俺と葉月が進む道【4】
「病気」
俺の言葉に対し、葉月はひと言返す。
「……え?」
それは生まれつきなのか、それとも何らかのショックが原因なのか。 もしも後者なら、恐らくそのショックを与えた人物は……葉月の両親、ということになりそうだ。
「冗談」
「……は? あ、あのなぁ!?」
やはり分かりづらすぎる。 普通に信じたぞ、今。 表情は変えないにしても、せめて声のトーンくらいは変えてくれよ……。
「裕哉はすぐに人を信じるから、からかうのは楽しい」
「こっちの身にもなれよアホッ!」
「いたっ。 またいじめる……」
またってなんだまたって。 それを言うなら葉山こそ、葉月をいじめている奴になるだろうが。 あいつのは本当にマジだからな……。 記憶に新しいのは、葉月を掃除ロッカーに閉じ込めたことだ。 なんだか上手く言い包められた葉月をそのまま閉じ込めたことだ。 あいつは本当に酷い。
「いじめるいじめる言うな。 で、教えてくれるか? 葉月」
こいつのマイペースに付き合っていたら埒が明かなくなってしまうので、俺は殆ど無理矢理、話題を元に戻した。 葉月もそんな俺の気持ちに気付いたのか、特に話題を逸らそうとはせず、返す。
「うん。 私が表情を出さなくなったのは、怖かったから」
葉月は空を見上げることも、顔を伏せることもせず、ただ真っ直ぐ前を見ながら言う。
「怖かった? それって、両親がってことか?」
両親が自分のことを嫌っていて、そんな両親に表情を見せるのが怖かった……ということか? それならば確かに納得できる。 そんな習慣が次第に染み付いて、表情を出せなくなったのだとしたら。
「違う」
しかし、葉月はそれを否定する。 けど、そうじゃないのだったとしたらどうして? それ以外で、葉月がそうなってしまった理由とは……一体なんだ?
「お風呂に入ってた」
「……風呂?」
「そう。 お風呂」
いやそれは分かるけど、それがどうしていきなり出て来たのかが分からない。 ついつい聞きたい衝動に駆られるが、葉月の場合ではとりあえず話を最後まで聞いた方が賢明だ。 思いも寄らぬ繋がり方をするかもしれないしな。 人の話はとりあえず最後まで聞くべきだ。
「最初は髪の毛。 そのときはそこまで長くなかったから、洗うのも手間じゃなかった。 大体十五分くらい」
「それでも長いな。 俺より全然長いぞ」
葉月も一応女子だから、気を遣っているのかな。 普段のイメージからして、なんだか風呂に入るのも面倒臭がりそうなイメージではあるが……。
「裕哉の雑草と一緒にしないで」
そんな俺の考えが見えたのか、ムッとしながら葉月は言う。 てかどんな悪口だよおい。 髪の毛を雑草と言われたのは初めてだぞ。 そして恐らく、今のが最初で最後の悪口だな。
「すいませんでしたすいませんでした。 で、次は?」
俺が笑いながら謝ると、葉月は満足してくれたのか、再びその風呂の話を再開した。
「それから、次は体。 私は下から洗うタイプ」
「……おう」
なんだか話がずれている気がしてならないが、我慢だ我慢。 とりあえずは最後まで。 それに少し、ほんの少しだけ興味のある情報だからな。
「まずは足。 足の指から丁寧に洗う。 目が細かいタオルで、ゆっくりと」
「……そうか」
「ふくらはぎ、太もも。 ゆっくりと泡立てながら」
健全な会話だ。 これは至って普通の、健全な会話だ。
「そして、そのままゆっくり上へ……」
「健全じゃないな!? ストップ葉月!! そこまでだっ!!」
……興味がなくはないけれど、俺が今したい話はそれじゃない。 というか、赤裸々に語りすぎだ。
「どうして?」
「いや……だって、そのまま話していたら色々とあれだろ……?」
途切れ途切れ、曖昧な言葉を使って必死に伝える。 しかし、葉月はそんな俺の顔を見てひと言。
「変態」
「葉月がそういう話をするからだろうが!?」
「私はただ、お風呂の話をしただけ。 勝手に妄想したのは裕哉。 私は無実。 潔白」
そうだけど! そうかもしれないけどなんか違くないか!? そう思わせるような話し方だったじゃないか!
