闇の従者 2
闇。
一筋の光もない、真の闇。
不思議と恐怖はなかった。光ある世界で生きていくよりは、闇に身を委ねた方が痛みを感じないで済む。
少年を蔑み、憎悪を剥き出しにしてくるものが光の中にはたくさんあった。そこで彼を守ってくれるものなど、誰ひとりいなかった。少年を生んだ母親でさえ彼を憎み、殺意をあらわにする。
『どうして? 母さん……どうしてどうしてどうして。僕、何かいけない事した? 教えてよ、母さん! 僕、謝るから。母さんにも村の皆にも、何度だって謝るから! お願いだから、僕をそんな目で見ないでっ!』
最後に見たのは、鋭く尖ったナイフの描く、銀色の軌跡だった。
『神の落し子を連れて来い。出来るな?』
体にずしりと響く、低い声音。
望むものは何でも叶える、それが彼なりの忠誠。
闇に紛れ、声だけを届ける主の姿を、彼は見た事がなかった。感じるのは肌に心に直接伝わる、冷たく透き通った気配だけ。それに色をつけるのなら、安易に触れる事を許さない高貴な銀。冷たく凍った銀色の氷のようだった。そしてその美しい氷を、彼はその目に映したかった。
それはすべてを失ったあの日に彼が出会った、たったひとつの真実であるから。
例えそれが歪んでいたとしても、もう彼にはそれしか残されていなかったのだから。
激しい爆音と共に舞い上がった土煙は、結界に守られていたディランとシェリルを避けて空の彼方にまで舞い上がった。がらがらに崩れ落ちた教会の残骸が煙の隙間から垣間見え、シェリルは必死にその中からカインの姿を見つけようとする。
一瞬にして瓦礫と化した教会の前に立ち尽くしたままのロヴァルが、空に浮かぶ友の姿を信じられずに、力なく首を横に振った。
「……嘘だろ、ディラン。何でお前が」
「やあ、ロヴァル。君との船旅はなかなか楽しかったよ。唯一の心残りは、君を殺せなかった事かな」
いつもの口調で平然と言ってのけるディランを睨みつけて、ロヴァルが悔しそうにぎりっと歯を食いしばる。仲間を裏切り、影でロヴァルを嘲笑い、セレスティアを苦しめた張本人が目の前にいると言うのにロヴァルは何ひとつ手を出す事が出来なかった。
「何の力もない人間を殺すのは弱いものいじめみたいだけど……ロヴァル、感謝するんだね。僕は君をセレスティアと同じ所へ連れて行ってあげるんだから」
「セレスティアに何をした!」
「死ねば分かるよ」
楽しそうに言ってロヴァルへ向けたディランの指先に、黒い瘴気が絡みつく。それは牙をむき出しにした髑髏の姿を形取り、眼下のロヴァルへと勢いよく飛びかかった。
「あんなもので俺を倒した気になるなよ、ディラン」
冷ややかな声が聞こえると共に、ロヴァルへ襲い掛かろうとしていた髑髏が銀色の細い軌跡によって真っ二つに切り裂かれた。短い悲鳴を上げて風に攫われ消滅した髑髏の向こう側に、堂々と立ちはだかる紫銀の影。
今さっき髑髏を切り裂いた剣で上空のディランを指したカインが、間を空けず一気に上昇した。
「足止めくらいにはなると思ったんだけどね。……たかが天界戦士の分際で、君もよく足掻く」
あっという間に目の前まで飛んできたカインを煩わしそうに見つめて、ディランが小さく息を吐いた。
「シェリルを返せ」
「無理な願いだね。僕が素直に頷くとでも思った?」
言いながらカインを指したディランの指先に、赤黒い光が集まり始めた。それは瞬きする暇さえ与えず一気に膨らみ、標的であるカインめがけて飛びかかる。
「僕は他の誰でもないルシエル様の為にだけ動く」
獲物を見つけた獣のように襲いかかって来た赤黒い光弾はカインの目の前で四つに分裂し、四方を取り囲みながら細い線で描かれた魔法陣へと姿を変えた。
ウォアズの頭を粉砕したもの。しかし、それよりもはるかに規模の大きな暗黒の魔法陣。
「カインっ!」
