昔話【8】
「止む様子ないなぁ……」
蒼汰と別れ、家路に就いた瞬間の大雨。 つくづく運がないと実感する今日この頃。 降り始めた雨は止むどころか、どんどん勢いを増しているようにも思える。
俺は手頃なところにあったコンビニの前へとりあえずは避難をし、雨宿り中。 普段ならば桜夜にでも頼んで傘を持って来て貰うんだけど、如何せん家とは少し離れた距離だ。 それに最悪なことに、今日は携帯を家に忘れたと言うお粗末っぷり。
「仕方ない……傘買うか」
そう独り言を呟き、コンビニの中へ入ろうとしたときだった。
視界の隅に、見慣れた姿が映る。 姿勢正しく、俺の視界を横切ったそいつは。
「あれって……花宮か?」
大雨の中、傘も差さずに歩く人影。 それをそいつはまるで気にしておらず、小走りでもなく至って普通に歩いている。
……あの馬鹿、一体何をしているんだ。 それに突然会えなくなったと思ったら、いきなり人の前に現れやがって。
ここで声をかけなかったら、俺はきっと後悔する。 そう思い、慌ててコンビニで傘を買い、俺は花宮の後ろ姿を追いかけた。
「おいっ!」
肩を掴み、俺は声をかける。 すると花宮はすぐに振り返った。
「お前、何してるんだよ? それにいきなりあの公園にも来なくなってさ……」
そこまで言って、俺は花宮の顔を見た。
……なん、だ? 何でこいつはこんな顔をしている? まるで無表情。 毎日見ていた笑顔なんてそこにはなくて、本当につまらなそうな無表情。 それは何もかも諦めているような、そんな顔。
「おおっ! これはこれは裕哉くん。 なんだか久し振りだねぇ」
そう言って、花宮は笑う。 今のは俺の気の所為だったのか……?
「久し振りだな逃げやがって。 とりあえずほら、傘」
言いながら、俺は二本買った内の一本を花宮へと手渡そうと差し出した。 花宮はそれを受け取らずにしばし見つめて、口を開く。
「うーん。 ここでの展開としては、二人で一つの傘に入るのが鉄板だと思うんだけど、違うかい?」
「馬鹿言ってんな。 良いから早く使えよ」
「ふふ。 裕哉くんと付き合う人は大変だ」
そんな意味の分からないことを花宮は言い、俺が渡そうとする傘を片手で押し返した。 拒否をするように。
「おい?」
「善意をありがとう。 けれど、生憎それは受け取れない。 わたしがこうして雨の中を歩いているのは、気持ちを理解するためなんだ」
一体なんの気持ちをだよ? そう言おうとして、やめる。 それはなんの気持ちかということが、俺には少し予想が付いてしまったから。 その気持ちってのは、多分。 こんな大雨の中、ずぶ濡れになって歩いているということは。
「裕哉くん、嘘はいけないなぁ。 あの日、補習の最終日。 裕哉くんがジャージだった理由を聞いたよ」
「……誰に?」
俺が聞くと、花宮はそれを片手で制する。 それは今から話すという感じではなく、てんで的外れだと言わんばかりに。
「それは重要な話じゃない。 それとも、適当に裕哉くんの友達の名前を出せば良いかな? それとも妹さんの名前を出せば良いかな? 実はわたしがその現場を見ていたと言えば良いかな? 或いは教師から聞いたことにすれば良いかな?」
そして俺を制していた手を降ろし、花宮は言う。
「ね、意味のないことだ。 分かるよね? 今話していることは「わたしがそれを誰から聞いたか」じゃないんだよ。 わたしが今話しているのは「裕哉くんがわたしに嘘を吐いた」って話なんだから」
最後に花宮は、皮肉たっぷりでこう締めくくる。 まるで、自虐するように花宮は笑ってこう言った。
「そうでしょ? いじめられっこの裕哉くん」
そうだ。 俺は花宮に嘘を吐いていた。 あの日……補習の最終日。 それが終わって帰ろうと校舎を出ていたのは、雨だった。 自然的な雨ではなくて、人為的なもの。 その誰かによってもたらされた悪意ある雨によって、俺はあの日制服ではなかったのだ。
「……けど、それでお前がどうして大雨の中歩いているんだよ? 同情でもしてくれてるのか?」
「あっはは! するわけないよ、そんなの。 わたしが知りたかったのは、裕哉くんの気持ちだ。 他人のために全身ずぶ濡れになるってのは、どんな気持ちなんだろうと思ってね」
「他人のため? 俺は別にそういうわけじゃ」
