小さな思い 2
「さてと、私もそろそろ戻らないと。シェリルも疲れただろうし、次の出発は急がなくていいわよ」
カップに残ったパールティーを飲み干して席を立ったセシリアにきょとんとして、シェリルが後を追うように椅子から立ち上がった。
「あの、セシリアさん。夢のかけらはどうするんですか?」
「ああ、それは多分全部集まった時に元の形に戻って現れると思うわ。心配しないで。それからルーヴァ、今夜は結界の張替えをするからそのまま宮殿へ泊まるわね」
壁に立てかけてあった瑠璃色の杖を手に取ったセシリアの体が、瞬時に色をなくした。空気に溶け、みるみるうちに透けていく体に驚いて目を丸くしたシェリルに、幻影かと思えるほど薄く揺らめいたセシリアがにっこり笑った。
「じゃあ、また」
最後にそう言って、セシリアの体が完全にそこから消失した。あっという間に消えたセシリアの代わりに、その場にさらさらと流れた光の粒が一時浮遊して消えた。
特別に呪文を唱えた訳でもなく、たった一瞬で瞬間移動の魔法を完成させたセシリアは、おそらくかなり上位の魔道士だろう。攻撃系よりも難しいとされる静の魔法、それを簡単にやってのけたセシリアにシェリルは驚きを隠せないでいた。
「セシリアさんって、魔道士だったのね」
「ええ、一応。天界の結界を維持しなければなりませんからね。結構大変そうですよ、女神の代わりと言うのも」
「天界の結界?」
「大事をとってですよ。……女神が眠りについた理由ともうひとりの神の存在は、姉やカインから聞いて知っていますよね?」
ルーヴァが何を言いたいのかを悟ったシェリルがはっきりと頷いた。
女神に弟がいた事。その弟が闇の王となり、彼を封印した女神が眠りについた事。それらは天界にだけ語り継がれる真実であり、下界に住む人間に軽々しく言える事ではない。女神を目覚めさせる為にかけらを集めに出たシェリルがそれを知らないはずはなかったが、再確認の為にルーヴァはシェリルにそう尋ねたのだ。
「闇を吸収し闇の王となってしまったルシエルを封印しても、既に闇から零れ落ちていた多くの魔物は未だに存在しています。闇の魔法を操るディランもそうですしね。その闇に属する者たちから天界を守る為に結界を張っているんですよ。女神も落し子もいない天界を襲うには今が絶好の時ですから」
「天界全体を? それって、凄い事じゃないの?」
「そうなりますね。でも姉の他にリリスたち魔道士も補助として手伝っていますよ」
相変わらずのんびりした口調で話すルーヴァだったが、それとは反対にシェリルはさっきから驚きっぱなしである。
優しい笑顔を向けながら平気で人を実験材料にするルーヴァと、おっとりした性格なのに天界をすっぽり包んでしまう結界を作れるほどの魔力を持つセシリア。やっぱり姉弟だ、などと思いながら、シェリルはこの二人だけは怒らせないようにしようと心に決めた。
「おや? シェリル、鼻の頭が少しだけ赤いですよ?」
鼻の頭をルーヴァに見つめられて、シェリルはさっきリリスとぶつかった事を思い出した。慌てて鼻にあてた手の感触だけで、じわりと小さな痛みが走る。
「さっきリリスとぶつかっちゃって。その時、彼女の杖に思いっきり……」
「女性が顔に傷を作るものではありませんよ」
リリスとまったく同じ事を言われ、思わず顔を顰めたシェリルが言葉を発するより先に、家の扉が勢いよく開かれた。
「相変わらずのんびりしてるな、ここは」
まるで我が家に帰って来たかのように、カインが遠慮なくずかずかと入って来た。そんなカインを一目見て目を逸らしたシェリルが、言おうとしていた言葉をパールティーで飲み込もうとカップに手を伸ばした。そのカップが、真後ろから伸びたカインの手に奪われる。
「変な薬飲まされんなって言っただろ?」
