人の心を捨てるべき時
勘違いしている人間はおそらく大陸にほとんどいないだろう当たり前のことだが、竜と龍は大きく違う。
階層、洞穴、露天、森林に海底、凍土に火山。あらゆる迷宮に竜はいるが、そのほとんどは半知性体でもない「大きなトカゲ」に過ぎない。たまに飛ぶ、うろこが硬い、尻尾にとげがあったり毒があったりする、トカゲ。
龍は違う。
大陸のそこかしこにすみ、時に崇められ、時に畏れられる彼らに対する、ヒト種の知りえることはひとつ。
触れるなかれ。
龍は滅びを呼ぶ。
そんな龍との接触においてもっとも重たい禁忌とされるもの、それが。
子供を、浚う事だ。
「……なぁ、イード。なんか、蓋、でもしたら、止まんないかね?」
「いささか現実的ではありませんね」
胸座をつかまれたままのイードは、あくまで冷静に僕を見上げる
「なんか、あるん、だろ、妙案が。冷やすとか、期待してるよ、なぁっ、作戦参謀ってばさッ……!」
「申し訳ありませんが、大陸最強生物の誕生のとめ方なんてこの世にないでしょう」
その言葉を裏付けるように、皹は、少しずつ、少しずつ、深さを増していく。
「ジョークじゃないんだよな、ねぇ。冗談だって、言えないホントなんだろ!」
「空虚な仮定にすがろうとしない、その姿勢は賞賛しますよ。ただ、八つ当たりはやめていただきたく」
八つ当たり。
そうだ、八つ当たりだ。わかってる。今やるべきことはこんなことじゃなくて、頭でわかってるなら、嘘じゃない、これが現実だとわかっているなら、今できることをすべきだ。少しでも、なにか可能性を探すべきだ。
生存の秘蹟を探さなくちゃならない。そんなことはわかってる。
でも。
何も頭が回らない。
「ドラゴン相手になにができるよ。おい、なぁ。おい、あいつら、あいつら、一族総出で飛んでくるぞ。ここに、トートに」
親を先頭に、剣のように陣形を組んで、何十、何千と、人知を超えた暴力が。
「一匹で町ごとなくなっちまう連中の軍勢が! 怒りくるってすっ飛んでくるってこんな時に!」
何万人を抱える大陸の要に。滅びが形になってやってくるこんなときに。
「なんでそんなしれっとしてんだよおまえはぁッ!」
「その心配はないからです」
「へ?」
「とっととお放しなさいこの下郎」
べちこーん! と景気のいい音を立てて、僕の視界は肌色に染まった。
「はっぷん!?」
イードお得意のゼロ距離張り手が僕の鼻っ面をしたたかに打ち抜いた、のだろう。後になって理解したことだけど。
ただこのときの僕のいっぱいいっぱいの頭で理解できるのは、もうキャパシティなんてとっくに超えた難易度マストダイな超絶ピンチのど真ん中で、なんだかわからないまま顔のど真ん中に激痛が走った、ってことだけで。
その直後に顎をしたたかにぶち当てたのが、僕らのかけるテーブルの、ちょうど卵のどまん前だったなんてこともわかるわけがなく。
ぶつけた衝撃がとどめになって、卵が砕けたことだって、気づかなかった。
店内に悲鳴と、意味を持たない絶叫が響く中で。
僕はその子と、出会ったわけだ。
ぬいぐるみみたいな、寸足らずの二頭身の体。
あるのかないのかわっかんない小さい小さい二本の角。
いつか風をつかんで大空を翔るなんて想像もできない、おもちゃみたいな翼。
卵の殻を頭に乗っけた、間抜けであどけない、そのいでたち。
この世の汚れなんて写したことのない、澄み切った水晶をはめたような、瞳には、確かに僕の、赤っ鼻になったいつもの顔が入り込んでいて。
「……か、わいい」
次の瞬間。
いっそメンコにでも見えるくらい濃密に書き込まれた魔方円が視界を埋め尽くし、天下のドラゴンブレスが僕の顔面を襲った。
