不良天使 1
女神アルディナの恩恵を受けた世界イルージュは、天使に祝福された世界でもあった。
古代から天使たちはか弱き人間を慈しみ、彼らに出来うる限りの力を貸し与えてきた。天使は天上界に住み、彼らの力を借りたい時にだけ人々は儀式を行っていた。
それが、天使召喚術である。
無造作に山積みされた古びた分厚い書物。そのうちの何冊かは開かれたまま重ねられていた。茶色く色褪せたページには、今では読める者さえ数えるほどしかいない古代文字が流れるように書き連ねられている。
窓から差し込む白い朝日に照らされて、閉め切った部屋の中に漂う埃が浮き彫りにされていた。そしてその中、辞書を三冊分も纏めたような分厚い本の間で見え隠れする金色の影。
「神聖魔法の心得。天使の証明。絶対禁忌黒魔術入門……って、何よこれ!」
探しているものが見つからないのか、半分やけになって持っていた書物を乱暴に重ねたその拍子に、今まで辛うじて均衡を保っていた本の山がどさどさっと崩れ落ちた。
「きゃあ!」
あっという間に書物の下敷きになったシェリルは、それによって部屋中に舞い上がった埃を思いきり吸い込んで激しく咳き込んだ。
「げほ! ……く、苦し……っ」
真っ白になった視界の中、口元を押さえながら立ち上がったシェリルが、足元に散乱した書物に気を付けながら手探りで何とか窓際まで辿り着く。そして一気に窓を開けた。
朝方の肌寒い空気が温かかった部屋の中に流れ込み、そこに留まっていた汚れた空気を外へ追い出していく。
「はあ――っ。助かった」
冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで息を吐きながらそう言うと、ちらりと部屋の中に目を向けてそこに散らばる書物の山を見つめた。
徹夜してまで書庫に篭っていたシェリルが得たものは、膨大な数の書物の後片付けだけ。求めるもののかけらさえ見つけられず今日も時間だけを費やしてしまった事に、シェリルはがっくりと肩を落として大きく溜息をついた。
「……やっぱり、ひとりで探す方が無理なのかしら」
視線を窓の外に戻してもう一度溜息をついたシェリルは、白み始める空を見つめてそこに存在すると言われている天界へと思いを馳せる。
冷たく凍えた風はやせ細った木々の茶色い葉を落としながら、冬の訪れを告げていた。
「どうしたの、シェリル? 埃まみれじゃないの」
書庫から自分の部屋へ戻る途中、後ろから名前を呼ばれたシェリルがびくんと体を震わせた。まだ薄暗い夜明けに起きている者などいないだろうと安心して歩いていたシェリルは、声の主に振り返ってごまかすように軽く笑みを向ける。
「お……おはよう、クリス。相変わらず早いのね」
「聖堂の掃除でもしようと思って。シェリルこそどうしたの? こんな朝早くから埃にまみれて」
聖堂の重い扉から手を離してぱたぱたと駆け寄ってきたクリスティーナは、神官の中でも一番優秀で真面目で優しくて、神官の鑑のような存在だ。そしてシェリルを誰よりも理解してくれる親友でもあった。
世界に多く存在する神殿や教会の中でも、ここアルディナ神殿はイルージュ最高の神殿であり、最も能力の高い者だけがここの神官となる事が出来る。成長した神官たちはそれぞれ神官長という肩書きと共に、他の神殿や教会に派遣される仕組みとなっていた。
神殿の役割は女神アルディナを崇めると同時に、アルディナの意思を受け継ぐ事にある。
女神アルディナによって創造され、今もなおその恩恵を授かっている世界イルージュでは、神殿とそこに仕える神官は重要な役割を担っているのだ。そしてシェリルの親友クリスティーナは、世界最高のアルディナ神殿の神官長補佐という立派な肩書きを持っていた。
「……ちょっと調べたい事があって」
「それにしてもすごい埃ね。大聖堂よりシェリルを先に掃除した方がいいみたい」
