昔話【5】
朝、教室に入った俺の目に映った光景は異様な物だった。 普段ならば、生徒が散らばって雑談をしていて、本を読んでいる生徒もいれば、集まってゲームをやっている奴も居たりする。 いや、それ自体は変わりないのだが……。
教室の真ん中辺り。 丁度、花宮の席。 そこが丸々空間になっていた。 そこにあるべきはずの椅子も机も、そこにはない。
当の花宮はその場に立ち尽くしており、恐らく花宮も今来たばかりかと思う。 そして、そんな花宮に声をかける奴は居ない。 それもそうだ、こんな明らかな嫌がらせを受けている奴に変に絡めば、今度は自分自身が被害を被るかもしれないのだから。
「……ふぅん」
皆が見て見ぬ振りをする教室の中心で、花宮はそう呟く。 誰にも聞こえていない、聞こえていないように装っている中、俺の耳にはしっかりと聞こえた。 だから、俺は花宮に向けて言う。 放っておくことなんて、出来やしない。
「花宮! 一緒に探すぞ! 俺は校舎の上から見るから、お前は下から!」
あの約束なんて、頭の中から消えていた。 そんなのよりももっと、大切な物はきっとある。 今ここで俺が花宮に声を掛けなかったら、誰が掛けるんだ。 もしもそんなことになってしまったら……花宮はもう、人を好きになることなんて一生できないんじゃないだろうか。 俺の頭の中にはもう、それしかなかった。
「……はぁ」
花宮は約束を破った俺の顔を見て、ため息。 しかしそれでも、頷いてくれたんだ。
それから校舎内を急いで探し回り、花宮の机と椅子を発見できたのは授業開始の10分前だった。 校舎の屋上、そこに投げ捨てられるように置かれていた机を起こして、俺は花宮を呼んで、それらを一緒に運ぶ。
「ほんと、馬鹿だよね裕哉くんは」
「……」
「ほんと、馬鹿だよね裕哉くんは」
「お前さっきからそれしか言わないな!?」
花宮は椅子を持ち、俺は机を持ちながら。 最初は楽をしようと椅子を持った俺だったが、花宮に「普通男子がもつでしょ。 重い方は」と言われてしまい、こうなっている。 まぁ花宮は教科書などは持って帰るタイプらしく、案外軽いけど。
「あ。 裕哉くんってもしかして、辛い真実からは逃げるタイプなのかな?」
「そんなつもりはなーい」
言い方にイラっときてそう返す。 だが、花宮はそんなのは意に介さずに続ける。
「へぇぇ。 ならこの前数学の点数が悪くて家出してたのは? ふふ」
「それは!」
むむむ。 そこを突かれると返す言葉がないな……参った。
「まぁーでも、違うよね。 裕哉くんのタイプは……そうだなぁ。 博愛タイプかな、やっぱり」
「いやそんなことないって」
「でも、嫌いな人なんて居ないでしょ?」
言われ、俺は考える。 真っ先に思い浮かんだのは妹。 あの厄介な妹だ。 けどまぁ……嫌いと言うほどでもないか? あいつはあいつで意外と相談やら悩みやらを聞いてくれるしな。 それに、第一あいつとは家族だ。
次に考えたのは、目の前に居る花宮。 こいつは確かに何を考えているか分からない部分があったりと不思議な奴ではあるが……嫌いとは違うだろう。
なら、田野村ならどうだ? 花宮に対するいじめを行っていた主犯格の田野村。 でも、でもな。 田野村にも田野村なりに良いところってのはあったと思う。 クラスで誰もやりたがらない雑用を文句を言いながらやったりしていたし……。
「ほら、居ないじゃん」
「いや今考えてるから……」
俺が答えを決めようとしてくる花宮に言うと、花宮は加えて言った。
「馬鹿だなぁ。 そうやって考えるってこと自体が変なお話なんだよ。 本当に嫌いな人が居るのなら、真っ先にそれが思い浮かぶ物だよ?」
「……へぇ。 それなら花宮はどうなんだよ?」
俺はてっきり、こいつも考え込む物だとばかり思っていた。 しかし、事実は違っていて。
「ん? 決まってるよ。 全員だ。 人間全員」
あっけらかんと、あっさりとこいつはそう言ってのけたのだ。 そして、更に。
「ちなみに裕哉くんも例外じゃない。 わたしはあなたのことも、嫌いだよ」
「……酷いこと言うんだな、随分」
冗談では……ないだろう。 それは目を見て分かった。 何を考えているのか、何を思っているのかは分からないけど、吸い込まれそうなその瞳を見たら、それだけは分かった。