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「始祖といいまして」
らいおん亭の隠しメニュー、伯爵夫人の秘蔵のブレンドハーブティーをすすりながら、イードは穏やかな顔つきで、淡々としゃべり始めた。
「ドラゴン、精霊、ギガントや、その他もろもろの聖獣だの化身だのと呼ばれる存在は時折『迷宮から産まれる』ことがあるそうです。そもそも僕ら自身が、かつての魔法使いたちの残した遺産や散逸物から『産まれた』存在の子孫であることの証左ともされている、専門筋では有名な話です」
「あー、そう」
「そういった存在はまともな手段で死ぬのか怪しいくらいの長寿であるので話として残っていますが、現在ほとんど実例の確認されていない現象であり、学術的、また歴史的に見ても、まれなケースといって言いでしょう」
「それはラッキー」
「本来構造変動の起きないはずの階層に突如出現した隠し部屋、あなたが異常を感じるほどの『何か』を持ちながら、トラップも発動せず偶然あいたとしか思えない扉。そしてそこに、ことのほか血族を大事にするドラゴンの卵が放置されている。ほぼ間違いなく、これは始祖の卵であると確信していました……。そもそも、繁殖によって増えるドラゴンは胎生で産まれてくるそうですし」
「お目が高いね。で」
頬杖をついたまま、僕はイードをにらみつける。
「それと、僕が愉快きわまるアフロヘアーになったことにいったい何の因果関係があるのかこの愚鈍な僕にわかりやすく教えてくれませんかねイードリアせんせぇッ!?」
「生まれたての子供です、ゲップのTPOをわきまえていないのくらい大目に見てあげたらどうですか」
「あんなに躾の必要性を感じるゲップもねぇわ!」
ホカホカと、まるで地脈テレビのコント番組のごとく黒焦げになったまま、僕は叫んだ。
「最高にホットな吐息で身も心もとろけそうだったよ! 天国行っちゃうくらいね!」
「龍に焼かれて死ねるだなんて、偉大な魔術師の終わりかたとしては上々ですね。おめでとう」
「締めを書くにはまだまだエピソードの足りない人生みたいで連載続行だよ! 心底ほっとしてるね。神様ってのは一発ひっぱたいてやりたい気分だけど!」
というか、というかだ。いや、よかったことだけど、すごく納得いかないことがある。
「なんで黒こげすすまみれにアフロ程度で済んでるんだよあの惨事が……。僕の中の眠れるブラザーソウルの力か? 理不尽どころの騒ぎじゃない。いま世界七不思議に新たなひとつが加わったよ……」
頭を抱えるも伝わってくるのは案外ソフトな手触りのみ。ちりちりしてるかと思ったがふっくらマイルドに仕上がっている。やさしさに包まれている感じが逆に腹立たしい。
「ああ、それなら」
かわらず、ずず、とハーブティーをすすり上げ、これまたこともなげに、イードは言う。
「魔法使い様のご意思、とやらでしょう」
「……都合よすぎだろ」
「『そそげぬ悲しみはうまれない』『世界は良い様に回る』『願えば叶う』魔法使いの残した魔法。世界の大前提。子供でも知ってますよ?」
「こんなにはっきりくっきり実感したのは初めてだよ。魔法使いパネェ……」
魔法使いの魔法。
遺産に、遺跡に、塔に迷宮に、世界にかけられた魔法。
世界を見守り続ける、最後の魔法使いの意思。
「うん、納得いかないけど感謝はかろうじて沸いてきた。今までの人生最高の加護にほんのり祈りをささげます。もっと早く助けてほしい場面はあったけど、それでもちょっぴりありがとう。神はやっぱくたばれ」
「まぁ、生まれたばかりの子が、それも自分の手で親を殺めてしまうなど、悲劇中の悲劇。あの仔龍に魔法の加護が働いたのは当然でしょう。善いことです」
「そうそう、いいこといいこと、いやー、不幸中の幸い」
