昔話【7】
「いやはや、昨日はまさか、裕哉くんがいきなり走り出すとは思いもしなかったよー」
「どの口が言う!?」
結局昨日は、慌てて家へと帰った俺を待っていたのはソファーでいつものようにだらけている桜夜の姿。 血相を変えて帰ってきた俺のことをあいつは指をさして笑いやがった。 大変辛い思いをした俺だったが、桜夜はとてもとても楽しそうに笑っていたな。
「ま。 事態はゆっくりだけど進んでいるってことだね。 気を付けるのに越したことはないよ」
「ご忠告どーも」
言いながら、俺はベンチへと腰をかける。 対する花宮は定位置であるブランコ。 いつも通りの立ち位置。
「そんなことより、裕哉くんはどうしてジャージなの? まさか体育でも補習だったり?」
「ん? あーいや、こっちのが動きやすいからだよ」
「ふうん、そっか」
今日で補習は終了している。 そんな良いことがあった今日だったが、それに加えて午前中で終わったんだ。 そういうわけで、俺は昼飯の前に花宮と会っている。 てか、こいつはいつ来てもここに居るな。
「ねえねえ裕哉くん、裕哉くんはさぁ、わたしとの約束はどこまで守る気?」
「約束……。 いじめをなくすっていうあれか?」
「うん。 それ」
珍しく無表情でいう花宮を不審に思いながらも、俺はその問いに答える。 そんなのは決まりきっていることなので。
「どこまでも、だな。 むしろお前が嫌だと言っても守ってやる」
「……」
花宮はそれに返事をしない。 ただ俺の顔をぼーっと眺めているだけだ。
「花宮?」
「……ん、ああいやなんでも。 そっかぁ、いつまでもかぁ」
「当然だろ?」
「うん、まーそうかもね」
この日、花宮は笑わなかった。 いつもだったら嫌味ったらしく笑ったり、上品に笑ったり、人を馬鹿にしたように笑ったり、嬉しそうに笑ったりしている花宮が笑わなかった。 俺はそんな花宮に対して「そんな日もあるだろう」くらいにしか考えていなくて、また明日になればこいつは笑うものだとばかり、そう思っていたんだ。
でも、そんな明日は来なかった。 俺はその日から花宮に会えなくなったのだ。 いつもは居るはずの公園に姿を見せなくなり、いつもは笑って待っている花宮はその日以降、俺と勉強会を開くこともなくなった。
「にぃに、最近元気ないねー」
八月に入って間もない頃、今日も一応はあの公園へと顔を出したのだが、花宮には会えずじまい。 そしてそのまま家へととんぼ返りをして、今はソファーで桜夜と並んで座っているところ。
テレビも付けず、何かを読むわけでもなくぼーっとだ。 桜夜も結構な物好きで、俺のこうした暇潰しに付き合ってくれることがままあるんだよな。
「そうか?」
「そうだよー」
腕を伸ばして、ソファーの背もたれに頭を預けながら俺の方を見て桜夜は言う。
……ふむ。 桜夜が言うのならそうなのかな。 俺は元気がないのか。
「……」
「にぃに好きだよー」
「ん、ああ」
「……大変だっ!! にぃにがおかしくなっちゃった!!」
酷いことを言う奴だな。 俺は別にいつも通りなのに。
「いやほんと、にぃに大丈夫? いつもなら今のはにぃにが思いっきり立ち上がって「お前何言ってんだよ!?」って慌てるパターンなのに!!」
「あー。 そうか」
そう言われれば、そういう日もあったかもしれない。 けど気分じゃないんだよ。
「やっぱおかしいよにぃに! お姉ちゃんに報告だっ!」
言って、勢い良く立ち上がる桜夜。 なんかかなり慌てている。 面白い妹だ。
「……いや、うちはお前と俺の兄妹だぞ」
「あ。 そう言えばそうだったね」
言って、今度はゆっくり桜夜はソファーに腰をかける。 うむ、やっぱりかなり慌てているな。
「よいしょ。 んでにぃに、にぃにの様子がおかしい話をしよう」
「いやだから、俺は別におかしくないって」
むしろおかしいのはお前だろうと、俺は声を大にして言いたい。
「それじゃ質問だよ。 にぃにの好きな人は?」
言われ、なんだか花宮みたいだなと思う。 そういや、花宮の奴も桜夜っぽいこと言ってたような気がする……。 こいつ、大きくなったらあいつみたいになったりしないだろうな。
「好きな人? それって恋愛的な意味でってことだろ?」
「もっちろん!」
俺の質問に元気良く答える桜夜。 なんか楽しそうだなこいつ。
