ルシエルの影 2
――――我まで己の存在を否定するのか?
村の一番奥、四方を低めの岩壁で取り囲まれた特別な場所には、大きな平らの岩で出来た祭壇があった。おそらくここは儀式場だったのだろう。祭壇の周りには儀式に使われていたと思われる鈴のついた杖や、木で作られた仮面などが散乱している。
生贄でも捧げていたのか、石の祭壇はどす黒くその色を変えている。不吉な色を纏う祭壇の上、そこにシェリルの姿を見つけたカインが、ぎくりと震えて思わず足を止めた。
「シェリルっ!」
仰向けに横たわったままぴくりとも動かないシェリルの様子に不安を覚えて、カインが祭壇へ駆け寄ろうとしたその時。
「君はいつまでそのままでいるつもり?」
聞き覚えのある声と共に、シェリルの真上にさっきカインの目の前で砂となり崩れ落ちたあの少年が現れた。シェリルの上に浮かんだ少年の眼差しは、冷たいようでもあり何かを求めているようでもある。
「カイン、封印と言う枷など既に解かれようとしている。あとは君自身が目覚めるだけなんだ。君をその姿に留めておくものなど、この世界にはないだろう?」
幼い子供にしては似つかわしくない恐ろしく冷たい声音は、次第にあのディランとまったく同じ声へと変わっていく。
「ディラン! 貴様、シェリルに何をしたっ!」
少年の姿をしたディランへ剣を向けて叫んだカインとは反対に、静かな眼差しを向けていたディランがその顔にかすかな笑みを浮かべた。子供の姿だからこそ不釣合いな笑みが更に不気味さを増し、カインは強張った体を戒めるように剣を強く握り締めた。
「何をして欲しい? 君が真の覚醒を拒むのは、このシェリルのせいだろう?」
そう言ってディランがゆっくりと右手を上にあげた。その小さな手にしゅるしゅるっと絡みついた瘴気が、ディランの手の中で漆黒の輝きを放つ大きな剣へと姿を変え始める。
「この剣を振り下ろすのは僕? ……それとも、君?」
小さな手が持つにはあまりにも大きすぎる剣を片手だけで握りしめ、ディランはカインの様子を面白がるようにシェリルの真上に浮いたままその剣を無意味に振り回す。
「シェリルから離れろ! 今すぐにだっ!」
「君はシェリルを助けたいの? ……シェリルを殺そうとした君が?」
――シェリルを殺そうとした君が?
大きく見開かれたカインの瞳、その視界が一瞬にして真紅に染まる。
吹き上がる鮮血と転がり落ちた生首。その向こうに蹲って泣く、金髪の少女がいた。
『……お父さん、お母さん……。起きて』
涙で潤んだ大きな瞳とカインの瞳が間近で重なり合う。少女に伸ばした手は、生温かい血に汚れていた。
『お前が落し子か』
綺麗な翡翠色の瞳が、恐怖に大きく見開かれた。
「君が望んだことは何だった? ……カイン、君は目覚めようとしているんだよ。それを、感じないかい?」
暗示をかけるようにゆっくりと言葉を紡ぎながら、ディランがカインの左耳で光る亀裂の入ったピアスを見つめた。罅割れた部分が時々赤く光るのを目にして、ディランが満足げに小さく頷く。
「僕の望みはルシエル様の復活だ。君もシェリルも必要ない」
「……何が言いたい」
「まだ分からない? 僕が求めるのは君じゃないんだよ」
風もないのにディランの髪が妖しく揺らめいた。
地面に散乱した仮面の破片や小石が反発するように四方へ弾き飛ばされ、その力はカインをも吹き飛ばす勢いで膨張する。巻き上がる粉塵から視界を確保しようと顔を腕で覆ったカインの向こうで、ディランの体から信じられないほど大量の黒い魔力が一斉に溢れ出した。
小さな体に蓄える事の出来なかった魔力はあっという間に村を覆い尽くし、その手を灰色の空高くまで伸ばし始める。黒く冷たい力に耐え切れず崩れ落ちた岩壁を粉砕し、取り囲んだその空間の空気を圧縮してくる強力なディランの魔力は大地さえ激しく揺らし、そこに深く鋭い傷跡を走らせた。
「今の君では、僕に近付く事すら出来ない」
少しでも気を抜けば遠くへ弾き飛ばされてしまいそうなほど強い魔力の波動を全身に受け、半ば動きを封じられた状態のカインを見つめたディランが、シェリルの上で振り回していた剣をすうっと真上に振りかざした。
