とある美少女なろう作家の憂鬱
夏の暑い日差しの中、井上志保は照り返すアスファルトの上を黙々と歩いていた。
汗が滲み、下着の紐が薄いブラウスからひっそりと透ける。
そんなことを気にする余裕もないまま、志保はぽつりと言葉を溢した。
「あっつ……」
学校から自宅までの徒歩十五分。クーラーなんてあるはずもない道を、志保は足元を見ながら歩き続ける。
(小説、どうなったかな)
考えているのは、趣味で書いた小説のことだ。
『小説家になろう』……国内最大級の会員登録数を誇る、小説投稿サイト。志保はそこに、自分の処女作となるファンタジー小説を投稿していた。
友人に言われた通りに毎日更新を七日だが続け、それでも変化のないポイントに志保は内心項垂れていた。
初心者とはいえ、頑張って書いた初作品だ。日間ランキング第1位! といかないのは分かっていたが、それでもぴくりとも動かないお気に入り数に、志保は悶々とした日々を送ってしまう。
(昨日でちょうど一週間か。……やっぱり、駄目なのかな)
友人にアドバイスされ蓄えていた書き溜めも、この一週間でほとんど使ってしまっていた。後は、書きかけの話も合わせて三日分しかない。
(最新話、書かないと。でも、読んでくれてる人もいないのに……)
悶々とした心は、つい後ろ向きな考えを運んできてしまう。
いっそのこと、新作を書いたほうがいいかも。そんな考えが出てくるだけ、志保の意欲はまだ衰えてはいなかったのかもしれない。
どうしよう。そう自問しているうちに、志保の身体は自宅の玄関前までやって来ていた。
自分でも軽く驚き、志保はポケットから合い鍵を取り出す。
「ただいまー」
誰も居ない家の中に声を向けながら、志保はローファーを脱ぎ散らした。ころんと裏が選った靴底に手を伸ばしそうになるが、うだるような室内の気温に、志保は手を引っ込めて腰を上げる。
そのまま台所に直行すると、冷蔵庫の中から作り置きの麦茶のボトルを引っ張り出した。
大きめのグラスに氷を入れて、八分目辺りまで注いでいく。
一度口を付けて、志保は再びグラスに麦茶を注いだ。
「しんど」
ここに居てもしょうがない。そう言うかのように、志保はグラスを片手に台所を後にする。
今日は家に携帯を忘れてしまった。女子高生としてあるまじき失態だ。これではSNSはおろか、なろうのホームを見ることすら出来ない。
誰に向けたわけでもない舌打ちをして、志保は二階へ続く階段へと脚を向ける。
麦茶を揺らさないように気をつけながら、志保はゆっくりと階段を上っていった。
「あつー。クーラー、やばいやばい」
鞄をベッドの上に放り投げ、志保はクーラーのリモコンに手を伸ばす。ちゃんと動いたのを見届けて、志保は充電器に差し込まれた携帯を拾い上げた。
「熱すぎんだろ。あー、壊れてないよね?」
仄かに熱を持ってしまっている携帯とノートパソコンを心配そうに触りながら、志保は機動スイッチに指を付ける。
動き出したパソコンにホッとしながら、志保は靴下に指を伸ばした。
椅子の下に放り投げながら、志保は携帯をチェックする。どうやら、学校の間に大事な連絡はなかったようだ。自分抜きで話が盛り上がっているチャット欄に、志保は苛つきながら携帯をベッドに向けて放り投げた。
「ああー。なんかもう、見るのが怖いわ」
髪をゴムで結びつつ、志保は祈るように画面を見やる。今日もポイントが付いてなかったらどうしようか。そんなことを思いながら、志保はお気に入りの一覧から小説家になろうを呼び出した。
「まぁ、入ってないんだろうけどさ。うん、しゃーないしゃーない。初めてだし。上手くいく方がおかしいって」
誰に聞かせるわけでもない心の保険を呟きながら、志保はマイページに到着した。
変化のない画面にひとつ息をこぼしながら、志保は一度呼吸を落ち着ける。
(大丈夫。よくある話。次書けばいいさ)
心の中で呟いて、志保はよしと覚悟を決めた。七日だ。自分にしては頑張った。投稿できただけでも、上出来だ。
「……えっ?」
しかし、志保の目の前に飛び込んできたのは、予想とは全く違うものだった。
62pt
一瞬、意味が分からずに志保はマジマジと画面を見つめる。そして、その画面の作品名を確かめた。
間違いなく、自分の作品だ。何が起こったか理解した瞬間、志保の身体がぞくりと震える。
「うそ、はいって。はいってる」
もう一度、よく見てみた。間違いなく入っている。62pt。誰だかは分からないが、確かに画面には志保の作品が見られた証が刻まれていた。
どくどくと、志保の鼓動が早くなる。見られた。その感覚が、志保の身体中を駆けめぐった。
「うわっ。うそ。ほんとに入ってる。私のに……」
何でこんなことに。分からないが、入っているのは事実だ。志保は落ち着けと自分に言い聞かせながら、日間ランキングへとカーソルを動かした。
三〇〇位から。一番下までスクロールして、少しずつ画面を上へと動かしていく。
「あっ」
思わず声が出た。志保は荒くなる息を必死に殺しながら、その見慣れたタイトルに喉を鳴らす。