シェリルの座っている椅子の背もたれに手をかけて真後ろからカップを取ったカインは、そのまま残っていたパールティーを一気に飲み干した。
「……あ」
自分と同じ場所にカインが口をつけた事を変に意識してしまい、シェリルの頬がみるみるうちに紅潮する。それを悟られまいと俯いたシェリルに、かすかな香りが届いた。
激しい情熱を秘めた、燃えるような薔薇の香り。
「セシリアには報告したのか?」
隣の椅子に座りながら尋ねてきたカインを見る事もせず、シェリルは自分の中で再び燃え上がった黒い炎を打ち消そうと、必死になって唇を強く噛み締める。
「シェリル?」
「……私、帰るっ」
押し殺した低い声でやっとそれだけを呟いて、シェリルが椅子から立ち上がる。思った以上に派手な音を立てた椅子にびっくりしたものの、これ以上ここにいたくないと言う思いの方が勝り、一緒になって立ち上がろうとしていたカインを一度だけ睨み付けた。
「帰るってお前、ここからどうやって帰るつもりだ?」
「いい! ルーヴァに送ってもらうっ!」
そう叫んで、まるで逃げるようにシェリルが家から飛び出した。開け放たれた扉の向こうに見えていた後姿は、あっという間に小さくなって人ごみに消えていく。一体何が起こったのか分からずに、カインがただ呆然とする。そんな友人を見つめていたルーヴァは、やがてふっと小さく笑みを零すと、静かに椅子から立ち上がった。
「私の返事も聞かずに出て行くところがシェリルらしいですね」
「何なんだ? あいつ」
未だにシェリルが飛び出していった理由が分からないカインは、立ち上がりかけていた体を再び椅子に戻して、苛々したようにポケットから煙草を取り出した。その手をルーヴァが上から押さえ込むように掴んで、春の陽だまりのような笑顔をにっこりと向けた。
「家は禁煙です。匂いはなかなか取れませんからね、カイン。……本人は気付かないでしょうけど」
「何だよ、その言い回しは」
「薔薇の香り、残ってますよ。女性はこういう事に敏感ですからね」
言われた言葉に一瞬ぎくりとして、カインが指から煙草を落としそうになる。
「それではシェリルを下界まで送ってきます。相手が私で悪いですけど」
「別に」
言い返そうとして振り返った先に、もうルーヴァの姿はなかった。瞬間移動の魔法でも使ったのだろう、ルーヴァが立っていた場所には光の粒が緩く渦を巻いて消えていくところだった。
自分がリリスの所へ言った事を別に隠しておくつもりなどなかったが、いざシェリルに知られてしまったとなるとカインの心はひどく乱れて落ち着かない。
「……くそっ」
誰もいなくなった家の中にひとり取り残されたカインは、自分を睨みつけたシェリルの瞳を忘れようとして、前髪をぐしゃぐしゃっとかきあげる。
「別に、関係ない」
自分に言い聞かせるように吐き捨てたカインはルーヴァの言葉も忘れて、握りしめていた煙草に火をつけていた。
「シェリルっ? 今までどこに行ってたの!」
アルディナ神殿へと帰り着いたシェリルを一番に見つけたのは、親友クリスティーナだった。大聖堂からシェリルのいる中庭までぱたぱたと駆け寄ってきたクリスのその声に、今度は神官長エレナまでもが大聖堂から顔をのぞかせる。シェリルの真横に浮いていたルーヴァは人の目に映らない為、クリスはルーヴァの存在にまったく気付く気配がない。
「一体どこで何をしていたの! 黙っていなくなるなんて」
「ごっ……ごめん、クリス。これには訳が」
クリスの剣幕に二、三歩後ずさりながら横目でルーヴァに助けを求めたシェリルだったが、ルーヴァは『人に姿を見せる事は禁じられています』と、面白そうに言うだけだった。
「クリス、もうそのくらいにしておあげなさい。シェリルだって何か訳があったのでしょうから」
