死臭 1
――――誰? そこにいるのは……誰?
冷たい瞳。冷たい声。その指に黒い呪文が絡みつく。
――――やめて……起こさないで。私を目覚めさせないで。
温かい日差しと爽やかな海風に包まれて教会の外のベンチに腰かけていたセレスティアは、何かに弾かれたようにはっと目を開いた。何かひどく嫌な夢でも見たかのように、胸の鼓動が早鐘を打っている。額には汗が滲み出し、胸を強く打つ鼓動はセレスティアの脳裏にかすかな夢の残像を思い出させた。
暗闇に現れた、透けるような白い指。嘔吐してしまいそうなほど不気味な旋律を奏でる声音は暗黒の呪文となり、闇に溶け合い響き渡る。
細い指に絡みつく呪文。肌に染み込む暗黒の瘴気。支配されるがままにゆっくりと起き上がった命のない体。
『君はもう一度甦る。神の落し子として』
耳の奥に残る声に聞き覚えのあるような気がして、セレスティアは強く頭を横に振る。
「違うわっ!」
何に対して言っているのかセレスティア自身分からなかったが、叫ぶ事で胸の奥に広がる不安を打ち消してしまいたかった。あの声を否定してしまいたかった。
「私は、セレスティア。この時代に生まれた神の落し子」
まるで自分に言いきかせるように呟いたセレスティアの言葉を追うようにして、彼女の背後から静かな声が響いた。
「セレスティア」
自分が最も待ち望んでいた声を耳にして、こわばっていた体から余計な力が抜け落ちる。声のした方を振り返るや否や、セレスティアは名を呼ぶより先にその手を伸ばしてロヴァルの体にしがみ付くようにして抱き着いた。
「セレスティア」
「ロヴァルっ! 良かった、無事で」
今まで誰ひとりとして帰って来る者のなかった聖地から、多少の傷はあるものの無事に帰還した恋人を目の前にして、セレスティアはさっきまでの不安をすべて忘れてロヴァルの存在を体中で確かめる。
「ああ、本当に良かった」
「藍晶石は手に入れた。これでお前は教会から解放される」
その言葉にぎくんと体を震わせたセレスティアが、ロヴァルを見上げるなり思わず首を横に振った。
「駄目! 藍晶石をウォアズ神父に渡してはいけないわ」
「何言ってんだよ?」
皆の信仰を集めているセレスティアと一緒になる為には藍晶石が必要だと言われ、命がけでそれを手に入れて来たと言うのに、その藍晶石を神父に渡すなと反対の事を言われてロヴァルは一瞬目を丸くする。セレスティアに尋ねたい事は、もっと他にあるのに。
「……ごめんなさい、ロヴァル。でも、渡してしまえば……神父様は、また人々を苦しめてしまう」
「神父が?」
訳が分からないと言うように眉を顰めたロヴァルから視線を逸らし、セレスティアが言いにくそうに俯いて服をぎゅっと握りしめた。時々開いてはすぐに閉じられる口元を見ながら静かに言葉を待つロヴァルの耳に、それは小さな音として届いた。
「ウォアズ神父は……人ではないの」
あまりに突拍子な言葉に思わずそれを否定しようとしたロヴァルは、何かに怯え激しく体を震わせているセレスティアを見て慌てたように口を閉じた。
「……セレスティア」
俯いたセレスティアの顔を覗き込みながら名前を呼んで、ロヴァルは小刻みに震えるその小さな肩にそっと手を置いた。ロヴァルの手を感じて顔を上げたセレスティアの瞳は、今にも涙が零れ落ちそうに潤んでいる。
「神父様は、私を崇めてくれる人々を教会に誘い込んで……そして、骨も残さず……っ。私がいなくなる事を恐れてあなたを聖地へ向かわせたの。生きて戻る確率はゼロに近かったし、万が一戻ってもその手に藍晶石があれば、彼は私を失ってもそのかけらを道具にして、また人をっ」
興奮してきたセレスティアを宥めるように、ロヴァルが震える小さな体をふわりと抱きしめた。ロヴァルの体温と包み込む腕の力を感じて、セレスティアが深く深く息を吸う。
「私っ。私、怖かったの。怖くて怖くて何も出来なかった。すべてを知ってしまったらあなたは私から、離れて行ってしまうと思っ……」
「俺はお前が何者でも構わない! お前の為に藍晶石を取りに行ったんだ! ずっとそばにいてくれるならそれだけでいい。例え……――お前が神の落し子でなくてもだ」
『僕の声が聞こえるかい? セレスティア』
言われた言葉の意味が分からず、セレスティアが涙の浮かんだ瞳をロヴァルへ真っ直ぐ向けた。
「……何の事?」
繰り返し尋ねてくるセレスティアに、今度はロヴァルが視線を逸らす。
「ロヴァル?」
「――神の落し子は……もうひとりいた」
どくんと大きく脈を打つ。体中の血が激しく騒ぎ立て、セレスティアを内から呼び覚ます。心の奥でずっと封印してきた扉を叩くように。
『君の名前はセレスティア。覚えているかい? かつて君が生まれ育った場所だよ』
閉ざされていた記憶の中で細い指が黒い闇を絡め取り、冷たい感情しか伝わって来ない薄い唇が言葉を紡ぐ。
『君は形だけの落し子だ。受け継ぐのは額に刻まれた三日月だけ』
「……やめて。違うわ!」
頭の中に響く冷たい声を振り払うように、セレスティアが両手で強く耳を塞いだ。
『君はセレスティア。七十年前に実在した、落し子』
「いや! 聞きたくない!」
絶叫にも近い声に一瞬力を緩めたロヴァルの腕の中から、セレスティアが逃げるように飛び出し、そのまま一度も振り返らずに駆け出していく。
「セレスティア!」
「来ないで! 私はっ。……私っ」
ロヴァルの手をすり抜けたセレスティアは、まるで何かから逃げるように街へと続く一本道を一目散に駆け下りていった。