二九三位。間違いなく、自分の作品。
「んっ、ああ。うそうそ。ほんとに、あたしの……」
身体が熱くなる。落ち着けと何度念じても、心臓の鼓動が収まってくれない。
ふぅーふぅーと、鼻で息を荒げながら、志保は椅子に体重を預けた。
「入った。入っちゃった。ど、どうしよ」
あれだけ望んでいたのに。いざ入ってしまうと、不安と興奮が同時に襲いかかってきた。どうすればいいんだと、志保はもぞもぞと身体を動かす。
ひとまず、もう一回ホームへ。志保は、息を整えながら左クリックを押した。
64pt
「は、入ってりゅうううっ!?」
飛び込んできた64ptの文字に、志保の身体が跳ねた。不意打ちの2ptに、志保は思わず声を上げてしまう。
「あっ、んぅっ。なんで、すごい。また入ってっ……」
呼吸が荒い。志保は震える指で、更新ボタンを優しくクリックした。
66pt
「ま、また入ってるぅうううううっ!! こんな、二人もっ。目の前でなんてぇっ」
じんわりと、志保の目頭に涙が滲む。嬉しいのかどうかすら分からなくなってきた頭で、志保はぼんやりと目の前の光景を見つめていく。
「う、うぅ。ひょ、評価。評価まで入ってるぅう。8ptもぉおおっ」
評価ポイント。勿論、貰うのは初めてだ。文章3pt、ストーリー5ptの計8pt。
「はいってっ。両方、両方入ってるぅっ。あっ、んぅうっ」
志保の渇いた喉が、空のままに唾を呑む。たまらず、志保はグラスに唇を持って行った。
唇が縁に辺り、そこに液体が軽く触れる。
「んっ、んぅ。……ぷぁっ。はむっ」
喉が乾く。こんなに飲みたいと思ったのは初めてかもしれない。興奮が駆け回る身体に振り回されながら、志保はこくりと喉を鳴らした。
「あっ、あっ。また入ってるぅ。日間しゅごいぃい。いっぱい入ってくるぅう」
いけないとは分かりつつも、ついやってしまう。求めるように指が動き、その度に志保の身体は熱を増していく。
更新ボタン。そこをクリックするのが、まるで快感のように感じられ、志保は欲望のままに指を動かした。
「うぅっ、あっ。なんでぇ。もっと欲しいのにぃ」
しかし、そう上手く行くわけではない。止まってしまった数字の動きに、志保は小さく口を開ける。
「欲しいのぉ。ポイント、もっと欲しいぃっ」
見られたい。もっとたくさんの人に見られたい。志保は、隠しておいたファイルを開いていく。
「い、いいよね? 一日二回しても、いいよね?」
どきどきする。夕方に見せるのは初めてだ。昨夜は十二時を回ってから見せたから、今日はこれで二回目になる。
「み、見て。お願い。みんな見て……」
実行する。これを押せば、みんなに見られてしまう。
「はっ、はっ。お、押すぞっ。押しちゃうもんねっ」
見直しはしていただろうか? 見られることを意識した瞬間に、志保の身体に言いようのない不安が忍び寄る。
これまでは、何処かで見られないだろうと思っていた。見られたいと思っていながらも、どうせ大丈夫だと思っていた。
けれど、今は違う。見られる。確実に見られる。
一度目を瞑り、志保はゆっくりと人差し指を下に下ろした。
「……お、押しちゃった。あっ、あっ。押しちゃったぁっ」
投稿しましたの文字。もう後戻りは出来ない。このまま進むしかない。
志保は、疲れてきた身体に驚きながらも、自分の作品を目に留める。
「見られたぁ。見られちゃったぁ」
恥ずかしい。しかし、何処か嬉しそうな表情で、志保は画面の向こうを虚ろな瞳で見つめ続けていた。
~ 一ヶ月後 ~
熱のこもった部屋の中に、志保の声が木霊する。
あれから一月が経過しても、志保の熱は止まることはなかった。
「あっ、あうっ。また、また入ってるぅっ。感想もぉっ」
今では、学校の授業中も、友達と会話しているときでさえ小説のことばかり考えている。
駄目だとは分かっていつつも、気が付けばキーボードを叩きたくて仕方がなくなっていた志保がそこにいた。
こっそりと授業中にしてしまったことも、一度や二度じゃない。最近は、小型化も随分と進んでいる。ネットで買ったものだが、志保は気に入っていた。ばれないように、どきどきとしながら指を動かすのだ。
ポメラDM100。志保お勧めの製品である。
「あっ、んふぅっ。いくっ、いっちゃうっ。累計いっちゃうっ」
今では、ちょっとしたネットの有名人だ。この間なんて、教室のクラスメイトが自分のPNを知っていて、危うく心臓が止まるところだった。
もしかしたら、デビューの話なんてのも来るかもしれない。
少しの不安と興奮を身体に込めつつ、志保は唇をぺろりと舐める。
「書かないと。みんな、みんな見て……」
今日も少女は、何もかもを晒けだす。自分のために、見てくれる人のために。
「よーし! 今日も執筆頑張るぞっ!」
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※ 画面の向こうには人がいます。中には、このような幼気な女の子もいるかもしれません。感想等は画面の向こうの人を想いながら、きちんとマナーを守って投稿しましょう。