昔話【10】
「やー。 五日ぶりだね」
「ああ、そうだな」
十二月の二十八日。 時刻は夕方。 俺と葉月は花宮に会うべく、いつも俺と花宮が会っていたあの公園へと足を運んでいた。 公園へと入る俺たちを見ると、あのときと同じようにブランコに座っていた花宮は、俺を見るなりすぐに片手を挙げて挨拶。
「お。 今日も一緒なんだね、その子」
「まあな」
花宮は葉月の方に一度目をやった後、俺に向けてそう言う。 予想していたのか、それとも興味がないのか。 恐らく後者だろうな。
「ふふ、改めて見ても可愛い子だね。 歳はおいくつかな?」
「あなたと一緒」
……葉月の奴、ちょっとムッとしてるな。 年下に見られているのが頭に来たんだ。 無理もない話だと思ったのは黙っておこう。
「そうかいそうかい。 裕哉くんのことだから、小学生を彼女にしているのかと思っちゃったよ」
「俺はどんな奴なんだよ……」
そんなことをしていたら俺は確実に捕まっているだろ。 むしろ、花宮が俺のことをそんな奴だと思っていたというのが衝撃の事実だよ。
「自分が老けているからって、他人を年下にするのは良くない」
……完璧怒ってるな葉月さん。 別に怒るのは構わないけど、俺の足を踏むのはやめて欲しい。 地味に痛い。
「あは。 ごめんごめん、別に君のことを悪く言ったつもりはないって。 まーそうだね、それじゃあ本題に入ろう。 裕哉くんは今日、わたしに話があって来たんだよね」
花宮は立ち上がり、俺と葉月との距離を一歩詰め、言う。 花宮の出しているなんとも言えない雰囲気が気持ち、引き締まったように感じた。
「俺が話したいのは」
「二つ。 どうしてわたしが裕哉くんを騙したのか。 それと、今になって目の前に現れた理由は何か。 でしょ?」
指を二本立てて、俺の前へ突き出しながら、花宮はそうやって先回りをする。
「相変わらずだな、お前は」
あの頃から、何も変わっちゃいない。 人の思考を読んだように喋り、言おうとした言葉に被せて喋る。 俺が話していた当時から変わらずだ。
「それだけ裕哉くんが分かりやすいってだけだよ。 彼女さんもそう思うでしょ?」
「そうでもない」
「ふふ、嫌われちゃったかな、わたし」
花宮は正面から否定する葉月に対して、ただただ上品に笑う。 お前は本当に変わっていないよ、あの頃から何一つ。 けどな、俺は。
「花宮、それに加えてもう一つ聞きたいことがあるんだよ。 俺のことはまだ嫌いか? って、質問だ」
「ははは! 相変わらず面白いなぁ。 その質問には即答できるよ? わたしは裕哉くんのことが嫌いだ」
にっこりと笑って俺に笑顔を向けて、花宮は続ける。
「でもね、あのときよりももっと嫌いかな。 今は本当に顔も見たくないほどなんだよねぇ」
「そうかよ。 なら、さっきの質問を続けるぞ。 どうして今になって俺の前に来た?」
俺が尋ねると、花宮は人差し指を立て、馬鹿にするように言う。
「いやいやいや、それは勘違いってものだよ裕哉くん。 わたしは別に、裕哉くんに会いに来たんじゃないから」
「だったらどうして。 声をかけたのはあなたから」
俺がそれを言う前に、葉月は淡々とそれを聞く。 最初ならば葉月の無感情、無表情っぷりには少々壁を感じるものだと思うのだが、対する花宮はなんでもないようにそれに返す。
「そりゃー、かつての顔見知りを見たら声をかけるよ。 裕哉くんは小学生のときのお友達を見たら話しかけるだろう? そこの彼女さんも、昔の知り合いが居たら声をかけるだろう? あー、けど彼女さんの方はそうでもないのかな? なんかそんな匂いがするよ、わたしと似たような匂い」
「一緒にはして欲しくない」
どうやら、楽しく会話ってのはやっぱり無理か。 けれど、あくまでもこうなるだろうとはある程度予測が付いてた。 花宮の性格と葉月の性格、円満に話し合いなんて無理だったんだ。
「それがそうなんじゃないのか? その、見かけたからってやつがさ。 それをたまたまって言うなら、お前がこの場所に戻って来た理由はなんだ」
