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飛べない天使  作者: 紫月音湖(旧HN・月音)
第2章 夢のかけら
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ふたりの落し子

 果てしなく続く草原。そこに吹く緑の風。草原は海のように波打ち、風に吹かれて漣は遠くまで流れていく。青い空、白い雲、緑の大地と爽やかな風に包まれて、シェリルは草原の真ん中に立っていた。


「お前は私だ」


 突然聞こえた声に驚いて振り返った先に、ひとりの女がいた。シェリルに背を向けた女の後ろ姿は、緩く波打つ長い金髪によって完全に覆い隠されている。


「運命に導かれた落し子よ。時はお前を選び、闇は執拗にお前を狙うだろう。私の力を奪う為に」

「……もしかして、アルディナ様?」


 シェリルの声など聞こえないかのように、女は言葉を続ける。そしてその言葉を途切れさせてはいけないと、シェリルは心のどこかでそう感じていた。


「闇は消えない。闇に支配されたルシエルを救うには、彼の心に根付いてしまった孤独を取り除いてやらねばならない。……しかし、私にはそれが出来なかった」


 一瞬にして風が止んだ。

 空には暗雲が漂い、青々としていた草原はみるみるうちに生気を失いぼろぼろに枯れ果てていく。空を覆った雲からは、地を裂くような低い音と共に鋭い稲妻が落下した。光を失った視界の中で、女の金髪だけがくっきりと闇に浮かび上がる。


「弟ルシエルは死んだ。もう二度と戻ってくる事はない。そこにいるのは、ルシエルの姿をした闇なのだ」


 声に合わせて、女の前に闇の塊が現れた。それは時々人らしき形を留めながら、女にゆらゆらと近付いては離れていく。


「そう思わねば、弟を殺す事すら出来ないのか?」


 闇の塊が、低く不気味な声で語り始める。聞き覚えのある冷たい声に、シェリルの体がぎくんと震えた。


 ――――逃がしはせぬ。


 その声はシェリルの両親を殺し、今でもシェリルを狙っているあの影の声とまったく同じ声だった。


「我はルシエルだ。この体もこの命も、お前の弟そのものだ。神が神を殺すのか? ……面白い。出来るものならやってみろ。我はどこへも逃げはせぬ。お前が弟を殺す様を見届けてやろう」

「女神である以上、私はお前の存在を許すわけにはいかぬ」

「お前はまだ迷っているのか? 期待など意味はない。こいつは既にお前を憎んでいる。お前を殺したいと、地界ガルディオスから逃げ出したいと、我の中で泣き叫んでいる。その声がお前には聞こえるか? ――――聞こえるはずがない。こいつはお前という存在すべてを否定し、拒絶しているのだからな」


 シェリルの前でアルディナの長い髪が風に揺れたその瞬間、闇に砕け散った涙の粒がシェリルの瞳にはっきりと映った。


「アルディナ様」


 シェリルの口から零れた音は闇に覆われた空間に響き渡り、それを合図にして周りの闇が一斉に悲鳴を上げて吹き飛んだ。激しい突風と体に感じる闇の破片が、シェリルの意識をそこから引きずり出そうとする。目の前に見えていたアルディナと闇の塊は突風に崩れるようにして消滅し、シェリルだけがその空間に取り残されていた。

 突風と一緒に渦巻くあらゆる感情はシェリルの心に直接響き、息も出来なくなるほど胸を切なく締め付ける。

 怒り、憎悪、殺意、そして深い悲しみと――孤独。


「闇が何であるか、お前には分かるか?」


 激しい風に紛れて、静かなアルディナの声がシェリルの耳に届いた。どこか悲しげな色に染まった声音に、シェリルがはっと目を見開く。その視界の端に、一瞬だけ金色の影が映った。


「ルシエルの心を壊したのは、孤独と言う名の闇だ」


 声はあっという間に風に攫われ、追うように空を見上げた視線の先で闇に覆われていた空が亀裂を走らせ、そしてそのまま音を立てて砕け散った。雨のように降り注ぐ空のかけらを全身に浴びながら、シェリルはひとり、その場所にいつまでも立ち尽くしていた。


『激しい怒りと深い悲しみに染まったルシエルの声が、お前には聞こえるか?』





 いつになく落ち着いて眠っていたような気がする。体を包む温かい熱に身を委ね、安心して心を開いていた。朝の眩しい太陽が窓から差し込み、穏やかな眠りについていたシェリルの意識をゆっくりと呼び戻す。