それは獲物を逃がさず、骨までぼろぼろに崩してしまう魔の呪文だった。しかし、カインに飛びかかった魔法陣は何かに弾かれたように軌道を逸らし、カインを完全に避けて二つずつぶつかり合いながら爆発した。
「何っ?」
まるで攻撃する事を拒むかのようにカインを避けて爆発した魔法陣に、ディランが初めて驚愕の表情を浮かべてその目を大きく見開いた。
あれはディランの得意とする暗黒魔法だった。それを他の誰か、まして天の力を振るう天使が制御し、操る事など出来るわけがない。暗黒魔法を扱えるのは、闇に属したものだけなのだから。
「お前、呪文もまともに唱えられないのかよ?」
剣を振り、身構えていたカインは拍子抜けしたように小さく息を吐いて、皮肉を言いながらディランを見つめ返す。
「なぜだっ!」
驚愕に見開かれたままのディランの瞳が、カインの左耳で光を反射するピアスを捉えた。小さな宝石は、けれど主張するように光を反射し、凍て付いた氷に似た銀色に鋭く輝く。その色に、ディランが更に目を大きく見開いて息を呑んだ。
それは、ディランにとって最も真実に近い色。
「君は……――――カイン?」
かすかに動いた唇から零れた声は、誰の耳にも届く事なく風に攫われていく。
普通の守護天使が持つものとは少し変わった気を放っていたカイン。
彼を攻撃する事を拒むように自爆した魔法陣。
そして、ディランが求めていた色彩を感じさせる左耳のピアス。
「……そうか。――――そう言う事だったのか」
自分の中で納得して小さく呟いたディランは、目の前で羽を広げるカインを見つめてにやりと笑った。
「カイン、君の名前は? 翼の色は? ――――君の剣はどこにある?」
「何の事だ?」
「君を苦しみから解放してあげるよ」
カインを見つめたまま静かに言ったディランの体が、次の瞬間真っ黒な瘴気に包まれた。ディランとシェリルを飲み込んで姿を覆い隠した瘴気はみるみるうちに膨張し、辺りに息苦しさを伴う闇を連れてくる。
「僕は次の仕事があるから帰るけど、君たちの相手はちゃんと用意してるよ」
瘴気の中から聞こえるディランの声はだんだんと遠ざかり、代わりに呻き声のような低い音が響いてくる。
「待てっ、ディラン!」
「そうそう、シェリルは返すよ。『君』がそれを望むのなら」
意味深な言葉を残して、ディランの気配は瘴気の中から完全に消え失せた。それと同時にシェリルの叫び声が瘴気の中から飛び出した。
「きゃああ!」
瘴気から弾き出されて落下するシェリルを見つけて、カインが慌てて後を追う。その背後で、空を覆うほど膨張した瘴気の塊が爆音を上げながら一気に弾け飛んだ。空中でシェリルを捕まえたカインが背後の爆音に振り返るより早く、腕の中のシェリルがはっと目を開いて大声を張り上げた。
「カイン、避けてっ!」
シェリルの絶叫とほぼ同時に、カインの真横を風の刃が通り過ぎた。反射的に身を捩ったカインの右頬をかすめた鋭い刃は、空をも切り裂きながらそのまま地上のロヴァルめがけて落下する。
「ロヴァル!」
迫り来る風の刃を呆然と見つめたまま微動だにしないロヴァルに舌打ちしたカインが、シェリルを抱えたまま勢いよく急降下した。風の刃がロヴァルを切り刻む一歩手前でその体を掴み、そこから少し離れた場所に着地するなり怒鳴り声を上げてロヴァルを睨みつける。
「ロヴァル、お前何やってんだよ! 切り刻まれたいのかっ!」
「……――――セレスティア」
カインの言葉も耳に入っていないのか、未だに空を見上げたまま、ロヴァルが再度その名を呼んだ。
「セレスティア」
「ああっ?」
呆然としたロヴァルに苛つきながら彼の視線の先を追ったカインの瞳が、再び迫り来る風の刃を捉えた。
「ちっ!」
両腕にシェリルとロヴァルを掴んで後ろに飛び去ったカインの視界が、地面を抉られ舞い上がった土煙に遮られる。
その中から現れたのは、セレスティアだった。




