地界ガルディオス 1
入り乱れる幾つもの感情の渦に巻き込まれながら、そのままはるか遠くへ流されそうになっていたシェリルの意識を、どこからともなく現れた白い光が優しく包み込んだ。シェリルに囁きかけるように触れてくる白い光から、ディランを何度も助けた涙のかけらが放つものと同じ気を感じて、シェリルが悲しげに目を伏せる。
誰からも愛されなかった子供、ディラン。涙のかけらに助けられた彼は、涙のかけらに殺されたも同然だった。
愛されたいと、必要とされたいと願うその強い思いは、地界神という肩書きを背負い孤独と戦ってきたルシエルとよく似ていた。だからこそ彼らは引き寄せられるように出会い、惹かれていったのだろう。
小さな誤解とすれ違いが二人を壊しその運命を狂わせた事に、シェリルはどうしようもなく切ない気持ちになる。
「……そう、僕はルシエル様に出会った。彼は……悲しみに捕われた、限りなく優しいひと」
声と共に、シェリルの前にディランが現れた。シェリルと同じようにディランの体をも包み込んだ白い光はそのままふわりと膨らんで、二人を纏めて同じ光の中に取り込んでいく。
「僕は涙のかけらとして、もうひとりの僕を……そして大切なルシエル様を見守ってきたんだ。あの時僕を助けてくれたルシエル様は、嘘ではなかったから」
「でも、闇には変わりないわ。暗く冷たい闇は、私の両親を殺した。私を殺そうとしてきた。その闇を取り込んだ彼が……」
「シェリル、君はルシエル様について知らなくてはならない」
少年とは思えないほど落ち着いた声音でそう言ったディランが、シェリルを真っ直ぐに見つめ返した。
「闇の王ルシエル様の中には、二つの人格が存在している。孤独に壊れた女神の弟と、そして新たにルシエル様の肉体に入り込んだ闇。もうひとりの僕を助けてくれたのはルシエル様で、邪悪な従者に育て上げたのは闇なんだよ」
あまりにも突然に告げられたその言葉に思考がついていかず、シェリルは一瞬言葉をなくす。
ディランを助けたのはルシエル。ディランを黒く染め上げたのは闇。それならば天地大戦でアルディナと戦ったのは、世界支配を目論むのは……。ルシエルは、地界神ルシエルは、闇に体を与えてまで何を望んだと言うのか。
「ちょっと待って。……頭が混乱して」
「闇はルシエル様の中で生き続けた。……けれど今では闇が主導権を握り、ルシエル様の意識は闇に飲み込まれようとしている。君は……君はルシエル様を救える唯一の落し子なんだよ。だからどうか、ルシエル様を救って」
『闇を照らす光となれ』
聖地を守っていた夢のかけら、あの守護獣の声がシェリルの中で木霊する。守護獣の言っていた闇とは即ちルシエルの事。そして涙のかけらであるディランの願いも、ルシエルを救う事だった。それはつまり、アルディナ自身の願いなのだ。ルシエルをその手で封印したアルディナの。
しかし、ルシエルは封印されているのではなかったのか。
「おかしいわ。だって、アルディナ様はルシエルを封印したのよ? それに私はっ……私はそんな事出来ない」
「シェリル、君を取り巻く謎は多い。けれど僕を、涙のかけらを受け入れる事で、君はアルディナ様の思いを知る事が出来る。さあ、手を出して」
指先からしゅるしゅると光に解けていく手を、ディランがシェリルへと差し出した。
この小さな手に掴む事の出来なかった幸せを、ディランはルシエルから得たと言うのだろうか。己の運命を狂わせた闇を支配する、ルシエルに。
「シェリル」
「あなたの運命を狂わせたのは闇なのよ、ディラン。その闇を自ら取り込んだルシエルを……あなたは本気で助けたいの?」
「僕は、ルシエル様を信じている。シェリル、君にも信じるものはあるだろう?」
「信じるもの?」
ディランの言葉を繰り返して遠くを見つめたシェリルの瞳に、いるはずのない紫銀の影がかすかに映る。
いつも側にいて、シェリルを全身で守ってくれていたカイン。何だかとても長い間離ればなれになっているような気がして、シェリルの胸がどくんとなった。カインを思い浮かべるだけで、シェリルの胸は突き刺されたような痛みを伴う鼓動を強く響かせる。体を取り巻き、じわじわと染み込んでくる不快な闇の感覚がシェリルを捕えて離さない。
「……カイン。何? とても嫌な予感が……」
「君の守護天使は闇に捕われた。もうひとりの僕の罠にはまって、地界ガルディオスにいる」
「地界へ? 嘘っ!」
「時間はあまり残されていない。彼を失いたくなければ、早く僕を」
急かすように再度シェリルへ手を差し出したディランの指は、もう半分くらいまで光に解けかかっている。その光を目にしたシェリルが、迷う事なくディランの消えかかった手を強く握りしめた。
途端、二人を包んでいた光が破裂したように音を立てて弾けた。四方に散った光の粒は、何かに引き寄せられるように次々とディランの体の中へ吸収され、辺りは目も開けられないくらいの眩しい光に包まれていく。強風に吹き飛ばされたような衝撃に耐え切れず、握りしめていたディランの手を思わず離してしまいそうになったシェリルは、慌ててその手をぎゅっときつく握り直した。