くすりと笑いながら、クリスがシェリルへと手を伸ばす。その指先から逃げるように顔を背けたシェリルが、一瞬言葉を詰まらせて唇を噛み締めた。
「大丈夫だから」
「あ、ごめんなさい」
シェリルの言葉にクリスもそれを思い出して、伸ばしていた手をゆっくりと引き戻した。
「部屋に戻って身なりを整えてきた方がいいわね。朝の礼拝には遅れない事。それと、眼鏡……してないわよ?」
最後の方だけ小声で囁きかけたクリスにぎょっとして、シェリルが面白いくらいに慌てふためきながら自分の顔を両手で覆った。手のひらには、勿論眼鏡の感触などない。
昨夜、書庫へ行く時はきちんと眼鏡をかけて出たはずだ。ゆっくりと動く頭の中、ぼんやりと思い浮かんだある事に、シェリルがはっと顔を上げた。
「あの雪崩!」
それだけ言うと、シェリルは弾かれたように書庫へと引き戻していった。
「……雪崩?」
廊下の向こうに消えていったシェリルを呆然と見つめていたクリスは、やがて小さく息を吐くとそのまま大聖堂の中へ消えていった。
きんっとした空気の漂う大聖堂。
そこに佇む白い女神像は、世界から闇を追い払った時に使用していたとされるムーンロッドを手に持っている。その先端についている三日月を柔らかい布で拭きながら、クリスはさっき慌てて走っていったシェリルの事を思い出す。
今年二十三歳になるクリスは十年前アルディナ神殿へ神官見習いとしてやってきた。そこで十歳のシェリルと出会ったのだ。
シェリルは神官見習いとしてではなく、現神官長エレナに引き取られた子供だった。
最初はひどく怯えた瞳をしていた事を覚えている。言葉数も少なく、笑顔もほとんど見せない孤独な子供シェリル。その彼女が今の性格になったのも、クリスの影響が大きい。クリスになら何でも話してくれるようになったし、実際シェリルの秘密を知っているのもクリスと神官長エレナふたりしかいなかった。
――シェリルの秘密。
ぼんやりと思い出して、クリスはふっと手を止める。クリスの瞳に映るムーンロッドの三日月。その形と同じ刻印を、クリスはシェリルの白い額に見た事があった。
月は女神アルディナの象徴であり、その印を体に持つ者は世界にただひとりと言われ、それだけで崇められてきた。
しかしシェリルはその刻印を重く垂らした前髪で隠し、長く美しい金髪も人目を引かぬよう二つにきちっと編みこんでいる。そして目も悪くないのに黒ぶちの眼鏡をかけて、まるでシェリルである事を隠しているかのように大人しく目立たない外見をしているのだ。その意味をクリスは聞こうとはしなかったし、シェリルも話そうとはしなかった。唯一すべてを知っている神官長エレナは優しく微笑みながらこう言うのだ。
『見守ってあげなさい。私たちにはそれしか出来ないのだから』と。
「……神の、落し子……」
ぽつりと呟いたクリスの声は、誰もいない大聖堂にやけにはっきりと響いて
いった。
書庫の隅の方に探し物を見つけたシェリルはほっと胸を撫で下ろしながら、度の入っていない黒ぶちの眼鏡を拾い上げた。二十歳の女がかけるには少し不似合いで、可愛げのかけらもない黒ぶちの眼鏡。それをきちんとかけ直したシェリルは、前髪も綺麗に整えて額の刻印を見えないようにしてから書庫を後にする。
創世神話から魔法、一般人には読む事すら出来ない禁書まで、種類も数も膨大な量の書物が保管されているアルディナ神殿の書庫。その中でさえ見つける事の出来なかった文献、それこそがシェリルの求めるものだった。
今はもう行える者のいない上位の神聖魔法であるからなのか、それとも古代の術ゆえに失われた魔法であるのか、その僅かなかけらさえシェリルは見つける事が出来なかった。数ヶ月、暇を見つけては文献を漁り、そのうち数週間は徹夜までしたと言うのに。
「失われた呪文、か。……でも、諦めるなんて出来ないわ」