唇の予約 2
ごんっ!
鈍い音と共に、シェリルがその場に蹲る。
「……ったあぁ」
鼻を片手で押えて呻いたシェリルの瞳が少し潤んで、翡翠色を綺麗に揺らめかせる。
「何で二回も同じとこ」
自分でも知らないうちに動揺していたのか、祈りの間の扉を開けそこなって顔面から勢いよくぶつかったシェリルは、リリスとぶつかった時と同様に鼻の頭と額を強く打ってその場にしゃがみ込んでいた。
右手で鼻を押え左手で額に触れたシェリルは、左手の指先に血が付いている事にびっくりして潤んだ瞳を大きく見開く。
「そんなに強く打ったのかしら。……ルーヴァが見ると傷物扱いされそうだわ」
額の傷に指を数回押し当てて止血したシェリルは、そんな事をぶつぶつぼやきながら今度はゆっくりと慎重に木の扉を開けて中へと入った。
「新しい天使でも召喚しようってのか?」
聞きなれた低めの声にどくんと胸を鳴らせたシェリルが、まるで魔物にでも遭遇したかのように驚いて瞬時に後ずさる。声の主が誰だか既に分かっていたシェリルは何となく逃げ出したい気分になり、部屋の扉を開けようと後ろを向いたまま手探りでノブを回した。しかし、扉はさっき後退したシェリル自身の背中で、嫌味なほどにしっかりと押さえつけられている。
「おい、人がわざわざ天界から降りてきたってのに逃げるなよ」
声と共に、空気が揺れる。羽ばたきの音がしたかと思うと、シェリルの目の前に純白の翼を広げたカインがゆっくりと降り立った。
「何しに来たのよ」
「お前こそ……何だよ、その額と鼻」
呆れたように顔を近付けてきたカインにぎょっとして、シェリルが右手で顔を覆い隠す。
「これくらい大丈夫よ。見ないでったら!」
「馬鹿か、お前。その傷、跡が残るぞ」
急に真剣な声で言われ、左手でカインを押しやろうとしていたシェリルの体がぎくんと震えて止まった。その隙を逃さずシェリルの腰に素早く腕を回したカインが、驚いて抵抗を止めていたシェリルの体をいとも簡単に自分の腕の中へと引き寄せる。
「きゃっ」
「お前、本当に騙されやすいのな」
耳元で囁くように言われ、シェリルの頬が見る見るうちに紅潮する。
「なっ!」
「騙したのが俺でよかったよ」
今までとは少し違う小さな声で呟かれたカインの言葉に、シェリルは言おうとしていた言葉を忘れて無意識のうちに口を閉じていた。間近で見つめ合い、お互いが口を閉じたまま黙っている。その極度の緊張に耐え切れず、目を逸らして俯いたシェリルの額に――ふっと柔らかな唇が落ちた。
「……っ!」
その感触に驚いて顔を上げたシェリルの瞳に、魅力的な笑みを浮かべたカインがはっきりと映る。からからに干上がった喉は既にシェリルから声を奪っていた。
「目、閉じないのか?」
口を動かすだけで何も言えずにカインを見つめていたシェリルの瞳が、閉じるどころか更に大きく見開かれる。激しく胸を打ち付ける鼓動は一向におさまる気配を見せず、シェリルの耳まで真っ赤に染め、あげく体まで小刻みに震わせ始めた。
「シェリル。目を閉じろ」
間近で甘く囁いてそのまま更に顔を近付けてきたカインから、シェリルが逃げるように顎を引いて瞳をぎゅっときつく閉じる。その強張った顔にカインの影が落ち、――そして柔らかな唇がシェリルの鼻の頭に触れた。
「ひゃっ!」
てっきりキスされるのかと思っていたシェリルは、予想外の鼻に落ちた唇にびっくりして、間抜けな声をあげ思わず目を開いた。
「場所が違ったか?」
目の前で不敵な笑みを浮かべたカインに、シェリルの頬が更に赤く染まる。カインからのキスを待っていた事を知られたのかと思い、小刻みに震えていた体までもが焼けるように熱くなっていくのを感じて、シェリルが急にじたばたと暴れ出した。
「ばっ、馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿っ! 離してよっ……カインなんて大っ嫌いっ!」