シェリルの手の力を感じてゆっくりと顔を上げたディランが、全身を包む白い光にしゅるしゅると解けながら、最後ににっこりと微笑んでかすかに唇を動かした。
「シェ……ル。決……て……負け…………で」
紡がれた言葉は光の波に押し寄せられ、そしてシェリルの胸で輝く紫銀の三日月に涙のかけらごと吸い込まれていった。
「ディラン?」
白い光を完全に吸収した三日月の首飾りを握りしめながら、シェリルはひとり何もない空間に立ち尽くしていた。
突如として響き渡った轟音に、シェリルがびくんとして後ろを振り返った。見開いた翡翠色の瞳に、長い金色の髪が映る。
「死ぬな、ルシエル。……お前を失いたくない」
舞い散った暗黒色の羽根と、灰色の空を彩る鮮血の華。
くるくると円を描きながら地面に深々と突き刺さった剣は、息まで凍り付かせてしまいそうな真っ白い冷気を辺り一面に解き放ち、それによって完全に凍り付いた大地がみしみしっと音を立てながら深く鋭い地割れを遠くの方まで走らせる。悲鳴を上げてばっくりと口を開いた黒い大地は、既に山積みとなった死体を喰いつくしながら、シェリルの前で座り込んだまま動こうとしないアルディナへと亀裂を伸ばした。
しかしその一歩手前で見えない力に弾かれた地割れはそのまま威力をなくして、アルディナを喰らう事も出来ずにそこで完全に動きを止める。その衝撃にふわりと舞った金色の長い髪が、彼女の真後ろに立ち竦んでいたシェリルの足元に触れた。
「……お前を救いたい」
切ない声音は呪文となり、それはアルディナの腕に抱かれた黒い影を優しく静かに包み込んでいく。アルディナの腕に支えられた男の体からぶわりと溢れ出した黒い瘴気によってその姿を見る事は出来なかったが、シェリルは彼が闇の王ルシエルだと言う事を確信していた。
「…………なぜ、殺さない。……こいつは殺される事を、望んでいた」
アルディナの呪文に包まれ、苦しまぎれにルシエルの体から溢れ出した瘴気が、徐々に凝縮されながら二重になった冷たい声で呻くように言った。
「ルシエルは……封印など望まぬ。我の中で、そう叫んでいる。それなのに、またお前の勝手でこいつの苦しみを引き伸ばすのか? ……残酷だな。アルディナよ」
「殺したところで、お前はまた生き続けるのだろう? お前は生き延び、ルシエルは救われない」
「ふっ……。では……再びお前に会えるその時を、待っていよう」
闇が言い終わると同時に静かな呪文によって小さく縛り付けられた瘴気の塊が、アルディナの白い手のひらにころんっと転がり落ちる。その黒く小さな瘴気の塊にアルディナの涙が頬を伝って零れ落ちた瞬間、それは光を受けて美しく輝く紫銀に色を変えた。
「憎んでくれて構わない。私はお前を殺す事が出来なかったのだから。封印する事で、お前を更に苦しめてしまうのだから。――――それでも……ひとりでは逝くな。苦しみ傷付いたままで逝かないでくれ、ルシエル」
瘴気から解き放たれたルシエルの体を細い腕にかき抱いて泣くアルディナの後ろ姿を、シェリルは黙って見つめるしか出来なかった。
弟を救う事が出来なかった悲しみが、消える事のない切なさが、心に激しく涙の波紋を広げていく。その深い悲しみを、シェリルは知っているような気がした。心の奥がアルディナの思いと共鳴して静かに泣いているのを感じたシェリルがほとんど無意識に、目の前でルシエルの体を抱いて蹲るアルディナへと手を伸ばす。
震える肩に、シェリルの指先が触れようとしたその時――。
『シェリルっ!』
懐かしい声に小さく体を震わせて後ろを振り返ったシェリルの足元が、がらがらっと音を立てて崩れ始めた。そこから現れた黒い闇の触手はシェリルの周りから一気に光を奪い、アルディナの姿もルシエルの姿も何もかもを飲み込んでいく。
ひとり残されたシェリルは冷たく恐ろしい気を放つ闇に包まれたまま、自分が果てしなく深い暗闇へ落ちているような感覚に怯えて、思わず何かに縋り付こうと前に手を伸ばした。
『シェリル……』
「カイン? カイン、どこにいるの?」
響く事もなく闇に吸収されたシェリルの声が、何も見えない暗い空間に淡い紫銀の光を浮かび上がらせた。まるでシェリルを呼ぶように点滅する光の向こうからかすかに流れてくるカインの気と、そしてとてつもない不安と恐怖を感じたシェリルが思わず足を止める。
シェリルを求めて何度も呼びかけ、同時に激しく憎み拒絶しようとする冷たい心。それはアルディナに対するルシエルの思いだったのかもしれない。
「……カイン」
カインの名を小さく呼んで、シェリルが胸で煌く三日月の首飾りをぎゅっと握りしめる。
「助けるから」
自分に誓うように強い声音でそう言って、シェリルは闇にぼんやりと浮かび上がる紫銀の光の中へ全速力で駆け込んでいった。




