。行き場のない言葉の数々。そして、それらすべてを激しく拒み続けるカインの精神。
「……違う。違う……俺はカインだ」
宿の一階にある閉店間際の小さな酒場で、フルールという少し甘めの飲み物を作ってもらったシェリルは、何度もお礼を言いながら部屋に戻っていった。
カップの中で揺れる鮮やかなルビー色の液体を覗き込んで、白い湯気と一緒に漂うかすかな花の香りを楽しみながら、シェリルはカインが無事に目を覚ました事に対して再びほっと息を吐く。自分がこんなにもカインの存在を必要としていた事を気付かされたような気がして、シェリルの胸がとくんと小さく鳴った。
『僕には彼の目覚めが必要だ』
同じようにカインを必要としたディラン。その異常なまでの執着を思い出したシェリルの胸から、今さっきの小さなときめきが一気に消え失せる。急にカインが心配になったシェリルは、手に持ったフルールをなるべく零さないようにしながら部屋まで急ぎ足で帰っていった。
「カイン。あのね、宿の人が特別に……」
そう言いながら部屋に入ってきたシェリルを、冷たい真冬の風が包み込んだ。体温を一気に奪った夜風にびくんと身震いして振り返ったシェリルの瞳が、開け放された窓と空になったベッドを鮮明に映し出す。
「カインっ!」
胸騒ぎを感じて慌てて窓際に走り寄ったシェリルは、窓の外の暗い闇にかすかに降る雪と白い羽根を重ねて見て思わず声を張りあげた。
「カイン! カインっ!」
「ここだ」
ふいに聞こえた小さな声にシェリルが上を向くより早く、カインが屋根からふわりと飛び降りて姿を現した。闇にくっきりとその存在を浮かび上がらせる二枚の翼を緩やかに羽ばたかせながら、カインは大声を上げたシェリルを不思議そうに見つめている。
「な、によ。何でそんな所にいるのよ。びっくりするじゃない。……いなくなったのかとっ」
「悪い、少し考え事してた。……どこにも行かないから部屋にいろ。俺はもう少しここに」
「嫌」
カインの言葉を遮って短く返事をしたシェリルが、そのまま窓から身を乗り出して屋根によじ登ろうとし始める。その様子を見て呆れたように溜息をひとつ零したカインが、落ちてしまいそうに不安定なシェリルの体を腕に捕えて上昇した。
「風邪引いても知らないからな」
少し冷たく言って、カインはシェリルの体を後ろから抱きしめたまま、屋根の上に腰をおろした。
「だって……。カインと離れるのは……とても不安だもの」
白い息に紛れながら零れた声がカインの耳に届くと同時に、シェリルがずっと手に持っていたフルールを後ろ向きのままカインに差し出した。受け取ったフルールに数回口を付けただけですぐにカップを返してきたカインに、シェリルがむっと眉を寄せて後ろを振り返る。
「まだ半分以上も残ってるじゃない。宿の人がせっかく作ってくれたのに」
「俺はもういい。寒いんだろ? お前が飲めよ」
「でも」
「俺はこれでいい」
囁くような声で呟いて、カインがシェリルを抱きしめる腕に力を込めた。もっと近くに抱き寄せてシェリルの金髪に顔をうずめたカインは、腕の中の存在を全身で感じながら深く息を吸い込んだ。懐かしいシェリルの香りはカインの胸を柔らかな光で満たし、今さっきまで心に侵入してきていた得体の知れない不気味な闇の触手を一気に追い払っていく。
カインに染み込んだ闇を浄化するような、汚れなき光を持つシェリル。その吐息が、髪の一本までもが神聖な力を秘めているようだった。そう、まるで創世神である女神アルディナのように。
「……カイン、あのね。話したい事があるの」
シェリルの体温に溺れてしまいそうになっていたカインは、腕の中から聞こえた声にはっと目を開いて少しだけシェリルを抱きしめた腕から力を抜いた。
「涙のかけらを手に入れた時、アルディナ様とルシエルの最後の光景を見たの。これはきっとカインも初めて聞く事だと思うんだけど」
一呼吸おいて気持ちを落ち着かせてから、シェリルが続きの言葉をゆっくりと話し始めた。
「アルディナ様は、ルシエルを封印する事しか出来なかった。……殺す事が出来なかったのよ。そしてその封印が今、解かれようとしている。ディランはルシエルの手を借りて、彼そのものを復活させようとしているの」