「……ん」


 かすかに瞼を動かして身じろぎしたシェリルは、思うように動かない体に低く唸りながらもその目を開ける事が出来なかった。ゆっくりと目を覚ます意識と一緒に、強烈な頭痛までもがシェリルに戻ってくる。頭の中では激しく鐘が鳴り響き、ふらふらする体と今にも吐きそうな不快感と戦いながら、何とか体を起こそうとしたシェリルの耳に、声が届いた。


「大丈夫か?」

「……エレナさ、ま。すみ……ませ、ん。気持ち悪くて……今日の礼拝、お休みしても」

「飲みすぎなんだよ」


 飲みすぎと言う言葉に反応したシェリルが、勢いに任せてがばっと顔を上げた。顔のすぐ先にカインを見つけ、驚きのあまり叫び出しそうになったシェリルの口元が大きな手で塞がれる。


「騒ぐと倒れるぞ。お前の飲んだ酒は半端じゃなく強い酒だ。大人しくしてろ」


 頭に響かないように静かに言われ、されるがままカインに抱き寄せられたシェリルは訳が分からず、照れと頭痛と気持ち悪さを必死で抑えながら、昨夜の記憶を少しずつ手繰り寄せてみる。


「な……に? 私、確か……ディランたちと話してて」

「そのディランに飲まされたんだよ。男でもぶっ倒れる強い酒をな」

「そうだわ。……死にそう」

「だろうな。暫くこうしててやるからもう少し寝てろ」


 腕の中で素直に頷いたシェリルを見ながら淡く微笑んだカインは、未だに力の入らないシェリルの体を優しく抱き寄せた。


「こういうのも悪くないな」


 ぽつりと呟かれた言葉はシェリルの耳に届く事なく、それと同時に開かれた扉の音にあっけなくかき消されていった。

 控えめに二回叩かれた扉はカインの返事を待たずに開けられ、外から水の入ったグラスと白い粉薬を持ったロヴァルが遠慮なくずかずかと入ってきた。カインの腕の中でぐったりとしているシェリルを見たロヴァルは、やっぱりと言うように小さく息をつく。


「こんな事だろうと思ったよ」

「飲ませたのはお前らだろう?」


 冷たく返され少しバツが悪そうに頭をかきながら、ロヴァルは持ってきた水と薬を強引にカインへと手渡した。


「わ、悪かったよ。その薬はディラン特製の酔い覚ましだ。飲めば一時間くらい……そうだな、カザールに着く頃には治るだろうな」

「自白剤か?」


 薬をシェリルへ渡しながら呟いたカインの瞳の奥に冷たい光を見たロヴァルは、反発する事すらせずに大人しく首を横に振った。


「いや、違う。薬は本物だ」


 グラスを持ったままロヴァルの答えを待っていたシェリルは、その言葉を聞くと安心したように手渡された薬を一気に飲み干した。


「ひとつ聞きたいんだが、なぜお前はシェリルの事を知りたがる? こいつが落し子だって事くらい見りゃ分かるだろ?」

「神の落し子は……いや、これはやっぱり俺が本人に確かめるべきなんだろうな」


 ぶつぶつと呟きながら自分の中だけで納得したように小さく頷いたロヴァルが、カインとシェリルに視線を戻した。


「もうすぐ俺たちの国カザールに着く。お前たちを監禁しておくつもりはないが、出来れば街へは出ないで欲しい。シェリルは特に……その姿をカザールの奴らに見せないでくれ」

「どういう事だ?」

「……落し子は、二人もいらない」


 小さな声でそう言ったロヴァルは、カインが何か聞き返すより早く部屋から飛び出していった。





『セレスティアはカザールの人々にとって何より大切な存在だ。それを失うと言う事は……ロヴァル、君にも分かるだろう? どうしてもセレスティアを連れて行くと言うのなら、それに代わるものを持って来なさい。そうすれば人々の信仰は受け継がれ、ロヴァル、お前も愛しいセレスティアを一緒になれる』


 島を出る時の事を思い出しながら、ロヴァルは藍晶石のかけらを手のひらにぎゅっと握りしめた。

 天使の涙と呼ばれる、聖地にしか存在しない藍晶石のかけら。それはセレスティアの代わりを受け継ぐものとして十分なものであった。人々の信仰は藍晶石に受け継がれ、セレスティアを支えにしてきたカザールも滅びる事はない。

 しかし。


「シェリル……」


 小さく名前を呼んで、ロヴァルは頭の中にシェリルの姿を思い浮かべる。不思議な雰囲気をもつカインと一緒に、海のど真ん中に現れた乙女。そのシェリルの額にくっきりと刻まれていた三日月の刻印を思い出したロヴァルは、それを振り払うように強く頭を振った。