「どんなときでも小さな幸せを探す努力を忘れてはいけませんからね。そう思うと、その髪型もなかなか似合っているかもしれません」
「ハハハ、ただでさえ難しいアフロを無料で、瞬時に、しかも最高の仕上がりで手に入れたんだからなぁ」
「ハハハハ」
「アハハ。でさ、気になったことがあるんだけど」
今、多分、僕は。
「親って、な、ぁ、にぃい!?」
人生で一番ガラの悪い顔をしている。
「龍は刷り込みする生き物らしいですよ。ハハハ、学生のみそらで独身パパとは、やんちゃですねミスターブラザー」
「おう、僕の拳骨ひとつ握ったことないこぶしが今ならヒトを殺せそうだよ。言ってみ? どっからどこまでお前のたくらみ? こととしだいによっては楽に始末つけてやるよチョッチュネェエエ!?」
「もう、二人ともそんなに騒いではおきてしまいますでしょう? 赤ん坊はデリケートですのよ?」
「アル、子供の前で、暴力はよくないよ」
「ソッチの二人はなに和やかに寝顔つんつんしてやがりますか!? それ災害生物でございますことよ!? アテクシ信じらんない!」
「かわ、いいねぇ。天使みたい」
「私もだんな様と、早くこんな宝物を授かりたいものですわ……」
とりあえず果物なんかを入れるためのバスケットにぼろ布を詰めた簡易ゆりかごに収められえたガキドラゴンは、実に安楽な寝顔ですやすやしている。僕の顔面をこんがりウェルダンにしかけた後、軽くむずがってしばらくピーピー泣いていたが、あることをすると、すっかり落ち着いて寝付いてしまった。
うん、抱っこしてね、ゆさゆさして、渾身の変顔をべろべろばーっとお見舞いしたらキューキュー言って寝ちゃったよ。
僕のときだけな!
「いや、もしも迷宮のど真ん中で孵化してしまっては満足な保護ができないところでした。その点ここなら融通も聞きますし、落ち着いて今後を考えることもできる。われながら名案でしたね。貴重な学術資料の確保はフィールドワークに邁進する学生の務めです」
「おう、付き合いが長いからわかってるぞ。もうひとつ狙いがあったろ?」
「あなたをばっちり刷り込むためにシチュエーションは整えなくては」
「魔法使いの意思が抹消すべきなのはお前だと思うよ」
世界のためにお願いします。僕にできることならそこそこします。
この過激思想エルフを、消せ、誰か。
「つーかね、いや、現実的な話をしましょう」
がたりと席を立ち、僕はバスケットへと歩み寄る。
鼻からなにやらぷぴぷぴ言わせてる厄介ごとに手を伸ばすと、がっしり尻尾をつかんで、持ち上げた。
「一介の学生の手には余るので、しかるべき研究機関に丸投げ推奨と思うのですがどうでしょう皆さん」
何回目だ。
僕は時を止める術式でも無意識に行使しているのかと、疑うほど。
静まり返る店内。
「ふざけんな! 人の心がねぇのかてめぇには!」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょ! クズ! ゲス!」
「ははは、ルーキーの悪い冗談か。ほんと笑えねえな。ちょっと迷宮前こいや」
「――もしもし、お袋? うん、俺。ジェイムス。いや、おれって、かぁ、があぢゃんに、あいざ、うっ、愛されでだんだなっで、ううっ……」
「三十分前の自己を省みてからバッシングしろやてめぇら!」
巻き起こるブーイング、飛び交う罵声。なぜだ。何か間違ったこといったか、僕。
そんななか、肩にやさしくかけられるイードの暖かい手。
「……なんだよ」
「いえ、ただひとつだけ」
「社会の闇ですわ。昨今問題のネグレクトですわ。親の自覚もないのに少子化問題に取り組むとはひどい話ですワー」
「よっしゃ。今日から僕は羅刹となる」
こんなに自然と沸くものなんだね。憎悪って!