「落ち着け。お前の顔の傷を治してんだよ。キスならその後、嫌と言うほどしてやるから暴れるな」
「そう言うことじゃないわよっ!」
「あぁ、分かったから……今は大人しく俺に舐められてろ」
そう言ってじたばた暴れていたシェリルの手首をひょいっと掴んだカインが、再び唇をシェリルの鼻に落とした。短い叫び声を上げて静かになったシェリルをもっと近くに抱き寄せたカインは、目だけで辺りを軽く見回して、そこに神官長エレナがいない事を再確認する。そして内心ほっとしながら、シェリルの額の傷と鼻の打ち身の治療に専念し始めた。
一方シェリルは緊張と恥ずかしさをぎりぎりのところで抑え、遠くに行ってしまいそうになる意識の端っこを必死に握りしめていた。カインが来てくれた事を嬉しいと思いながら口ではまったく逆の事を言い、そして鼻と額に触れるカインの唇から解放されたいと思う反面、ずっとこうしていたいとも思ってしまう。
新しく芽生えてくる多くの感情を、今のシェリルが理解する事は難しい。
(……どっ、どうしよう。私っ……クリス、私何か心臓が爆発してしまいそう)
『それって、恋してるの。シェリルはカインに恋してるのよ』
ぐるぐる回る頭の中に、クリスの言葉が紛れ込む。
(恋? 私が、カインに……?)
自分に尋ねてみたシェリルは胸の奥がちくんと痛んだのを感じて、それ以上深く考える事を止めた。
「本当は、お前にキスしたかった」
今にも消えそうな声でカインが呟いた。それと同時にシェリルの体から力が抜けて、カインの腕の中からずるずるとすべり落ちていく。腰に回していた腕に感じる異様な重みにがっくりと肩を落としたカインが、そのままシェリルの体を両腕に軽々と抱き上げた。
「大事な時はいつもコレだ」
呆れたようにもう一度溜息をついて、カインは両腕に抱えたシェリルの顔を覗き込む。額の小さな傷と赤くなっていた鼻の頭の打ち身はすっかり治っていたが、シェリルが翡翠色の瞳を開く事はなかった。
「これだけで気ぃ失うなよ。……これじゃ、キスひとつできやしない」
ぽつりとぼやいたカインの声は、静かな空間に飲み込まれるように消えていった。
天界と下界を繋いでいる風の回廊へと続く魔法陣。長い階段の上にあるその場所を見上げて、リリスが苛々したようにぎりっと爪を噛んだ。さっきまでそこにいたカインの姿は既になく、彼の後を追うように浮遊する光の粒がリリスの瞳にはっきりと映る。
「あんな女っ……」
闇に溶けて消えていく光の粒を睨みつけながら、リリスが低く押し殺した声で呻くように呟いた。
夜にまた来ると言う約束を、カインが破った事に対して怒っているのではない。向かった先があのシェリルの元だと言う事が、リリスには許せなかったのだ。突然現れ、落し子と言うだけでカインを独り占めし、女としての魅力もリリスより劣っているシェリル。そんなシェリルに少しでも負けたと言う現実はリリスのプライドを容赦なく傷つけたが、それよりもカインを奪われた事の方がリリスの心に激しい憎悪の炎を燃え上がらせる。
「たかが人間のくせにっ!」
吐き捨てるように言ってくるりと身を翻したリリスの前に――黒い闇の塊があった。
「ひっ!」
いつからそこにいたのか、気配をまったく感じさせなかったそれに驚いて後退する。見開かれた瞳の奥で、黒い闇が妖しく揺らめきながら近付いた。
辺りを包む夜の闇とは明らかに違うねっとりとした闇の塊、それから漂う恐ろしく邪悪な気を感じただけで体中から冷や汗がどっと溢れ出す。こんな不気味なものに真後ろから今までずっと見つめられていた事に気付けず、リリスは今更ながら恐怖を覚えた。
『ここにも黒い天使がいるのだな』
二重になった低い声と共に闇が細長く伸び、その先がリリスの頬に触れた。頬にべたりと張り付いた濡れた手のような感触に、リリスが短い悲鳴を上げて目を閉じる。
