甘い誘惑
カザールは大陸から遠く離れた、海の真ん中に浮かぶ大きな島国である。
大陸から遠く離れている為独自の文化を築き上げ、今では立派なひとつの国となったカザールにも女神アルディナを奉る教会があった。
島を取り囲む海には魔物の巣窟があり、カザールへ向かう海路は常に危険と隣り合わせだ。今まで何隻もの船が魔物の襲撃に遭い、深い海の底に沈んでいる。
大陸とカザールを繋ぐ海路は不安定で、半ば孤立した島となったこの国の教会には、現在ひとりの神父と神官がいた。
「セレスティア、皆が待っていますよ」
「はい、ウォアズ神父様」
優しい声で語りかけた神父に少し緊張した顔を向けたセレスティアは、椅子から立ち上がると儚い足取りで部屋を後にした。長い廊下の窓はどれも開け放たれていて、そこから流れ込んでくる風はかすかな潮の香りをセレスティアに届ける。街の一番見晴らしのいい丘の上に建った教会の窓からは、街の向こうに広がる青い海が遠くまで見渡せた。
ふと足を止めたセレスティアは窓から海を見つめて、少し前に聖地へ赴いたロヴァルの事を思い浮かべる。魔物たちの潜む海を渡り、誰ひとりとして帰ってくる事のなかった聖地へ行った愛しい恋人。彼が無事に帰ってくる事を願いながら、セレスティアは反対に彼が成し得ようとする事の失敗を望んでいた。
ロヴァルが聖地から戻ると言う事は、その手に天使の涙と呼ばれる藍晶石を持ち帰ったと言う事なのだ。そしてその石がこの島へ持ち込まれる事を、セレスティアは望んではいなかった。
「ロヴァル……」
乙女の切ない願いは口から零れた音と共に風に攫われ、海の彼方へと飛んでいった。
海賊船ブルーファングの甲板に置かれたテーブルの上には、あらゆる酒と食べ物が所狭しと並べられていた。豪快な笑い声が飛び交い、少し煩いくらいに海賊たちが酒を飲んでは騒ぎ立てている。
そんな海賊たちから少し離れてひとり優雅にワインを飲んでいたディランの横に、ふて腐れた顔をしたロヴァルがどっかりと腰を下ろした。片手に持ったビールをぐいっと飲み干していくロヴァルを見ようともせず、ディランは顔を上げて今はもうすっかり日の落ちた夜空を見つめながら小さく息を吐いた。
「主役がこんな所にいていいのかい? 皆は君の成功を祝ってるんだよ。藍晶石を手に入れた君がやっとセレスティアを迎えられるってね」
「そんな事よりディラン! 何であいつらに何も聞かなかったんだよ!」
ロヴァルの言葉を聞いてふっと笑みを零したディランは、星空から視線を戻してグラスに残ったワインを一気に飲み干した。
「聞かなかったんじゃない。……聞けなかったんだ」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だよ」
空になったグラスをくるくる回して遊びながら、ディランはカインの事を思い出す。
シェリルの存在について尋ねたディランに向けられた鋭い瞳。その奥に心まで凍らせてしまうような冷たい光を見つけたディランは、それ以上カインを問い詰める事が出来なかった。あの光に触れてしまえばただでは済まないだろうと心の奥で警報がなり始め、ディランは出直すしかなかったのだ。
「……あの男、甘く見ない方がいい」
珍しく慎重な言葉にロヴァルも何かを感じたらしく、素直に頷いて見せた。
「お前がそう言うんなら相当ヤバイ相手なんだろうな、あのカインって奴」
言いながらビールを飲み干したロヴァルの背後で、それまで楽しく騒いでいた海賊たちの声が一斉に驚きの声に急変した。
「なっ……なんでお前らここに!」
聞こえてきた仲間の声にむっと目を細めたロヴァルが振り返るより早く、あの自信に満ちた男の声が甲板に響き渡った。
「楽しそうだな。俺たちも混ぜてくれよ」
部屋の鍵は外からしっかりとかけた。船室についている窓も、外を眺める事が出来るだけで開きはしない。それなのに目の前に立って不敵な笑みを浮かべる男に、ロヴァルは目を丸くして一瞬言葉を失った。
肌に感じる冷たく強大な気と、何事にも動じない態度。この得体の知れない男の存在に、ロヴァルは初めて恐怖を抱いた。
「お……お前っ! 一体どうやって抜け出したんだ!」
「俺を捕まえたいんなら、最低十人の女くらいは用意しとくんだな」