俺はてっきりそうだとばかり思っていたのだが、花宮の言い方からしてどうやら本当に違うらしい。 なら、昔酷い目にあったここに戻ってきた理由は……。 まさかとは思うが、思い出探しとは言わないよな。
「えぇ? それこそ物凄く簡単な話でしょ? 裕哉くんはわたしがどんな奴か知っているから、分かると思うんだけどなぁ。 それともあることを知らないだけかな?」
花宮は俺と葉月の横を通り過ぎ、ベンチへと腰をかける。 俺も葉月も立ったまま、花宮の次の言葉を待っていた。
「あのとき、わたしのことをぼっこぼこにしてきた人たちね。 全員が捕まってるわけじゃないんだよ。 うまいこと逃げたのが三人、名前も顔もわたしはしっかり覚えているんだ」
「……お前、まさか」
「ふふ。 わたしさぁ、結構恨まれてたみたいで、本当に殴られ蹴られだったんだ。 おかげさまで、肋骨が何本か折れちゃってさ。 痛かったなぁ。 入院にはなるしで最悪だよ、まったく」
正しいものが分からなくなってしまいそうだ。 花宮はただの被害者で、暴力を加えた奴が確実に悪いはずなのに。 それなのに、こうして花宮を目の前にしていると、こいつがとても怖く思えてしまう。 そんな酷い話をこいつは嬉しそうに話すのだから。 まるで、楽しい思い出のように。
「どうやら噂で聞いたところ、まだこの辺りに住んでいるって言う話があってね。 だからこうして、わざわざ遠いところからやってきたんだよ。 冬休みだしね、わたしも」
俺はなんて言えば良い? 止めろか? もう忘れろか? それとも、そんなことをして何になる? それを言ってどうする。 何もできなかった俺が、そんな上辺だけの言葉を言って良いのか?
「ま、それがわたしがここへ来た理由だね。 こうやって昔話をしようって裕哉くんにアプローチしたのも、こう言っちゃあれだけどついでだよ。 しっかりお別れしていないし」
「……ああ、それは分かったよ。 言いたいことはあるけど、なんて言えば良いのかが分からない。 俺がそれを言って良いのかどうか、分からなくて」
「んー。 まぁ大体分かるから良いよ。 それに例え裕哉くんがいくら言っても、わたしは止めようとは思わないしね。 それじゃー次の話に移ろうか」
花宮は再び人差し指を立て、続ける。 今の話はここまでだとでも言いたげに。
「わたしがどうして裕哉くんを騙したのか。 どうして何も言わずに居なくなったのか、だね」
「その前に、あなたはどうして人を好きになれないの」
その花宮の話を止めたのは葉月。 葉月も葉月で何を考えているのかが分からないときがあるが、それは花宮のそれとは全く違う。 今回の場合で言えば……単純に気になるんだろう。 その切っ掛けが。
「ん? いやいや、その質問は「どうして地球は回っているの」と同じレベルで簡単な話だよ。 それとも地球がどうして回っているのか知らないのかい?」
「……」
「ふふ。 分かってくれたみたいでなにより。 つまりは慣性だよ、地球と同じようにわたしは生まれたときからずっと、人を好きになれない。 嫌いであり続ける。 そう考えれば納得ができる答えだ。 まぁわたしの性格だと思ってくれれば良いよ」
いや、多分葉月の奴は「どうして地球は回っているのか」という質問の答えが分からなくて、黙っていたんだと思う。 てっきり花宮はそれを「答えに臆した」とでも解釈したと思うんだけど……。 後で聞かれそうだな、どうして地球は回っているのかを。
「かわいそう」
「へ? ん? は、はは。 今、かわいそうって言った? あはははは!」
花宮は葉月がふと漏らした言葉を拾い、笑いが堪えきれなくなったように笑う。 大声で、腹を抑えながら。
「裕哉くんも大分面白いけど、君も中々面白いね。 いやぁ、これはとんだおもしろカップルだね。 ふふ、かわいそうって言われたのは初めてだなぁ」
「私は思ったことを言っただけ。 人を好きになれないなんて、かわいそう」