「セレスティア。お前……」


 言いかけた言葉を飲み込んで顔をあげたロヴァルの瞳に、カザールが小さく映る。ロヴァルの国であり、ひとりの存在によって生き続けている小さな島国。そこにはロヴァルの帰りを待っているセレスティアがいる。

 水平線の向こうに見えるカザールを、ロヴァルは暫くの間ただ黙って見つめ続けていた。





 何かを聞かれる事を恐れるように部屋から出て行ったロヴァルの後を呆然と見つめていたシェリルは、最後にロヴァルが呟いた謎めいた言葉を思い出して小さく首を傾けた。


「二人の、落し子?」


 繰り返し呟いてカインを見上げたシェリルの疑問の答えは、部屋の外から返ってきた。


「そう、神の落し子は二人いた」


 その声にはっとして顔を向けたシェリルの目に、開けっ放しになっていた扉の向こうから現れたディランが映る。扉を静かに閉めてベッドの脇の椅子に腰掛けたディランは、ベッドの上で壁に寄りかかるようにして座るカインとその腕の中でぐったりしているシェリルを見ながら、昨夜の事を簡単に謝罪した。


「昨夜は悪かったよ。僕らの国にとってシェリルの存在は少々危険なものだったからね。少し焦りすぎたようだ」

「危険? こいつがか?」


 腕の中で力なくぐったりとしたシェリルを見ながら鼻で笑ったカインに、ディランは言い返す事なく黙って頷いた。


「大陸から遠く離れたカザールを支えてきたのは、常にひとりの存在だった。今では神官セレスティアがカザールの国と人々を支えている。彼女がいなくなればカザールは支えを失い、滅んでしまうと皆は考えているんだ。それくらいセレスティアは神聖視されている」

「ひとりの神官が、良くそこまで慕われるな」


 カインの言葉に一瞬間を置いたディランは、ちらりとシェリルへ目を向けて静かに呟いた。


「世界にひとりしかいない存在だからだよ。セレスティアは……シェリルと同じ刻印を持つ、神の落し子だ」


 その一言でカインとシェリルは、やっとロヴァルたち海賊が自分たちを見て驚いていたわけを知った。

 大陸から遠く離れ、島の周囲に魔物が巣くうカザールでは、万が一何かあった時の為に頼るものが何もない。魔物の襲撃に遭えば、逃げる場所さえないのだ。

 そんな孤立したカザールの人々の支えになってきたのはアルディナを奉る教会であり、落し子という存在セレスティアだけ。その彼女の存在すら疑わしくなってしまうのなら、支えを失ったカザールは一気に崩壊してしまうだろう。だからこそディランたちは、シェリルの素性を確かめようとしていた。


「僕たちはそれを信じて疑わなかった。でもシェリル、君が本物の落し子だと気付いてしまった」


 少し悲しそうに言ってディランは椅子から立ち上がると、そのまま窓際へと歩を進めた。窓の外に見えていたカザールを瞳に映しながら、ディランが小さく小さく息を吐く。


「普通ならこの海には魔物が出る。けれど今日に限って一匹も現れなかった。それはこの船に神の力を受け継いだ者が乗っているからじゃないのかい? ――カザールに着けば、ロヴァルは真っ先にセレスティアの所へ行くだろうね。そして、真実を知る。今までのカザールが偽りであったのか、そうではないのか……」

「ディラン」


 カインの胸元に頭を預けたまま黙って話を聞いていたシェリルが、ゆっくりと顔を上げてディランへと向き直った。その静かな声に、ディランも窓の外からシェリルへ視線を戻す。


「ロヴァルは……もしかして、セレスティアの事を?」

「そう、ロヴァルとセレスティアは恋人同士だよ。カザールの宝でもあるセレスティアと一緒になる為に、ロヴァルはあの洞窟へ行った。セレスティアの代わりとなりうる神聖な藍晶石を手に入れる為にね。それをウォアズ神父に渡せば、ロヴァルは晴れてセレスティアを迎える事が出来たんだけど……そこへ君たちが現れたってわけさ」


 ディランが言い終わるのと同時に、部屋の外が騒がしくなり始めた。廊下を行き交う海賊たちの声が部屋の中にまで届き、シェリルたちは海賊船が目的地に着いた事を知る。


「カザールに着いたようだ。……歴史の終わりを告げる時かもしれないね」

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