優しい声音でシェリルをクリスの説教から助けてくれたのはエレナだった。シェリルの前に立ったエレナはその横に浮くルーヴァへと目を向けて、静かに小さく頭を下げる。
「エレナ様? もしかして、分かるんですか?」
「あなたに神のご加護があったようですね」
エレナの言葉にシェリルとルーヴァはお互いの顔を見合わせて驚き、クリスは一体何の事だか分からずに首を傾げる。人の目が天使の存在を映す事はないが、エレナのように信仰の厚い者ならばその姿を見る事も不可能ではない。ましてやエレナは世界最高の地位にあるアルディナ神殿の神官長なのだ。
「話は後でゆっくり聞きます。疲れているのでしょう? 夜までゆっくりお休みなさい」
そう言ってもう一度ルーヴァに頭を下げたエレナは、シェリルを促すように神殿へと歩き始めた。
「そのうちカインが降りてくると思いますよ。それまであの方が言ったようにゆっくりした方がいいでしょう」
空に上昇しながらシェリルの心に直接語りかけてきたルーヴァは、そのまま風に乗って光と同化するように消えていく。天界へ戻っていったルーヴァを見送りながら、心のどこかでカインの事を思い出していたシェリルは、強く頭を振ってエレナとクリスの後を追いかけて行った。
見る影もなく崩れ落ちた教会。その瓦礫の山の前にひとり佇むロヴァルの胸に、愛した影が甦る。
一度は死ぬ事でセレスティアのいない現実から逃げようとした。けれど、今なら分かる気がする。命をかけてロヴァルを守った、セレスティアの気持ちが。
「もう二度と、逃げたりしない」
自分に強く誓って、ロヴァルは消えていきそうになるセレスティアの残像を捕まえようと瞳を閉じる。
『ロヴァル……。愛してるわ』
遠くの方で、懐かしい声を聞いたような気がした。
「……あの、大丈夫ですか?」
ふいに真後ろから声をかけられ、ロヴァルは閉じていた瞳をぱっと開いた。蹲ったまま動かないロヴァルを心配して、少し遠慮がちにかけられた声に、ロヴァルがゆっくりと振り返る。
「ああ。……気にしないでくれ」
そっけなく答えてその場を立ち去ろうとしたロヴァルの瞳に――見覚えのある藍色が飛び込んだ。
ロヴァルに声をかけた乙女の胸元で揺れる光は、間違いなくあの時セレスティアと永遠の愛を誓い合った、世界にたったひとつしかない藍晶石のかけら。
「セレスティアっ!」
驚いて顔を上げたロヴァルの前に立っていたのは、神官服を着たひとりの乙女だった。
肩で切り揃えられた髪を風になびかせてセレスティアそっくりの笑みを浮かべた乙女は、目の前のロヴァルに対して丁寧に頭を下げる。
「あの私、ティアと言います。今日からこちらの教会で働くようになっていたのですが」
言いながらティアと名乗ったセレスティアそっくりの神官は、崩れ果てた教会へ目を向けて呆然と立ち尽くした。
「……ティア?」
「はい?」
「今まで、どこに?」
「それがよく分からないんです。数週間前からの記憶が、その……。六日前に目を覚まして、それからこちらへ来たものですから」
少し俯いて語るティアの額には、もう三日月の刻印はなかった。おそらく彼女はセレスティアの生まれ変わりで、ディランによって魂を抜き取られていたのだろう。偽りのセレスティアが死んで、彼女の魂はやっとティアの体へ戻る事が出来た。
ロヴァルとの愛を受け継いで、戻って来たのだ。
「……ティア」
優しく、そして少しだけ切ないロヴァルの声音を、懐かしいと感じたティアの胸がとくんと鳴る。
「お前にとって、辛い記憶を思い出させてしまうかもしれない。……でも、俺はお前に思い出して欲しい。ここで何があったのかを」
ロヴァルの真っ直ぐな視線を受け止めたティアの胸元では、藍晶石が過去を思い出すように濡れた輝きを放っていた。