「そんな人、今は居ないけど」
「はい!? やっぱおかしいよ!! そこでいつものにぃになら「お前だよ」って言ってるのに!」
「お前の方がよっぽどおかしいわ!! いつもの俺ってどんな奴なんだよ!?」
もしもいつもの俺がそんな奴なら、張り倒さねば。 いつもの俺頭悪すぎだろ。
「いやけど真面目な話さぁ、にぃにやっぱりおかしいよ?」
こうやって、唐突に話を逸らしてその逸れた話をいきなり軌道修正するんだよな……面倒臭い奴だ。
「そうか? 具体的にどんなところがおかしいんだよ?」
おかしいおかしいと連発されてはさすがに俺もイラっときて、若干強く聞く。 しかしそんな態度に臆することもなく、桜夜は言った。
「まず、今日は学校がないのに制服を着ているところでしょ? 次にその制服のズボンが反対なところでしょ? 次に朝起きてわたしに「ごちそうさま」って言ったでしょ?」
「ちょっと待て。 桜夜、ストップ」
「ほいほい。 なに?」
嘘……ではなさそうだ。 桜夜の顔を見る限り、こいつの言っていることは本当だろう。 つうことはつまり。
「俺やべぇな!?」
「今更!?」
二人してびっくりだ。 俺も桜夜も相当驚いている顔だ。 そうか俺はおかしいのか!
「まぁ、にぃにがそうやって天然ボケをするのは今に始まったことでもないけどさぁ。 なんかねぇ、今のにぃにって」
そこで桜夜は一旦言葉を区切り、俺が今日買ってきたプリンを一口頬張る。 なんでこいつ俺のプリン勝手に食ってるんだよ、今気付いたけど。 人の物を買ってに食べるな。
「切羽詰まってるって感じなんだよね。 いつもはもうちょっと余裕ある感じなのに」
その桜夜の言葉は、どうしてか。 どうしてか俺の心に酷く響いたのを覚えている。
「ふうん。 そんで、八乙女君と花宮さんはそれ以来会っていなかったってわけなんだ」
葉山はコタツに入り込み、紅茶を飲みながらそう呟いた。 折角俺が長い長い昔話をしているというのに、途中で区切らないで欲しいな。
「いやそういうわけじゃ……」
「泣けるね! 感動超大作の予感がするよっ!!」
コタツをバンッと叩き、立ち上がったのは天羽。 その目には薄っすら涙が浮かんでいる。 今の話のどこに感動要素があったのか、残念ながら俺には分からない。
「……」
そして、黙ってぼーっとしているのは葉月。 この突然の会議が開かれたのも、葉月の提案だったわけだが……こいつ、ここに来てからひと言も喋りやしない。 何かあったのかと少し心配だ。
「それにしても、八乙女君にそんな過去があったなんてね。 私はてっきり自堕落な生活を送っているものとばかり思ってた」
「失礼だなお前……」
さぞ気だるそうに、葉山は言う。 まあ自堕落と言われても否定はしないけど……俺だってそれなりには頑張って生きていたんだぞ。
「……あ。 もしかしてさ、八乙女くん。 八乙女くんが勉強しっかりするようになったのって、その鏡花ちゃんが切っ掛けだったの?」
「あー、それもあるよ。 あいつって、教え方は本当に上手かったから。 勉強に関して言えば、普通に学校の教師達よりは理解しやすかったな。 それに、普段はアレだけど勉強を教えてくれてるときは案外優しいんだ……いってえ!? なんだよ!?」
コタツに入れていた左足に激痛。 何やら硬い物が真上から落ちてきた感じだった。 んで、俺の左に座っている人物は葉月。 恐らくかかと落としだ。 痛さで分かるというのが、如何に俺が普段から暴力にさらされているのかがよく分かる。
「別に」
そう、葉月はそっぽを向いて言う。 どうやら、何か俺が怒るようなことを言ったのか。
「馬鹿でしょあんた。 彼女の前で他の女褒めるなっつうの」
「ばーかばーか」
片肘を付いて言う葉山。 笑って言う天羽。 居心地悪いなおい。
「……悪かったよ葉月。 葉月にも良いところいっぱいあるから」
「勝手に言ってろゴミ」
葉月は言い、横になって首の辺りまでコタツに入る。
いやまぁ、恥ずかしがっているというのは理解できるけど、そこまで言わなくても良いんじゃないですか。
「本当に悪かったって……」
「後で謝っときなさいよゴミ」
お前まで言うのか!? 葉月のは照れ隠しだと理解できるけど、葉山のは絶対にマジだろこいつ!!
