唇の予約 1
『お前は戻りたいと願うのか? あの闇に、暗き憎悪の淵に身を委ねたいと願うのか? 心を閉ざして、声を否定して……』
――――我の居場所はどこにもない。すべてを捨て、帰る場所さえ失ったのだ。
「カイン。……カイン」
耳元で囁くように名前を呼ばれ、カインが閉じていた瞳をゆっくりと開きながら静かに手を伸ばした。曖昧な視界にぼやけた青い影が映っている。その影を引き寄せようとして伸ばされたカインの手が、ぴしゃりっと軽く叩き返された。
「男同士に興味はありません。それに、私はシェリルじゃありませんよ」
呆れた声と言葉に、おぼろげだったカインの意識が一気に現実へと引き戻される。ばちっと目を開け、テーブルに預けていた体を勢いよく起こしたカインが、横に立っていたルーヴァへ顔を向けて大きく息を吐いた。
「思ったより随分と疲れていたみたいですね。あなたが他人の家で無防備に眠るのは珍しい」
ルーヴァの言葉を聞き流しながら、カインが椅子の背もたれに思いっきり体を傾けて大きく伸びをした。
「治癒魔法なんて慣れない事したからな。今日はもう帰って寝るか」
伸びをしていた両手を戻した反動で椅子から立ち上がったカインは、窓の外へ何気に顔を向けて目を丸くした。
シェリルを迎えに来た時はまだ昼を少し過ぎた頃だったのに、今では窓の外に見える風景が深い闇に包まれている。窓ガラスには中の光を反射して、カインの姿をはっきりと映し出していた。
「俺はどれくらい寝てた?」
「そうですね……七時間くらいでしょうか。テーブルに突っ伏していたので、体が変に痛いでしょう?」
どうりで肩や腕が変に凝っている訳だ。分かっているならさっさと起こすかベッドに移動してくれればいいものを、ルーヴァはあえて何もせず、自分の思い通りになったカインを見て柔らかく微笑んでいた。
物言いたげにルーヴァへ視線を向けてみたものの、彼に何を言っても無駄だという事を長年の付き合いから嫌と言うほど知っていたカインは、開きかけていた口を閉じて言葉を咽の奥にしまいこんだ。
「どうかしました?」
「いや、何でもない。俺もそろそろ帰るか」
「あ、シェリルは無事に送ってきましたから」
扉を開けて出て行こうとしていたカインはその一言でルーヴァに振り返ると、頭をわしわしっと掻きながら面倒臭そうに小さく溜息をついた。
「だから、何でいちいち俺に報告するんだよ」
「特に意味はありませんよ。あなたはシェリルの守護天使な訳ですし、一応報告しておこうと思っただけです。……あ、それからシェリルに会いに行くのは構いませんけど、アルディナ神殿の神官長は私たちの姿を見る事が出来るのであまり変な事は出来ませんからね」
「変って……」
言い返そうとしたカインの目の前でルーヴァがにっこり笑うと、それに反応するように家の扉が勢いよく閉ざされ、カインはルーヴァの家から締め出されたような形となる。窓の方へ目を向けると魔法を使って強引にカインを家から追い出したルーヴァが、相変わらずの笑みを浮かべてひらひらと手を振っていた。
「……あいつ、絶対俺を馬鹿にしてるな」
ぽつりと呟きながら歩き出したカインの耳に。
「シェリルの所へ行くのなら、あと一本くらいは煙草を吸った方がよさそうですよ」
と言うルーヴァの声が届き、カインの背中を後押しする。その言葉に思わず転びそうになったカインだったが、後ろを振り向き言い返す事を止め、少し重い足取りで闇に沈んだ街中へと歩いて行った。
その手には一本の煙草をしっかりと握りしめて。
星の宮殿の屋上に、太く白い線で描かれた大きな魔法陣。その中央に鉛色の鈍い輝きを放つ水晶球が浮かんでいた。水晶球と魔法陣の周りには透明で硝子に似た結界が張り巡らされ、時々滑るように光を反射させている。
「闇の力が強まってきてる?」
セシリアの目線より少し上に浮かぶ水晶球は、天界周辺の闇の力を吸収しその色を鉛色に変えただけでなく、細い亀裂を幾つも走らせていた。
「こんな事、初めてだわ」
唇から零れた言葉にセシリア自身が不安を覚える。
闇を吸収し、今にも割れてしまいそうな水晶球へそっと手を伸ばしたセシリアのその指先で、鉛色の水晶球が新たに数本の亀裂を走らせた。びきびきっと響く鈍い音は、セシリアの指先にまでその震動を伝えてくる。
「一体何が起ころうとしているの?」
小さな声は闇に溶け、答えはどこからも返っては来ない。