真っ直ぐと、花宮の顔を見ながら葉月はそう言った。 一体、葉月には花宮がどんな奴に見えているのだろう。 人に悪意しか向けないこいつが、どのように映っているのだろうか。
「……ふーん」
花宮は立ち上がる。 葉月に向けるその顔からは、笑顔が少しも残っていない。
……まるで、あの日の雨の日、俺が一番最初に見た花宮の顔だ。
「けどそれってさ、君から見たわたしだろ? だったら言わせて貰うけどね、わたしから見たら君の方がよっぽどかわいそうだよ」
「君はどうやら、表情を作るのが苦手……ではなさそうだね。 苦手というよりかは、出さないようにしているのかな。 理由は知らないけど、それってかわいそうなことじゃない?」
まるで馬鹿にするように、敢えて花宮はそこで笑う。 葉月とは正反対の笑顔で。
「そうでもない。 私は私を見てくれている人が居るから、別に良い。 裕哉はそれでも一緒に居てくれる」
「そうか。 それは幸せなことだ。 だから君は弱いんだね、納得したよ。 そうやって裕哉くんの近くに居れば、安心できる。 自分を攻撃してくる存在から守ってくれるから。 そうやっていつも人の傍に居れば、自分が傷付くことはないから。 自分を見てくれる人と繋がっていれば、寂しくないから。 そうやって君は、自分の弱さを隠している」
「……それは」
葉月はそこで、言い淀む。 俺の服の裾を掴むその手は少しだけ、震えているようにも感じる。 やっぱり、相性は最悪だな……。 葉月にとっては悪意しか感じられない奴なんだ、こいつは。
「それがどうかしたか。 そんなの、葉月だけじゃない。 俺も一緒だよ」
言って、俺は葉月の手を握る。 小さくて、力を入れてしまったら折れてしまいそうなほどに細い手。
「はは。 まぁそうだね、君達は似たもの同士ってところかな。 ロールプレイングゲームで例えると、その辺の雑魚が群がってる感じってのが一番分かりやすい」
「そりゃ分かりやすい例えだな。 けど別に、俺はそれが悪いことだなんて思わねえよ」
「いいや、悪いね。 そうやって他人に寄り添って、自分では何もできない。 そういう人間もまた、わたしの嫌いな対象だ。 例えばそうだねぇ、寄ってたかって一人のことをいじめる奴らだとかね? あの人……えーっとなんだっけ? 田なんとかさん」
「……田野村か?」
「ああそうそう! 忘れてた忘れてた」
わざとではなく、恐らく花宮は本気で忘れていたんだ。 田野村に対する制裁は既に終わっていたから、不要な情報として頭の中から消し去ったんだ。 そういう奴だ、こいつは。
「田野村さんはさ、まったく考えていなかったんだろうね。 群がって自分が強くなったとでも勘違いしたのか、一人で生きてるわたしに喧嘩を売ってくるなんて」
……まぁ、それには同意せざるを得ないな。 いきなりラスボスに挑むようなもんだったよ。 田野村は見抜けなかったんだ、花宮鏡花の悪意を。
「人は一人のときが一番強い。 何もできないし何も成せない。 そういう話を良く言う人は居るけど、そういう人こそ一人で何もしたことがない人なんだよ。 周りに誰も居なくても、人って案外図太く生きていけるものさ。 一人だからこそ、生きていけるんだよ」
「俺はお前と全く逆の意見だよ。 弱いからこそ寄り添って、弱いからこそ一緒に居られるんだ」
だから俺は、今もこうして地に足つけて立っていられる。 葉月が居て、葉山が居て、天羽が居て。 俺の親友とも言えるあいつらが居たからこそ、今があって今になっているんだ。
「逆だね。 弱いからこそではないんだよ。 そうやって寄り集まっているから、いつまで経っても弱いまま。 大多数の人はそうやって、一生を弱いままで終えるんだ。 一人は辛いことを知っているから、一人は寂しいことを知っているから、いつまで経っても仲良しこよしで強くなんてなれないんだよ。 皆が皆、一人っきりになってしまうのを恐れている」
花宮の意見も、俺の意見も、間違ってはいない。 だからこそ相容れないし、歩み寄れない。 花宮は自分の意見を信じていて、俺もまたそうなのだから。 いつまでも平行線を進むしかない。