「女の子は繊細なんだからね、ゴミ」
「天羽に言われるとダメージでかいな……」
悪ノリだ。 こいつら悪ノリ好きだなほんと。 まさか天羽までもが乗ってくるとは思わなかった。
「とまぁ、冗談はこの辺にしといて……。 それで、その花宮さんってのに会ったわけだ。 この前のデートのときに」
「ああ。 相変わらずだったよ、あいつ」
本当にあの頃から変わっていなかった。 俺に向けた笑顔も、葉月に向けた笑顔もきっと、悪意に満ちている。 そういう奴だったし、そういう風にするしかなかったんだと今は思う。
だからこそ、もしもあの時あいつのことを守れていれば、今はもっと違った顔をしていたんじゃないかって思ってしまう。 約束を守れていたらって、俺は今でも思っているんだ。
「八乙女君、私はね……人の性格なんて、そんな簡単には変わらないし、変えて良い物でもないって思ってるよ」
そんなことを考える俺の顔を見て、葉山は言う。 ふざけている様子も、俺をからかっている様子でもない。
「私だって、変わった変わったって良く言われるわよ。 それは八乙女君にだったり、天羽さんにだったり、神宮さんにだったり。 お婆ちゃんにもたまに言われるけど。 でも」
手に持っていたティーカップを置いて、葉山は天井を見上げた。 そしてそのまま、独り言のように続ける。
「変わってないんだよ。 私の性格なんて私が一番良く分かってる。 私は昔も今も葉山歌音で、そうでしかありえない。 それでも変わって言うなら、きっと変わったのは環境じゃないのかな」
葉山を取り巻く環境……ってことか。 確かにそう言われれば、そうかもしれない。 葉山を取り巻いている環境は、葉月が部活を作って葉山を入れたことで、変わったのだろうから。
環境が変われば、それに合わせて行くように……人の性格もそれに馴染んでいくのかもしれない。 けど、葉山が言うそれが真理なのだとしたら……それって。
「その花宮さんって子を取り巻いていたのは、悪意だったんだろうね。 それで、多分だけど」
「そんなのはきっと存在しなかった。 花宮さんを取り巻いてたのは八乙女君を取り巻いているのと一緒で、それ以上でもそれ以下でもなかった。 私の意見としては、こんなところかな」
「俺と同じだった? でも、それならどうしてあいつは」
俺の言葉に口を挟んだのは、天羽。
「鏡花ちゃんには世界が違って見えたんだよ。 見えなくて良い物が見えちゃったんじゃないかな、頭が良すぎて」
……そうか。 それが何かは分からないけど、花宮がどんな風に世界を見ていたのかは分からないけど。
もしかしたら、あいつが感じていたのは孤独感だったのかもしれない。 自分だけが別の世界に居るような、そんな錯覚を感じていたのかもしれない。
「見えなくて良い物……。 それに怯えていたのかな、あいつ」
そう言った瞬間、葉月が体を一瞬だけ反応させた気がした。 しかし何か声をかける前に、葉山が割って入る。
「そんで、話は終わりなわけ?」
「ん、あー。 いや、まだ続く。 つっても、もう少しだけど。 その次に会ったのは、夏休みが終わる一週間前だったんだ」
「はー? さっき終わりって言ってたじゃん」
「いや言ってないだろ……。 むしろお前が途中で口を挟んだんだろ。 俺は続けようとしてたのに」
俺が反論すると、葉山は「チッ」との舌打ちをして紅茶を再び飲む。 どうやら、話を始めろの合図だな。 なんとなく分かるようになってきてしまった自分が惨めすぎて泣けてくる。
とまぁ、そこで何か文句を言っても痛い目を見る未来しか思い浮かばないので、俺は渋々話を始める。 夏休みが終わる一週間前の話。
その日の夕方、俺は蒼汰と遊んだ帰りで、その途中で夕立が降り始めたときのことだ。