「待てよ。ルシエルが封印されたのはずっと昔だ。ディランとルシエルが接触できるわけないだろ」
「違うのよ。ルシエルはもう精神体で動き回っているの。そして……私は一度、ルシエルに会っていたわ」
意味もなくカインの体が震えた。
「私を狙い、私の両親を殺したのは……ルシエルだった」
独り言のように呟いて、シェリルが自分を抱きしめるカインの腕に強くしがみ付いた。
今までずっとカインに告げる事の出来なかった過去。口にするだけであの惨劇の夜が生々しく甦り、心が凍り付いてしまいそうになる。できれば思い出したくなかったし、話したところであの邪悪な闇に立ち向かえる強さを持つ者などいないと思っていた。
けれどあの闇の正体が分かった以上、それをカインに黙っておく事は出来ない。シェリルと一緒にいる限り、ルシエルの魔の手からは逃れられないのだ。それにシェリル自身、カインにならすべてを話せると思った。いつからかカインにはすべてを知っていて欲しいと、そう思うようになっていたのだ。
「私がアルディナ神殿に住むようになったのは、今から十年前なの。十歳まではちゃんと両親と暮らしてた」
「……リスティール村だろ、お前が住んでたのは」
カインの腕にもっと強くしがみ付きながら血まみれの過去を話そうとしていたシェリルは、自分が両親と暮らしていた村の名前を先にカインの口から聞いて驚いたように後ろを振り向いた。
「どうして……」
「カルヴァール酒で酔ったお前が話してくれた。お前の過去も、闇を恐れるわけも、三日月の刻印が人目に触れるのを嫌がったわけも知ってる」
シェリルの白い額にくっきりと刻まれた淡い紫銀の三日月を指先でそっとなぞったカインは、過去を思い出し小刻みに震えていたシェリルの体を何者からも守るようにぎゅっと強く抱きしめた。
「辛い過去は思い出すな。俺は……お前が話そうとしてくれただけで十分だ」
「……でも、ルシエルは確実に私を狙ってくるわ。カインまで巻き込まれてしまうかもしれないのに」
「シェリル、いいか? 一度しか言わないからよく覚えとけ。俺はこれから先、何があってもお前を裏切るような事はしない。お前が俺を信じるなら、俺は決してルシエルなんかに負けやしない。分かったか?」
胸の深いところまで届いたカインの声は温かな熱となって、シェリルの視界をあっという間に歪ませる。翡翠色の瞳を潤ませた涙はカインを見つめたシェリルから声を奪い、唇は上手く言葉を続けられずに震え出す。
「何だよ。泣いてるのか?」
「だっ……だって、私。もうひとりになりたくなかったから。あんな思い、二度としたくなくて、だからっ……だから、カインの言葉が……嬉しくて」
「誰がお前をひとりにするかよ」
呆れたように、それでも限りなく優しい微笑みを浮かべたカインが、シェリルの頬を手のひらで包み込みながら、止めどなく流れる熱い雫を静かに拭い去る。その手のひらから伝わってくる温かい熱の心地良さにいつの間にか瞳を閉じていたシェリルは、耳に届いたカインの声にはっと顔を上げた。
「お前を闇から守れるのは俺だけだ」
息がかかるほど近い位置で、翡翠色の瞳と淡いブルーの瞳が重なり合う。息をするのも声を出すのも躊躇われる中で、二人を静かに包む白い粉雪だけが夜の音色をかすかに響かせていた。
「俺は……――――いや、何でもない」
曖昧に口を閉じて、シェリルの頬を包み込んでいた右手を引き戻したカインが、その手で前髪をかき上げながら何かを誤魔化すように空を見上げた。
「冷えてきたな。そろそろ部屋に戻ろう」
既に羽ばたき始めていた翼によって屋根に薄く積もっていた雪が再び空中に舞い上がり、シェリルとカインを淡い光で包み込んだ。
さらさらと不規則に揺れる雪を纏いながら、ふわりと宙に浮いたカインに少しだけ戸惑いの表情を浮かべたシェリルが、それを悟られないように慌ててカインから目を逸らした。カインの首にまわした腕に力を入れて強くしがみ付き、シェリルはその首筋に頬を寄せて静かに目を閉じた。深く息を吸ってカインの香りで胸を満たし、彼の存在をできるだけ近くに感じようとした。早くなった胸の鼓動は優しい痛みを伴い、シェリルの心を震わせる。
(……何を言おうとしたの? 私……その言葉を、待っていた?)