その言葉に訳もなくむっとしたシェリルが、カインを押しのけて前に移動した。
「あの、ちょっと聞きたい事があって……その、ロヴァルさん?」
「……さん付けはやめてくれ。ロヴァルでいい」
先ほどディランにカインを甘く見るなと言われたばかりだったからか、ロヴァルはいつになく素直にシェリルの質問に答えていた。
「夢のかけらと言うものを、知りませんか? あの洞窟の奥にあると思うんですけど」
「夢のかけら? 洞窟の中には藍晶石の結晶しか……」
言いかけてロヴァルがはっと口を閉じた。洞窟の一番奥にいた得体の知れない巨大な守護獣の存在を思い出して、ロヴァルはそれが夢のかけらと言うものを守っているのだと直感する。
「夢のかけらが何なのか分からないが、洞窟の奥には守護獣がいた」
ロヴァルの言葉を聞いてシェリルとカインは、顔を見合わせて小さく頷いた。おそらくそこに夢のかけらはある。僅かな希望が見えて、シェリルがその顔にふわりと笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ロヴァル」
「おい、待てよ。まさかあの洞窟に入る気じゃないだろうな? あそこは人を喰う藍晶石の洞窟だぞ? おまけに道も複雑で……」
「だったらロヴァルを道案内に付けるけど?」
シェリルとロヴァルの会話に横から入り込んできたディランが、さらりと事も無げにとんでもない事を口走った。その言葉にぎょっとしたロヴァルの瞳の奥では、ディランが少しも悪びれた様子なく、にこにこと作り笑いを浮かべている。
「その守護獣のいる所までロヴァルが君たちを案内する。その代わりシェリル、君には自分の事を話してもらうよ?」
「えっ! あの、それは……」
ロヴァルを餌にして取引を仕掛けてきたディランに、シェリルはどう答えていいものかと曖昧に言葉を濁らせる。本物の落し子だと言ってしまえば、どういう訳かディランたちの国はすべてを失うと言った。それにカインが天使だと言う事を、そう簡単に話していいものかどうか迷ってしまう。
「ねぇ、カイン。どうしたら……」
助けを求めて隣のカインへ顔を向けたシェリルの言葉が、そこで途切れた。横にいるはずのカインが、後ろの海賊たちに紛れてビール片手に大きく乾杯している。そんな天使の姿を瞳に映して、シェリルが口をぽかんと開けたまま呆然とした。おいしそうにぐいぐいとビールを飲みながら煙草に火をつけているカインの姿は、とても天使には見えない。
「ちょっとっ、カイン!」
慌ててカインのもとへ駆け出そうとしたシェリルの肩を掴んだディランが、何かを企んでいそうな笑みを向けながらシェリルに無理矢理グラス握らせた。
「まあ、連れがあんなだし……どう? 君も何か飲むかい?」
そう聞いてはくるものの、ディランはシェリルの返事を待つ気もないように、さっさとグラスに琥珀色の液体を注ぎ始める。手に握らされたグラスになみなみと注がれた琥珀色の液体に目を丸くして、シェリルは慌ててそれをディランへ返そうとする。しかしディランはディランで、自分のグラスを片手ににっこりと微笑みを返してくるだけだった。
「あの! 私、お酒は飲めないんです」
「これは違うよ。僕らの国で採れる珍しい果物を飲み物にしたやつだ。君にも飲めると思うけど?」
まるで逆らう事を許さないかのような瞳で見つめられて、シェリルはおずおずとグラスに顔を近付けてみる。とろりとしたそれは花の蜜のように甘い香りを漂わせ、それだけでシェリルを酔わせてしまう。
「飲まないの?」
優しく聞こえる言葉でも、それはまったく反対の意味を持つ言葉としてシェリルの胸に冷たく突き刺さった。心に響くディランの言葉は、もはや優しくも何ともない、ただの命令だ。儚く優しそうな外見をしておきながら、実の所この海賊船の中で一番たちの悪い性格だといっても間違いないとシェリルは直感する。
「……これ、一杯しか飲みませんから」
ディランに脅され、カインもあてにならず、半ばやけになったシェリルは、右手に持ったグラスに口をつけて琥珀色の液体を一気に飲み干した。
(エレナ様。仮にも神官だと言うのに、お酒を口にしてしまった事、お許し下さい)