伸ばしていた手を戻して瑠璃色の杖を握りしめたセシリアは、深く吸った息を吐き出しながら呪文を唱え始めた。流れる空気に絡み合った呪文は床に描かれていた魔法陣を呼び起こし、屋上全体が白く神聖な光で満たされる。その中で亀裂を走らせ鉛色に輝いていた水晶球が、ゆっくりと元の姿に戻り始めた。戻る速度は非常に遅かったが、何とか結界を修復出来そうだと安心したセシリアは、呪文を唱え続けながら心の奥で潔く徹夜を覚悟した。
「それにしても本当に召喚術を行って天界に行っちゃうなんて……びっくりだわ」
エレナの部屋から自分たちの部屋がある星の棟まで歩きながら、クリスは前を歩くシェリルへ胸の内の驚きをもう一度口にした。
「でも呼び出した天使があれじゃね。クリスも天界のイメージ、変わるわよ」
「エレナ様は穏やかな顔をした天使様だったって仰ってたじゃない」
「ルーヴァはカインの友達なの。私が召喚した天使は、女好きで酒飲みで煙草も吸う不良天使なのよ。いっつも人の事からかって面白がってるし!」
カインの事を思い出して思わず声を荒げたシェリルに、クリスは驚きながらも淡い微笑みを顔に浮かべた。その微笑みに気付いて怪訝そうに目を細めたシェリルの前で、クリスが満足げに小さく頷いてみせる。
「何?」
「シェリル、随分と感情豊かになったわね。突然いなくなって心配したけど、そのカインっていう天使様と出会えた事、あなたにとってはとても良い事だと思うわ」
思ってもみなかったクリスの言葉に、シェリルが口をぽかんと開けてその場に立ち止まる。
「ちっ、違うわよ。カインと出会ってからいい事なんてひとつもなかったわ! 人の事馬鹿にするしからかうし、どれが本当の言葉か分からないし、女遊び激しいしっ! 今日だって私を置いてリリスの所へ行っちゃうしっ。カインの事思い出すだけで、何だか胸の奥が苦しくて痛くて……もう、自分でも何が何だか!」
今にも泣いてしまいそうに大きく見開いた瞳を潤ませて、叫びに近い声で一気に喋りまくる親友にびっくりしたクリスが、慌ててシェリルの側へと駆け寄った。その興奮振りに驚きながらも、クリスは激しく感情を表に出すシェリルの変化がとても嬉しかった。
アルディナ神殿にいる頃はいつもひとりですべてを背負い込み、時々クリスにさえ死んだ瞳を向けていたシェリルが、今ではこんなに生き生きと輝いている。それは間違いなくシェリルが不良天使と呼ぶカインのおかげなのだと、クリスはまだ見た事もないカインに深く感謝した。
「……ごめん、クリス」
クリスに背中をさすられてやっと落ち着いたシェリルが、大きく深呼吸して体の熱を外へと追い出した。
「ちょっといろいろ思い出しちゃって」
「ねぇ、シェリル。カインと旅に出てから、夜はぐっすり眠れるようになった?」
「夜? うん、前よりはね。それがどうかしたの?」
おかしな事を聞くものだと不思議そうに首を傾げたシェリルの瞳に、意味ありげに笑うクリスが映る。
「何なの?」
「シェリルはカインの事考えると、胸が苦しくなるんでしょ?」
再確認されて、シェリルが不安げに小さく頷いた。それがどうかしたのかと口を開こうとしたシェリルの前で、クリスがにっこり笑ってシェリルの肩をぽんっと軽く叩く。
「それって、恋してるのよ」
「……え?」
「シェリルはカインに恋してるの。カインを好きになり始めてるのよ。ただそれに気付いていないだけ」
いくら異性に疎いシェリルでも、恋の意味くらいは知っている。しかし実際に自分が恋をしていると言われてもシェリルには実感がなく、ふっと呆れたように笑みを零した。が、その顔は心とは裏腹にみるみるうちに赤く染まっていく。
「……やっ、やだ、クリスったら何言ってるのよ。カインは天使なのよ! しかも女好きで誠実さのかけらもないのよ! そんな事ないったら」
「でも、シェリル……」
「私っ! 祈りの間に行って来るっ。クリスは先に帰ってて。じゃ!」
これ以上変な事を言われる前にと、シェリルはクリスから逃げるように来た道を戻って行った。
「あ……シェリル!」
あっという間に闇に消えていったシェリルの後ろ姿を目で追いかけながら、クリスはシェリルへ伸ばした手を力なく引き戻した。シェリルの変化があまりに嬉しくて少しはしゃぎすぎたと反省したクリスは、闇に消えていったシェリルから視線を戻して星の棟へと歩き出した。
「ちょっと、急かしすぎたかしら」
ぽつりと呟いて、シェリルが向かった祈りの間がある月の塔を振り返ったクリスの耳に。
「……女好きで誠実さのかけらもない、か。悪かったな」
少しむっとした男の声が聞こえてきた。頭上から落ちてきた声に驚いて空を見上げたクリスは、しかしその声の主を見つける事は出来なかった。