花宮はそこで言葉をかぶせる。 いつものことだ。 だから俺も、すぐにそこで口を閉じた。
「いいや他人のためさ。 自業自得と言えなくもないけど、裕哉くんはわたしという人のために、結果的にそうなったんだよ。 反論は?」
「……分かったよ。 ないない、お前と言い合いをしても勝てる気がしない。 それは認めとく」
「ふふ。 それが懸命だね。 でも、それ「は」というのがわたしは気になるかな」
俺が認められないこと。 それは。
「お前が他人のために……ってのが、納得できない。 結構酷いことを言うけどさ、お前が嫌いな誰かのためにそうするとはどうしても思えない」
特定の誰かではない。 こいつの場合は、その誰かというのが存在しないんだ。 こいつは……花宮は、全ての人間を嫌いなのだから。 だからこそ、その花宮が誰かのために何かをするというのが納得できない。
「あー。 なんだそんなことか。 わたしが言っている他人ってのは簡単だよ? 花宮鏡花のことだね」
「……は? いや、それはお前だろ?」
「うん。 ここでクエスチョンだ。 わたしは他人のために、こうして大雨の中を歩き、裕哉くんの気持ちを知ろうとしてる。 でも、その他人というのは花宮鏡花……つまりはわたしだ。 さて、これはどういうことでしょう?」
その問題に、俺は答えられない。 答えさせる間もなく、花宮が口を開いたからだ。
「アンサー。 正解はわたしがわたしを他人だと思っているから。 わたしはわたしのために、こうやっているんだ」
自分自身のことを他人だと言い切る花宮は笑顔で、とても楽しそうに見えた。 そんな花宮に俺は何も言うことができず、ただただ花宮が次に口を開くまで、にこにこと楽しそうに笑う花宮のことを見ているだけしかできなかった。
「んー、でもねぇ。 やっぱ分からなかったよ」
「……何が?」
「裕哉くんの気持ち。 こうやって他人のためにずぶ濡れになっても不快なだけで、どうして裕哉くんがそれでわたしに当たり散らさないのかが、全然分からないや」
言いながら、花宮は俺が持っている傘を取る。 そしてそれを開き、その中へと入った。
「もう充分だろうし、これはやっぱり借りることにする。 サンキュー、裕哉くん」
「そうしてくれると助かるよ。 けどさ……ああいや、なんでもない」
その最後の言葉、花宮が言った「サンキュー」という感謝の言葉。 それは果たして善意から来ていたものなのか、俺は聞くことができなかった。
「いやぁ、それにしても良く降るね。 夏は嫌いだなぁ」
「急に降り出すからな。 てか、花宮にはもう一つ聞きたいことがあるんだよ、俺」
俺の言葉に、花宮はうんうんと頷く。 どうやらやはり、こいつには俺が聞きたいことがなんなのか、分かっている様子か。
「どうして会わなくなったのか、だよね?」
「ああ。 俺は一応、あれから一週間くらいは毎日顔を出していたんだぞ。 なのに」
「それは、あれだよ。 あれ」
花宮には一つだけ、癖がある。 それは本当に些細なものでしかないけれど、ちょっと言いづらい言葉の場合は一瞬だけ言葉を濁す癖があるのだ。 それがなんだか、花宮は俺と同じように人間なんだなと思わせてくれて、少し嬉しかったりもする。
「……まぁいっか。 あのね、裕哉くん」
「わたしは、人が嫌いだ。 醜くて鬱陶しくて、傲慢で強欲で怠惰な人間が大っ嫌い」
そんなことを花宮は、笑って言う。 小さな子どもがプレゼントを貰ったときのように、嬉しそうに。
「知ってるよ。 俺も一応、お前とは短い間だったけど一緒に居たしな」
「だよね。 でも、その対象にはわたし自身も入るんだ」
花宮は俺の方に顔を向けて、人差し指を立てながら、それをくるくると回して続けた。
「現状を変えようとしないで、こうやって何もかも諦めて、差し出された手を握ろうともせずに、満足していると言い聞かせて、そうやって甘えている自分も大っ嫌いなんだ」
そんなのは、変えられるものではないのか? 変えようとして、変えられるものじゃないのか? 花宮の言葉を受けた俺はそう思い、口にする。
「だったら、諦めなければ良いじゃないか。 しっかり手を握れば、それだけで終わる話だろ?」
「ふふ。 それができないから、わたしはわたしなんだよ。 だから他人だ。 こんな醜い奴、わたしはわたしだと思いたくはないんだけどさ」