心の中で謝罪し懺悔するシェリルの意識が、一気に空へ舞い上がる。懺悔した自分の心の声は遠く彼方へ飛ばされて、シェリルはまるで風に乗ったかのようにふわりと宙に浮く感覚に包まれた。喉の奥が熱いのか体が熱いのかそれすらもはっきりとせず、このままふわふわと飛んでいきそうな意識をシェリルはぎりぎりの所で引き止める。
「おい、ディラン! まさか、カルヴァール酒を原液で飲ませたんじゃないだろうな!」
グラス一杯飲んだだけで急にふらふらし始めたシェリルを見て、ぎょっと目を見開いたロヴァルが慌てたように大声を上げた。今にも倒れそうに足元のおぼつかないシェリルを支えながら椅子に座らせたディランは、隣で大声を上げたロヴァルを煩そうに見つめて平然と頷いて見せる。
「まさか一気飲みするとは思わなかったけどね。……でもこれで話が聞きやすくなる」
さらりと言ってディランは自分用に注いだ同じ琥珀色の液体、カルヴァール酒の原液を一口だけ口に含んでシェリルの横にすとんと腰を下ろした。
「相変わらず不味いね、これは」
「普通は薄めて飲むんだよ!」
隣で再び大声を上げるロヴァルに「そうだっけ?」とでも言いたそうに首を傾げたディランは、残りのカルヴァール酒をシェリルの手に持たせて囁くように小声で語り始めた。
「さてと。シェリル、僕の声が聞こえるかい?」
「……だぁれ? ディラン?」
「そう、僕だ。これからいくつか君に尋ねるけど、答えてくれるね?」
医者なだけにこういう催眠術的な事はお手の物である。その手際のよさに半ば呆れて二人を見つめるロヴァルの前で、相変わらず悪びれた様子もなくディランはシェリルに質問を続けていく。
「シェリル、君たちはどこから来た?」
「空の上、よ。ずっと、遠く……」
「空の上からねぇ。天使じゃあるまいし」
突拍子もないシェリルの答えに、ロヴァルが思わず横から割り込んで呟いた。その言葉に反応して、シェリルが勢いよく椅子から立ち上がる。
「違うわ! あんなのが天使だなんてっ!」
そう叫ぶなり、シェリルはディランから渡されていたカルヴァール酒の原液をごくごくっと二口で飲み干した。止める暇も与えずあっという間にグラスを空にしたシェリルの体が、ふらぁっと風に舞う薄布のように揺れ、そして真後ろへ大きく傾いた。
「……ったく、仮にも神官のこいつに酒なんか飲ませるなよ」
ぐらりと真後ろへ倒れようとしたシェリルを、どこから見ていたのか突然現れたカインが素早く抱き止め、そしてそのまま軽々と抱き上げる。
「部屋、借りるぞ」
当たり前のように言ってすたすた歩き出したカインの足取りは、とても大量の酒を飲んだとは思えないほど軽い。シェリルを両腕に抱き上げたまま船内へ消えていこうとしたカインは、その一歩手前でロヴァルとディランに振り返って、念を押すように忠告した。
「閉じ込めても無駄だからな」
勝ち誇ったように笑って船内へ消えていったカインの後姿を見つめていたロヴァルは、はあっと大きく溜息をついて無精に伸びた黒髪をぐしゃっとかきあげる。
「誰だよ、あれを拾ってきたのは」
「同感だね」
ふわふわと雲の上を漂っている感覚だった。
ふわりと優しく温かく、体を包んでくれる。とても安らかで穏やかな時間が、ゆっくりゆっくり流れていく。優しい香りに包まれ、強い力に身を委ね、シェリルは久しぶりに落ち着いて目を閉じる事が出来た。かすかに揺れ動く感じが揺りかごのように心地よく、ずっとこのままでいたいとさえ思ってしまう。
間近で声が聞こえた。
それはずっとずっとシェリルが求めていた声だったのかもしれない。
「……カイン」
閉じ込められていた部屋に再び戻ってきたカインが扉を閉めたのと同時に、腕の中でシェリルが小さく身じろぎした。
「ああ」
ただのうわ言だと思い適当に返事をしながらシェリルをベッドへ寝かせたカインは、右手首に僅かな力を感じて不思議そうにシェリルの顔を覗き込んだ。
「カイン。……行かないで」
「何だ、シェリル。淋しいのか?」
いつものように冗談っぽく返しながらシェリルの手を解こうとしたカインの耳に、とてもシェリルが発したとは思えない言葉が飛び込んできた。
「……淋しいわ。ここにいて」
カルヴァール酒は薄めて飲んでも二、三杯で男が倒れるほど強い酒だった。一緒に飲んでいた海賊たちも何人かが泥酔し目の前で倒れていった。その酒を、シェリルは原液で二杯も飲み干している。わけが分からないほど酔い潰れるのは目に見えていたが、実際そんな事を間近で言われると、さすがのカインも一瞬慌てて胸を高鳴らせてしまう。