『何を恐れる? 同じ闇でありながら、お前は我を拒むのか?』
「私はっ……闇なんかじゃないわ!」
からからになった喉に力を込めて叫んだリリスに、闇の塊がくっくっと声を漏らして笑った。
『その心に渦巻く憎悪を剥き出しにしてもか? 憎しみや妬みは闇の一部』
「そんな感情、誰だって持ってる!」
『あぁ、そうだ。――だから我が生まれた』
その言葉にリリスが顔を上げた。大きく見開かれた瞳はかすかに震え、そこに映る黒い影を歪ませる。
肌に直接感じるとてつもない魔力と、心を押し潰されそうになる激しい黒の感情。ただの魔物にしては魔力が大きすぎる。闇に属した者の中で、女神に匹敵するほどの力を持つ存在とは。
そこまで考えたリリスの体から、一気に力が失われた。抵抗する気も、逃げる気も失せる。彼の前ではそのどれもが無意味なのだから。
「……――――まさかっ!」
辿り着いた答えを否定するように緩く首を振ったリリスの目の前で、闇の塊がぶわりと大きく広がった。
『お前の望みを叶えてやろう、黒き天使リリス。我らはもう同胞なのだ』
闇を切り裂く鋭い悲鳴は誰にも気付かれる事なく、天界に広がる静かな闇に飲み込まれていった。
『この体など欲しければくれてやる。我の肉体は既に意味を持たぬ。存在の意味のない体など、我には要らぬ』
びくんっと大きく震え、シェリルが弾かれたようにベッドから飛び起きた。空中に伸ばされた手が何を求めていたのかを知り、シェリルは頬を染めながらその手を引き戻す。
夢の中で何度も何度も名前を呼んでいた。そしてその相手が今ここにいないと言う事に気付いていても、シェリルは淡い期待を抱きながら部屋の中をぐるりと見回してみる。やっぱり部屋には自分しかいない事を再確認して俯いたシェリルは、諦めたようにずるずるとベッドから抜け出して窓を全開にした。
冬の冷たい風に翻弄されて、白い雪がちらついている。火照った体を一気に覚ましたシェリルは、目覚めた時に感じた淋しさを思い出して緩く首を左右に振った。
「……馬鹿みたい」
ぽつりと呟いた言葉に、シェリルの胸が淋しく痛む。
昨夜カインが来た事も、少し意地悪なキスを鼻と額にした事も……本当は嬉しかったのだ。そして目覚めた時、この前のようにカインが側にいてくれる事を心の奥で願い、それをかすかに認めていたシェリルは、いつもの冗談に自分だけが振り回されていた事を知り、どうしようもなく空しい気持ちになる。
「カインが……本気であんな事するなんてありえないもの」
歪み始めた視界に慌てて顔を上げたシェリルの目の前に、雪と同じ白く軽い一枚の羽根がふわりと舞い落ちた。
「俺が何だって?」
真上から聞こえた声にシェリルが驚くより早く、屋根の上から飛び降りたカインが背中の翼を大きく羽ばたかせながら窓の向こうに現れた。
「カインっ? いっ、いつからそこに?」
「いつから? ずっとここで寝てた」
思ってもみなかったカインの登場と言葉に、シェリルが唖然と口を開く。
カインはシェリルを部屋に連れて来た後天界へは戻らず、星の棟の屋根で一晩を過ごしていたのだ。真冬の寒空の下、寒さを凌ぐ為に結界を張っていたとしても、魔法があまり得意ではないカインの作った結界の力は期待できない。これが防寒の為ではなく防御であるならその効力は十分なのだが、シェリルにしてみればそんな事は頭の隅にもなく、ただカインが真冬の夜を外で過ごしたと言う現実に驚くばかりであった。
「どうして? 何も屋根の上で寝なくたって」
「お前と一緒じゃ俺の理性が持ちそうになかったからな。それでもいいってんなら、今度からはそうさせてもらうが?」
「誰が部屋に来いって言ったのよ! 天界に戻ればよかったじゃない」