そう、思ったときだった。
「それがなに? 弱いままで居て、何が悪いの」
「……は? え? えーっと……?」
葉月の言葉に、花宮は目をパチパチとしながら困惑する。 まるで知らない言語で話されたかのような反応だ。
「っと、ごめんごめん。 何を言っているのか分からなかったけど……いやいやまさかとは思うんだけどね。 彼女さん、君はもしかして弱くても良いだなんて思ってるの?」
「だからそう言ってる。 私はそれで良いと思ってる」
「……ふむむ。 うーんと、聞き方が悪かったのかな。 君は強くなりたいとは思わないの?」
「うん。 皆が居てくれるなら、強くならなくて良い」
花宮はその言葉を受け、目を瞑る。 そして一度ゆっくり息を吸った後に、笑った。
「そうか。 君はわたしが一番嫌いなタイプだ」
今までで一度も見たことのない笑顔。 狂ったような笑顔。 それを見ていた葉月は俺の手を握る手に、力を込める。 葉月にとってはこの花宮の表情も、俺とは違うものに見えているはずだ。 それがどれほどのものなのか、俺には全く分からない。
「そう。 私もあなたのことは嫌い」
それでも葉月はハッキリと言う。 怖いはずなのに、目を背けてしまいたいはずなのに。
「はは! それじゃあ丁度良かったね。 その嫌いついでにいくつか教えて欲しいな、まずは、どうして強くなりたくないの?」
葉月の返答を待つことなく、花宮は問う。 対する葉月は依然として俺の手を掴んだままだが、それでも臆することなく口を開いた。
「必要がないから。 私は今で充分満足している」
「へえ。 それは停滞って言うんだよ、覚えておきな。 それじゃあ次の質問、弱いままで良いと思うのはどうして?」
停滞。 現状に満足し、それで良いと思っていることを言っている。 俺はかつて、似たような話を聞いたっけ。
「私には友達が居るから。 こんな私にも優しくしてくれる人たちが居る」
「ふふ。 それは甘えだね。 頼ってばかりで甘えているんだ、君は。 次の質問だ、次は……そうだね、あれだよあれ。 そのお友達に対して申し訳ないとか思わないの?」
何故か、そこで花宮の歯切れが悪くなった。 いや……何故かではないか。 きっと、それは。
「思わない。 裕哉がさっきも言ったように、寄り添い合って居るから。 支えあっているから。 私は少し頼りすぎているかもしれないけど。 それでも、申し訳ないとは思わない」
「……傲慢だね、それは傲慢だよ、彼女さん。 傲慢で怠惰で強欲だ。 大罪を三つも犯している君は最悪だね」
「かもしれない。 けど、私はそれと嫉妬もある」
「そうか。 それはなんというか、そうだね」
花宮は空を見上げていた。 冬の寒空はとても澄んでいて、雲がないおかげで真っ赤に染まっている。 そんな空を花宮は見上げて、やがて顔を俺たちの方へと再度向ける。
「……羨ましいな、君が。 そこまで人に頼って生きていられるってのは、羨ましい限りだよ」
花宮はやっぱり笑って、そう言ったのだった。
思えば、葉月に対して花宮が言ったことは、かつて花宮が俺に打ち明けてくれた自分に対して言っていたことだったのかもしれない。 花宮は自分のことを他人だと言い切り、自分のことすら嫌っていた。 人とうまくやっていけない自分のことを嫌っていた。 人を頼ることができない自分を。
「さて、話し合いはここまでかな。 わたしは結局わたしで、裕哉くんは結局裕哉くんだった。 彼女さんの方もね」
そして、花宮は振り返る。 俺たちに背中を向けて、歩き出す。
「おい、ちょっと待てよ! まだだろ? お前がやろうとしていることは正しいのかもしれない。 けど、そんなことを聞いて黙って行かせるほど、俺は器がでかくないんだよ」
花宮の背中にそう声をかけると、花宮は再び振り返った。 あまり見たことがない、優しそうな笑顔で。
「それなら良かったって思うべきだね。 残念ながら、君達と話していたら全部忘れちゃったよ。 あいつらの顔も名前も、忘れちゃった」