改めて見るシェリルは酒に酔っているせいか頬も淡く色づき、かすかに開けた瞳も潤んでいてカインの心を激しく乱していく。
「……参ったな。酔った女は相手にしないんだが」
騒がしくなる胸の鼓動を落ち着かせようと大きく息を吸ったカインは暫く考えて、そして自分の手首を掴んでいたシェリルの手を上からぎゅっと握り返した。その力と熱を感じてカインを見上げたシェリルが、まるで安心するかのようにふわりと微笑みを向ける。
「お前が誘ったんだぞ?」
確認された言葉の意味が分かっているのか、シェリルは小さく頷いてカインの手に頬をすり寄せた。
「うん。……カインって――――お父さんみたい」
ベッドに腰かけてゆっくりとシェリルへ身を屈めていたカインは、その言葉で一気に体中から力が抜ける。カインへ体を寄せながらまるで子供のように笑うシェリルは、そんなカインの脱力感など知りもせずに酔った口調で更に話を続けていった。
「私ね、一人っ子だったの。お父さんとお母さんと三人で暮らしてた。リスティールっていう、小さな村よ。……すごく幸せだった」
気持ちは見事に空振りしたが、シェリルがぽつぽつと話し始めた事はずっと隠してきた過去であり、カイン自身興味がない訳でもなかった。シェリルが夢に怯える理由、女神に会いたいと願う理由が理解出来るかもしれない。
ふうっと大きく溜息をついて心を入れ替えたカインは、ベッドの端に座り直すと、握っていたシェリルの手を両手で優しく包み込んだ。
「自分が神の落し子だなんてそんな事知らなかったし、この額の刻印もただの傷だと思っていたわ。……あの夜までは……っ」
急に何かを思い出したように声を荒げて震え始めたシェリルは、握っていたカインの手にもっと強く力を込めた。闇に連れて行かれないように。見つからないように。
「シェリル、大丈夫だ。ここには俺とお前の二人しかいない」
静かに呟きながらシェリルの髪を優しく撫で下ろしたカインの手に導かれるように、シェリルがゆっくりと目を閉じて何度も何度も頷いた。
「闇は突然現れた。そして、お父さんとお母さんを……っ。私は必死に逃げて、それでも地を這うような声はどこまでも追ってきて……私を殺そうとした」
『お前はアルディナだ。その存在は我にとって憎むべき者以外の何者でもない』
「闇は私からすべてを奪っていくわ。エレナ様もクリスも、もうこれ以上大切な人を失いたくなかったから、私はひとりでいた。……でも、カイン。あなたは私を守ってくれると言った」
「ああ」
顔の向きを変えて上を見上げたシェリルが、翡翠色の瞳をカインに真っ直ぐ投げかける。
「私はその言葉を、信じていいの?」
「お前はどう思うんだ?」
反対に尋ねられ普段なら俯いてしまうシェリルだったが、今夜だけは目を逸らす事もせずにじっとカインを見つめ返した。その魅惑的な視線に思わずカインの方が目を逸らしそうになってしまう。
「……私は、信じたいわ」
真っ直ぐに言われて、カインの心が奥からふわりと温かくなる。酔っているからこそ聞く事の出来たシェリルの本心に、カインは口元を緩めてかすかに微笑むと、そのままシェリルの体をもっと近くに抱き寄せた。カルヴァール酒のせいで体にほとんど力の入らないシェリルは簡単にカインの腕の中におさまり、その胸元にことんと頭を傾けてくる。
「お前、どうせ明日になれば何も覚えてないんだろ」
返事の代わりに規則正しい寝息が届く。
「ったく、男の腕の中で気持ちよく寝る女がいるかよ。少しは俺の身にもなってくれるとありがたいんだが」
「……ん。カイ、ン。……どこにも、行かないで」
カインの体温が気持ちいいのか、目を閉じたまま頬を寄せた胸元にもっと顔をうずめたシェリルに、カインが肩を落として脱力する。
「明日の朝が大変だな。……この俺がここまでされて手を出さないんだ。これくらいはさせてもらうぜ」
そう言ってカインは腕の力を少し強めて、シェリルの額へ静かに静かに唇を落とした。
額に柔らかな唇の感触を感じてかすかに身じろぎしただけのシェリルを見つめながら、カインは明日の朝必ず訪れるであろう喧騒を思い浮かべながら、かすかに微笑みを浮かべていた。