「……あーもう悪かったよ! それで、その話がどう繋がるんだ?」
「うん。 それで、私はお風呂を出たの」
やっぱり関係ねえな!? 風呂での描写絶対いらなかっただろ……。 その風呂を出た直後から話してくれれば良かったのに。
「それで、鏡を見た」
「……鏡?」
また関係のない話じゃないだろうなと、疑いを込めながら聞く。 しかし、葉月の言ったそれは、核心的なもの。
「私は私の顔を見た。 それで見えたの。 私の気持ち」
……鏡を通して自分の顔を見て、見えたのか? 葉月が今まで他の奴らの顔を見て、その人の気持ちを知ったように……自分の気持ちを知った?
「とても、怖かった。 私は二人のことを憎んでいた。 顔を見たら、そんな顔をしていて」
恐らく、そのときまでは葉月も普通に笑ったり、悲しがったり、喜んだり、悔しがったり。 そういう普通の人たちがするような普通の表情をしていたんだ。 けど、葉月の言っているそれが切っ掛けで。
「それで、表情を作らなくなった?」
「そう。 顔に出さなければ、そんなことを思っていないと思える。 私を育ててくれた二人を憎まないで済むから」
こいつは、こいつは一体何を言っているんだ。 自分を散々嫌っていて、怖がっていた相手に対してだぞ? 普通なら、そのくらいの感情が芽生えていてもおかしな話じゃない。 なのに、葉月は。
「だから、私は表情を作らなくなった。 私は私が怖かったの」
そのくらい、思って普通だろうが。 俺なんて、親にちょっと小言を言われたくらいでイライラするっていうのに。 なのに葉月はそんな大きなことをなくそうとしているのか? 自分の気持ちを殺しているのか?
「……馬鹿か。 馬鹿かよ?」
思わずだった。 そんな行動をして、そんな切っ掛けで、そうなってしまったこいつは本当に馬鹿だと、そう思ってそう言っていた。
葉月は俺の言葉を聞きながら、前を向いている。 その先には川があって、こんな状況でも光が反射してキラキラと光っているそれは、まるで俺たちの心の中とは正反対だ。
「馬鹿でもいい。 私のお母さんとお父さんだから」
「葉月を放ったらかしにしているのにか……?」
こいつがひと言、今の状況を嫌だと言えば解決する。 そういうための施設だってあるだろうし。 大事なのは、葉月の気持ち。
「うん。 それは私がいけないこと。 だから仕方ない」
「仕方ないわけないだろ!? そんなの、絶対に間違ってる!」
葉月は言う。 前を見ながら、後ろ向きな気持ちで。
「それでも良い。 私には裕哉がいるから。 裕哉はいつも私の味方」
「……別の話だろ、それは」
俺の気持ちを受け取って、そう言ってくれるこいつの言葉は素直に嬉しいものだ。 けれど、俺のそれと葉月の両親のそれとでは、まるで違うじゃないか。 俺が葉月に向けている気持ちと、葉月が両親から貰うべき気持ち。 それらは絶対に違うもの。 葉月が両親から貰うべきものは、もっと当たり前で……ありふれているもので。
「私は平気。 お母さんとお父さんがそれで良いなら、私もそれで良い。 本当」
「だったら!」
俺は言いながら、葉月の体を抱き締めた。 小さくて、華奢で、弱々しい葉月の体を。 力を入れたら容易く折れてしまいそうな、小さな体を。 細くて、暖かくて、どこか冷たい、そんな体だった。
「だったら……! なんで、泣いてるんだよ……」
「……泣いてる?」
「そうだよ! 葉月、自分では分かってないのか? 言いながら、泣いてるじゃないか」
葉月は俺の言葉を確かめるように、自身の顔へと手を伸ばす。 そしてその頬に触れ、気付く。
「……どうして」