「ルシエル様の復活の為、シェリルにはここで死んでもらう」
その言葉を待っていたかのように、ディランの剣が赤黒い輝きを鈍く放つ。
「ディランっ!」
「思い出してごらんよ。君はシェリルを殺したかったはずだ」
静かに流れ込むディランの声音は水のようにじわりと体に染みこんで、封印されたカインの記憶にそっとそっと手を伸ばす。その、どこか懐かしい忠誠心を秘めたディランの気配に誘われるように、カインの奥から別の声がゆっくりと目を覚まし始めた。
『神の落し子か。眠りにつくほど弱っているなら、支配者など辞めてしまえばよいものを。世界を救ったその行為も、我にとっては好都合だ。落し子など、所詮人間。力を奪ってくれと言っているようなものだな』
『……我は、支配など望まぬ』
カインの中で二つの声がする。そのどちらもが同じ声であり、そしてまったく別のものでもあるようだった。
『アルディナの死を、望むのであろう? お前が求めたすべてのものの破壊を、望むのであろう? 同じ事だ。お前の望みは叶い、支配者のいなくなったこの世界は我が貰う。お前が支配を望まないのなら我が代わりに支配してやろう。どちらにせよ、お前でも我でも同じ事だ』
『お前は我に、何を望む?』
『お前こそ我に何を望んでいるのだ? 我に体を与え、誇りを捨て、邪神と成り果てたお前が手にしたいものは……何だ?』
『……――――アルディナの……亡骸だ』
声が響く度に頭をかち割られたような激痛が走り、カインは倒れそうな体と消えてしまいそうな意識を必死に引き止めながら、シェリルの真上に浮くディランをぎろりと睨みつけた。汗で滑り落ちてしまいそうになる剣をしっかりと握り直し、そのままディランへ飛びかかろうとするものの、それを止めるように響く声音に耐え切れずその場にがくんと膝を突く。
『この世界の支配を!』
『我にアルディナの完全なる死を!』
「シェリルに死を! そしてルシエル様に目覚めをっ!」
朦朧としていた意識の中で辛うじて開かれていたカインの瞳が、勢いよく振り下ろされたディランの剣を捉えた。闇の尾を引く剣が純粋な白い影を鮮血に染めようとしたその瞬間、カインの中に渦巻いていた黒い影が悲鳴を上げて吹き飛び、激痛を伴うあの声でもなくディランの声でもない、透明で悲しげな女の声が響き渡った。
『死ぬな。……お前を失いたくない』
「やめろおぉぉぉっ!」
空を震わせる激しい轟音と共に、辺りを覆っていたディランの黒い魔力が真っ白な霧にも似た強い魔力に切り刻まれた。獣の爪跡のように地面を削りながら走る白い力は触れるものすべてを瞬時に凍らせながら、目の前のディランへと勢いよく飛びかかる。その迫り来る魔力の刃を前に、少年のディランが幼い顔に狡猾な笑みを浮かべた。
「これで、おしまい」
にやりと笑ったディランにカインがはっと目を見開いたその先で、ディランの小さな体が真っ二つに切り裂かれた。途端、ディランの中に詰め込まれていた暗黒の瘴気が辺りに弾け飛び、それは死者を倒した時と同様にカインへ吸い寄せられるように絡みついた。
「これはっ!」
ディランの体から溢れ出した瘴気は今までとは比べ物にならないくらいに濃く、少し触れただけでカインは意識を奪われそうになる。あの力に切り裂かれ消滅したディランは、おそらく彼が作った分身なのだろう。その分身である少年ディランを使ってまで彼がやりたかった事を、カインは今までの出来事と少年が最後に見せたあの笑みから知った。
「くっ!」
瘴気は計画通りにカインの体をいとも簡単に捕え、すっぽりと覆い隠す。ただでさえ意識を失いそうになっていたカインは瘴気の波から逃れる事も出来ず、抵抗する力さえあっという間に奪われ、そのまま何かに誘われるようにゆっくりと瞼を閉じ息さえも止めていった。
『最後までお前はルシエルに戻らないのだな。……私を拒んで、消えていくのだな』
消えゆく魂を愛しく抱きしめた華奢な腕を覚えている。
白い頬を伝い、滑り落ちた熱い雫を覚えている。