心とは正反対の事を口にしながら、シェリルは窓から身を乗り出して空の上を指差した。その手を掴んですいっと顔を寄せたカインが、いつもとは違う真剣な瞳を真っ直ぐにシェリルへと向ける。初めて見た真剣な淡いブルーの瞳に、シェリルの胸がどくんと大きく脈を打つ。
「お前……昨夜俺が何しに来たのかも分かってねーな?」
カインは根っからの女好きである。今まで多くの女性と関係を持ち、いくつかの修羅場もさらりとかわして来たカインが、ひとりの女性に執着した事はただの一度もない。様々な誤解を解く事も、約束を破った時の言い訳も今まで一回もした事はなかったし、する必要もないと思っていた。
そんな殴りたくなるような恋愛感を持っていたカインが、リリスの香りに気付いて下界へ帰っていったシェリルに、多少なりとも罪悪感を感じてわざわざ天界から降りてきたのである。カインにしてみればとても大きな変化だったが、シェリルはいまいちカインが何を言いたいのかが理解出来ず、首をかすかに傾げるだけだった。
「私を、からかいに来たんでしょ?」
その言葉にがっくりと肩を落としたカインは、何となく予想していた答えに大きく息を吐きながら、仕方なさそうに淡い笑みを浮かべた。
「予約しに来たんだよ」
「予約って何を……」
「お前の唇だ」
思わず叫びそうになったシェリルへもっと顔を近付けて、赤面させる事でシェリルの声を奪ったカインが、見惚れるくらいの笑みを浮かべて囁くように呟いた。
「何なら今でもいい」
空いた片手でシェリルの顎を支え、静かに目を閉じかけたカインの背後で――ふいにもうひとつ別の羽音がした。かと思うと、カインのひとつに纏めた長い髪の束が無遠慮にぐいっと後ろへ引っ張られ、カインは無理矢理シェリルから引き剥がされた形となる。
「同情したくなるほどついてませんね、あなたは」
雰囲気に流され目を閉じかけていたシェリルは、聞き覚えのある声にぱっと目を開くとほぼ同時に、カインの体を思い切り突き飛ばしてその場にしゃがみ込んだ。
「きゃあっ!」
「おや? 嫌われたようですよ、カイン」
「……お前がそうさせてるんだろ。ルーヴァ、頼むから俺の邪魔をしないでくれ」
「邪魔とは心外ですね。私はただ姉からの伝言を届けに来たんですよ?」
「セシリアから?」
握っていたカインの髪から手を離して、ルーヴァがこくりと頷いてみせる。
「呪われた地へ通じるゲートが、何者かによって閉ざされようとしているみたいです。今は姉が何とかゲートを維持していますが、急いで向かった方がいいでしょうね」
「休む暇もないのかよ」
「ああ言う事する暇もないですからね。早くシェリルを連れて天界へ行って下さい」
相変わらずの毒舌に「はいはい」と小さく頷いて、カインは窓の下で蹲ったまま二人の視界から完全に姿を隠しているシェリルへと声をかけた。
「そういう事だ。シェリル、天界へ戻るぞ」
おずおずと窓の下から現れた手を掴んでシェリルの体を部屋から引きずり出したカインは、そのまま慣れた手つきでシェリルをしっかりと抱え直す。
「神官長には私から説明しておきます。良いですか?」
さっきの恥ずかしさが尾を引いているのか、上手く声を出す事が出来なかったシェリルは、ルーヴァの言葉に数回こくこくと頷くだけが精一杯だった。
シェリルの許しを得てエレナの元へ飛んで行ったルーヴァを見送ってから、カインが背中の翼を羽ばたかせてシェリルをもっと近くに抱き寄せる。驚異的な速さで鳴り続ける鼓動を聞かれまいと、カインと自分の間にシェリルが腕を割り込ませた瞬間、二人の体が風に取り巻かれた。
冷たい風も、雪の粒も、熱くなったシェリルの頬を覚ます事は出来なかった。
ゲートを閉ざそうとしている者について何も考える余裕がなかったシェリルは、呪われた地で二人を待ち構える悲しい運命を知る由もなく、今はただ自分の中に芽生えた感情に激しく動揺し、胸の鼓動を高鳴らせるだけだった。