「……それって」
「それに、時効だよ時効。 あれから何年経ったと思っているのさ、わたしもさすがに犯罪者にはなりたくないからね。 というわけで、二人の勝ちさ。 ばいばい」
相変わらず、花宮の考えていることは全く分からない。 こいつが何をしたいのか、何をして欲しいのかも全く分からない。 けれど言いたいことは、なんとなく伝わった。 言葉にせずとも、気持ちってのは案外伝わるものなんだ。
それに暴行の時効が、二年とちょっとで迎えるわけがないだろうに。 馬鹿が。
「……花宮!」
既に大分小さくなった背中に、俺は声をかける。 大事なことを聞き忘れていた。
「しつこい男は嫌われるって。 その最後の質問を答えたらわたしは帰るからね?」
「ああ、それで良い。 教えてくれ、なんでお前はあの日、俺に嘘を吐いたんだ?」
ずっと、知りたかったこと。 あそこで花宮が諦めていなければ、俺が諦めていなければ、もっと違った形で俺と花宮は歩いていたんじゃないだろうか。 そんな想いから、それがどうしても知りたかった。
「……ふふ。 簡単だよ、わたしはあのとき、裕哉くんのことが嫌いだったから騙したんだ。 それ以上の理由がいるかな」
結局は、それだけのことだったのかもしれない。 花宮は俺のことが嫌いなだけで、特に深い理由なんてなかったんだ。 事実はたったそれだけだし、それだけで充分だった。
「それで、今は大嫌いだ。 でもさぁ、不思議だよね。 そう考えると……中学生のあのとき、わたしはもしかしたら裕哉くんに対して普通くらいの感情にはなっていたのかな」
「……そうなのか?」
「いやいや、それをわたしに聞かないでよ。 相変わらず馬鹿だなぁ、裕哉くんは。 ただの冗談だよ、冗談」
それが本当に冗談だったのか、そうでなかったのか。 それは花宮にしか分からない。 自分の気持ちは自分が一番理解していて、自分でなければ分からないものだ。
「それじゃあ本当にこれで最後だ。 ばいばい、裕哉くんに彼女さん。 もう二度と会わないことを願ってるよ」
こうして、二年越しの再会は幕を閉じた。
それから、俺と葉月は家へと帰る。 お互いに何も言わずに、多分思っていることは一緒。
煮え切れない感じと、本当に解決したのかという思い。 花宮との会話では殆どの場合がこうなってしまう。
しかし、一つだけ確実に思えることがあった。 それは、花宮が俺のことを最後まで「裕哉くん」と呼んでくれたこと。 それに対する俺の考え。
あいつは最後に、昔は普通だったかもしれないと言っていた。 そして、そのときと呼び方が変わっていないってことは、もしかすると。
……まぁ、これも全部俺の予想で妄想だ。 事実は全然違うかもしれないし、意外にも当たっているのかもしれない。 やっぱりそれも、花宮にしか分からなければ花宮にだけ分かっていれば良いことなんだ。
もしもあのとき、あの雨の日に俺が花宮のことを追いかけていたらどうなっていたんだろう? 今、こうして葉月と一緒に歩くことはなかったのだろうか? 葉山や天羽と出会うこともなければ、葉月と付き合うこともなかったかもしれない。 世界がいくつもあったとしたら、ひょっとしたら曲がりくねって花宮と付き合っているなんて面白い世界があるのかもしれない。
でも、俺が居るのはここで、この場所でしかない。 そんな「もしかしたら」の話なんて、いらない物。
だから、最後にこう言っておこう。 俺のことを必要としてくれて、頼ってくれる葉月に対して。 たまには俺が葉月を頼って、助けられて。 そんな関係の彼女に対して言うべき言葉は、きっとこれだ。
「葉月、ありがとうな」
葉月がそれになんて反応をしたのかなんて、聞かなくても分かるだろ? 一つだけ言っておくとしたら、意外にも葉月は素直に返事をしたってくらいだ。
弱い奴は群がる。 強い奴は一人で生きる。 俺たちと、花宮。
せめて俺は、そんな弱い奴の一人だったとしても……守れる物を持っていたいと、そう思った。