俺が渡した傘をくるくると回しながら、花宮はいつもの調子でこう言った。
「それで……裕哉くん。 裕哉くんの「どうして会わなくなったのか」っていう質問に対するわたしの答えは」
いつものどこかふざけた感じはそこにはない。 その顔にも笑顔はなく、そこで俺はようやく、本当の花宮鏡花を見たのかもしれない。
「これ以上、醜いわたしのために裕哉くんが傷付くのを見たくないんだ。 そんな風に自分を傷付けてまで助けようとしてくる裕哉くんは大っ嫌いだよ」
「……それが、俺と会わなくなった理由か?」
それはひょっとして、俺のことを思って……では、ないよな。 こいつの場合はきっと違う。 そんな俺の姿を見ているのがどうしようもないくらいに嫌なんだ。 俺が感じる気持ちとは正反対の気持ちで、それが嫌なんだ。
「うん。 裕哉くんがわたしを助けようとすればするほど、わたしは人が嫌いになっていく。 裕哉くんのことも嫌いになるし、花宮鏡花のことも嫌いになる。 だからもうやめよう」
「……俺に、諦めろって言うのか?」
「うん。 それが正しい行動で、それがわたしにとっても幸せなんだよ」
花宮は笑う。 そのときの顔は本当に綺麗で、目を奪われるものだった。 まるで悪意なんて感じられず、そこに居たのは俺と同年代の少女というだけで。
「本当か? それでお前は、助かるって言うのか?」
馬鹿な俺は、それを信じて。 花宮が救われるなら、そうするべきだと思って。
「うん。 勿論」
花宮が何をしようとしているのかも知らずに。
「……だから、今日はここでお別れだよ。 明日からは公園に顔を出すから、学校でわたしに関わるのをやめてね」
俺がこのとき、花宮との約束を大切にしていれば。
「それでお前は良いのか? それがお前の幸せか?」
俺がこのとき、花宮の考えに至っていれば。
「うん。 それがわたしの幸せだよ」
そうしていれば、約束をしっかり守っていれば。
「……分かったよ。 俺の負けだ。 お前の言う通りにする」
結果はもしかしたら、違ったものになっていたのかもしれない。
それからのことを話そう。
それから、俺は花宮と別れた。 また明日という言葉を交わして、花宮は笑顔で、俺はなんとも言い難い複雑な感情を覚えながら。
次の日、花宮は公園にやって来ることはなかった。 夏休みが終わるまで毎日そこに俺は顔を出していたけど、会えることはなかったんだ。
やがて学校が始まり、俺は事実を知る。
「えー、花宮のことだが、あいつは転校することになった。 突然のことになってしまって、みんなも挨拶が出来なかっただろう」
騙されたんだ。 俺は花宮に。 あいつは最後まで、俺に善意なんて向けていなかった。 そこにあったのはあいつが言うところの悪意だけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「それと」
教卓に立つ教師は言う。 数人の生徒が傷害事件を起こしてしまった話を。
知っている者も居るとは思うが、というありきたりな前置きをして。
教師はそれについて詳細は話さなかったけど、後になって他の生徒から聞いた話によると、集団暴行という罪になったらしい。
そしてそれ以降、俺に対する嫌がらせはなくなった。
ここまで話せば分かると思うが、被害者となったのは花宮だ。 そして加害者となったのは、俺と花宮に対して嫌がらせをしていた連中だ。
花宮はかなりの暴行を受けたらしく、救急車で運ばれて行ったという話もある。 何ヶ月も入院することになったという話もある。 けど、それはどれも噂話に過ぎない。
事実としてあるのは、集団暴行をした奴らが居たことと、それと同時期に花宮が転校していったことと、それを機に俺に対する嫌がらせもなくなったということ。 それだけでしかなく、それだけで俺は全てを理解した。
だから俺は、約束は二度と破らないと決めたんだ。 困っている奴を見たら絶対に助けようと思ったんだ。 もうこれ以上、悔しい思いも悲しい思いも辛い思いもしたくなかったから。
俺も花宮も馬鹿だったんだよ。 所詮、中学生のときの話。 俺が誰かに頼ることを覚えるのなんてずっと先の話なんだ。 それをあのとき理解していれば、もっと良い解決方法に辿り付けたんじゃないかと思う。
そんな、昔のくだらない話はここまでにしておこう。