ずっと、そうだった。 今に限った話じゃない、葉月はずっとそうだったんだ。 顔にはいくら出さなくても、いくら心を抑え込んでも、それはいつか、耐えきれなくなってしまう。 思えば思うほどに辛くて、考えれば考えるほどに悲しい。 そんな葛藤を延々と続けて、それが今……溢れただけのことだ。
「もう良いんだよ、葉月。 我慢するな、抑えようとするな。 どんだけ悲しくても、俺が一緒に居るからさ」
「我慢は、してない。 本当」
声は震えて、涙は溢れ続ける。 それが嘘だなんてことは、葉山でなくとも分かる。
「それで良いのか、本当に。 それで幸せになれるのか? もしも葉月がそう言うなら、俺はもう何も言わない。 けど、少しでも今を変えたいって気持ちがあるなら、言ってくれ」
「……私は」
ゆっくりと手を動かし、葉月は俺の体へとそれを近づける。
「俺さ、葉月のことが好きだから。 趣味に一生懸命で、無愛想だけど一緒に居ると面白くて、時々酷いことを言うけど、本当は優しくて。 恥ずかしがり屋なのに、俺の方が恥ずかしくなることを平気で言ったりさ」
言葉にしないと、いけない気がした。 想いは伝わって、伝わり続けているはずだけど、言葉にしたかった。
「俺は、そんな葉月のことが大好きだから」
「……うん」
葉月は小さな手で、俺の服を掴む。
「俺は何があっても、葉月がどれだけ変わっていても、俺の気持ちは変わらないから」
「……うん」
葉月は瞳から、涙をぽろぽろと零す。 顔は……辛そうな顔をしていた。 笑った顔は見たことがある。 でも、こんな顔の葉月は初めて見た。 それだけ、それだけ葉月の心を締め付けているものだ。
「ゆう、や。 裕哉……!」
葉月は言って、俺の体を抱き締める。 葉月ではないけれど、気持ちは充分に伝わった。 だから、俺は言ってやる。
「葉月、恒例のあれだ、あれ。 俺たちの場合はいっつもそうだろ?」
数えるのが嫌になるほどのそれ。 一番最初は確か、俺がこいつのノートを勝手に見て、それがバレたときだったっけ。 恥ずかしがったこいつは「何も見なかった」とかいう、無茶苦茶なことを言ってきたんだ。 今となっては、懐かしい大切な思い出だ。
二人三脚の大会……結局はただのマラソン大会になってしまったけど、あれに出ることになったのも葉月が切っ掛けだった。 それがあったからこそ、葉山という奴と友達になれた。
それから、天羽と会ったんだっけ。 あいつはいきなり転校してきて、実は葉山と知り合いで、それがあったからこそ、天羽は俺たちと同じ部活に籍をおいてくれたんだ。
学園祭もあって、俺は珍しく葉月と別行動を取ったんだ。 相談に乗ってくれた天羽には感謝してもしきれない。 最後に急いで部室へ戻って、謝った俺に対して葉月はたったひと言、言っただけだったっけ。 いつも通り無表情で「面白いアニメを探すのを手伝って」って言ってきて。 二人で一緒に葉月のスマホでそれを探していて、気付いたら寝ていたんだ。
その後にあったのは、体験学習だった。 葉山のこともそうだし、天羽のことだってそうだ。 あれほど濃い一日は中々ないだろうな。 それで二人に沢山教えられた俺は、葉月を探しに飛び出して行って。 天羽に告白されて、振って。 それで、葉月に想いを伝えたんだ。
その全部が、葉月が居たからこそだった。 葉月が居なければ、俺は今頃何をしていたんだろう。 こうやって、走り抜けることもできなかったのかな。
「うん。 分かった」
そんな葉月は、顔を上げて言う。 いつもみたいに。
「裕哉、命令」
「おう。 なんだ?」
「なんとかしろ」
「本当に命令だな!?」
何度言えば、可愛く言ってくれるんだ。 毎回毎回怖いんだよな、こいつの命令。
「……助けて?」
けどまぁ、最後にはこうやって可愛く言ってくれるから別に良いか。
「了解。 任せろ」
これが、葉月が俺にする最後の命令だったなんて、このときの俺は知らなかったんだ。