触れた肌から少し早いカインの鼓動を感じた瞬間、それに共鳴するかのようにシェリルの胸がとくんと鳴った。
「シェリル、お前は先に寝てろ。俺はもう少し、外にいる」
シェリルだけを部屋に戻し、窓の外で未だに翼を大きく羽ばたかせていたカインが、シェリルの返事も待たずにそのままくるりと背を向けた。
「カインっ?」
「少し頭を冷やしてくるだけだ。すぐ戻る。鍵は……お前が嫌ならかけておいても構わない。ま、そっちの方が安全だと思うけどな」
そう言っていつもの勝ち誇った笑みを浮かべたカインの耳に、思ってもみないシェリルの言葉がかすかに届いた。
「鍵は開けておくわ。……だから、ちゃんと帰ってきて」
一瞬淡い期待に胸を膨らませたカインだったが、続く言葉の最後をはっきりと耳にして、拍子抜けしたようにがっくりと肩を落とした。シェリルはカインを男として部屋に迎え入れるのではなく、純粋にカインの帰りを願っていたのだ。
まったくこの女は男と言うものをまるで知らない、と心の中でぼやきながら、カインはそのシェリルに少しでも期待した自分に呆れ返る。
シェリルと一緒に部屋に入らなかったのは、自分の理性が危うい事を感じていたから。いつもなら感情に身を任せるのがカインにとって普通だったが、シェリルに対してだけはどうもそれが上手く出来ない。そしてその理由を、カインは何となく分かり始めていた。
そう、シェリルは光。安易に奪う事さえ許されない、高貴な光。何者にも汚されていない純粋で無垢な存在に、決して白いままだとは言い切れない自分の手が触れる事に対して、カインは少しだけ罪悪感を感じていた。
(こいつに触れるには、それなりの覚悟が必要だな)
心の中で呟いて、カインがふっと笑みを零す。
「……まぁ、それも悪くない」
「どうしたの?」
不思議そうに首を傾げたシェリルにいつもの悪戯心が芽生えたのか、シェリルの耳に触れるぎりぎりの所まで顔を近付けたカインが、甘くかすかな声を吐息と一緒に吹きかけた。
「ベッドは温めておいてくれ」
「ひゃっ!」
奇声を上げて耳をおさえたシェリルの顔がみるみるうちに真っ赤に染まり、その様子を面白そうに見ていたカインが満足げに頷いてふわりと高く上昇した。
「少しは慣れろよ」
声と息を喉に詰まらせて、叫ぶ事も出来ずその場にぺたんと座りこんだシェリルに笑いながら、カインはそのまま夜の闇と白い雪に連れられて遠くの方へ飛んで行った。
その闇の向こうに、何が待ち構えているのかも知らないまま……。