体を包む温かい光を求めていたはずなのに、心はひどく乱れて幾つもの影に分裂していく。
アルディナを望み、アルディナの死を望み、己の消滅を願う――悲しき神ルシエル。何よりも激しくそれを求めていながら、彼らの思いは最後まで重なり合う事はなかった。
『なぜ我を殺さない。お前は我の、最後の自由まで奪うと言うのかっ。――望まぬ! 我は封印など望まぬっ! この苦しみを続けるくらいなら……いっそひと思いに殺せっ!』
それは確かに自分の記憶だったはずだと、カインはおぼろげな意識の中でそう感じていた。
体は動かない。目も開かない。けれどカインは、自分が深い悲しみに満ちた、光も届かない闇に包まれている事を知っていた。
不思議と、不快感はない。
「…………アルディナ?」
闇のはるか彼方から、悲しげな男の声がした。
「どうかしてる。姉を恋しがる年でもないのに。……ここにいると、自分の弱さを浮き彫りにされるようだ。己の意思を持つまでに成長し増幅した闇。アルディナもよくこれを封じる事が出来たものだな」
硝子張りのような空間を作り出した結界、その向こう側に閉じ込められた闇は隙あらばそこから逃げ出そうと妖しくざわめいている。ただ真っ暗なだけに見える結界の向こうから、ルシエルはいつも自分に纏わり付く視線を感じていた。
『女神はお前を捨てた』
自分でも驚くほど脆く、心が崩れ始める。たった一言で自分を失うとは、思ってもみなかった。自分が監視してきた闇に、創世神の弟である神が負けるとは。
(……本当は、それを望んでいたのかもしれない)
体中に流れ込んでくる声を素直に受け止めながら、カインが小さく呟いた。
カインしか存在しない闇の中で誰にも届くはずのない言葉、しかしそれは幻聴とは思えないほどはっきりとした答えを闇の中から連れて来る。
「あぁ、そうだ。俺はここから抜け出せるのならどうなってもよかった。俺は俺自身に負け、闇を取り込み――我となった。闇を受け入れる事で多くの犠牲が出る事も構わなかった。……我は狂っていたのかもしれぬ。そしてそんな我を、闇は赤子の手を捻るように容易く手に入れたのだ」
――ルシエルであろうと闇であろうと、我は誰からも愛されぬ。得られぬものを追い求め、孤独と言う枷に縛られるより、我は狂気を選んだのだ。ルシエル自身の、その手で。
辺りを覆う闇が、カインを抱くようにゆっくりと腕を伸ばした。闇はカインの肌に溶け込むように消え、触れた部分からずるずるとカインの中へ染み込んでいく。闇の侵食に抵抗する気配すら見せず冷静にそれを受け止めたカインが、無意識にゆっくりと手を前に伸ばした。その指先が何か冷たいものに触れた瞬間、カインの脳裏に見た事もない過去の情景が浮かび上がった。
漆黒の翼と舞い散った鮮血。魔法の匂いと、それを覆い隠す暗黒の瘴気。青白い大きな右手にしっかりと握られた、冷気を吐き出す氷の魔剣。
何かを求め、激しく拒み、分裂した二つの心に狂い叫びながら、空をも凍りつかせた冷たい空間に――――心そのものを現す透明で純粋な一粒の涙が零れ落ちた。
『我を……愛してくれ。――――そして、殺してくれ』
闇に捕われてしまったルシエルの、本当の声を聞いたような気がする。そしてその瞬間、辛うじて留めていたカインの意識が、冷たく凍った氷の手のひらによって完全に奪い去られた。
「ここは地界ガルディオス。君にとってもっとも関わりの深い場所だよ、カイン」
声と共にディランが姿を現した。倒れたまま少しも動かないカインは、死んでしまったかのように色をなくしている。
「おかえり」
静かに呟いてカインの傍らに膝をついて屈み込んだディランが、そのまま細い指をカインの髪へと伸ばす。まるで恋人に触れるように優しく紫銀の髪を撫で下ろしたディランが、無表情だったその顔に淡く確かな笑みを浮かべた。
「――――ルシエル様」
囁くように零れた声に反応して、カインのピアスが妖しく赤く煌いた。
後は砕け落ちるだけとなった紫銀の石。
その石に新しい亀裂が入る場所など、もうどこにもなかった。