「ふふ。 でもそれでも、裕哉くんはわたしを嫌いにならない。 片想いって切ないよねぇ」
「勝手に言ってろ。 それなら、俺は中学の間にお前にこう思わせてやる」
「ん?」
俺は一度机を置く。 花宮はそれを見て、同じように椅子を置いた。 今決めたぞ、そんな風に正面から「嫌い」宣言をされては、俺も俺で言いたいことがあるんだよ。
「好き……とまではいかなくても、お前が俺に対して「普通」になるくらいに思わせてやる」
「……あはは! どうやって?」
心底愉快そうに笑う花宮と、真剣な俺。 それが俺の想いと花宮の想いが正反対なのを表しているようにも感じた。
「そうだな。 お前が今受けている嫌がらせ、俺が全部どうにかしてやる。 それで、そんなことをしている奴にそれを止めさせる。 どうだ?」
「うん無理だね。 無理だよそれは」
「無理かどうかはやらなきゃ分からないだろ。 だから約束だ。 ハードル上げるぞ。 もしも守れなかったら、そのときは好きなだけ俺のことを嫌ってくれ」
「……オーケー。 そこまで言うなら乗ってあげる。 わたしもわたしで、裕哉くんのことはもう既に嫌いだよ。 けど」
そして、花宮は言った。
「少しだけ、少しの期間だけ、その言葉を信じてみよう」
それは、確かな一歩。 俺と花宮の大切な一歩だった。 人が嫌いな花宮と、人が好きな俺。 そんな正反対な俺たちが、並んで踏み出した一歩だ。
けど、この時の俺は気付いていなかった。 その一歩が前に進む物ではなく、後ろに進んでいることに。
「ただいまぁ」
とりあえずのところ、今日は特にその後は何も起きずに帰宅。 花宮との勉強会は雨天のため中止。
「にぃに大丈夫!?」
そして、帰宅した俺に掴みかかってきたのは桜夜。 そのままの勢いで、俺はドアに背中を打ち付ける。
「うおっ!? な、なんだっ!?」
こんなにもパワフルな出迎えの挨拶は始めてだ。 というか桜夜……少し涙目?
「何かあったのか!? 大丈夫か!?」
言いながら、俺は桜夜の頭を撫でる。 誰だ、桜夜を泣かした奴は。 もしもそれが母さんか父さんのどちらかだとしても仕方ない。 許すわけにはいかない。 あの人達と対峙するのは心底嫌だが……まぁしょうがないな。
「あのね……にぃにの噂、聞いて。 やばいんじゃないかって、噂を聞いてね」
「……俺の?」
そしてそれから、桜夜に色々と事情を聞いた。 俺が花宮を助けただとか、その所為でよからぬことになっているだとか、それがあったから、桜夜はこうして心配をしていたというわけだ。
「ごめん、迷惑かけた」
その話を桜夜から聞いて、まず俺が言ったのがそれ。 どうやら桜夜が涙目になっている原因は俺だったか。
「ううん、無事なら良いんだ。 けど、やっぱりにぃにはそうなっちゃうんだね」
「……どうだろ。 俺じゃなくても、例えばお前でも一緒のことをしていたと思うよ」
俺が言うと、桜夜はようやく心配そうな顔付きから笑顔になる。
「そりゃ勿論。 にぃにの妹ですから」
そういやそうだったな。 いつもついついそれを忘れてしまうんだ。 なんていうか、妹というよりかは親友って感じだからなあ、こいつ。
「あ、でもにぃによりかは上手くやる自信あるよ?」
そして、ひと言余計な奴である。
「結局さ、助けを必要としていない奴に手を差し伸ばすのは意味のないことなのかな」
ソファーに寝転がりながら雑誌を読んでいる桜夜に、ふと思って聞いてみた。 少なくとも、花宮はそれを必要としていなかったはずだ。 それならば、俺がしている……しようとしていることって、ただのお節介でしかないのかもしれない。
「そんなの、今決めることじゃないよ」
雑誌を読みながら、さぞ面倒臭そうに桜夜は返す。 適当に言ってるんじゃないだろうな。
「助けられたぁ。 とか、救われたぁ。 とかさ、そりゃその瞬間に分かるかもしれないよ。 でも、そうじゃないときだってあるでしょ」
「そうじゃないとき?」
桜夜は雑誌をテーブルの上に置いて、俺の方へとそこで顔を向ける。 依然として、ソファーの上に寝そべりながらではあるが。
「何年も後になって、あのときは助けられたよありがとう。 っていうのもあるわけじゃん? わたしがにぃにに助けられたように」
「お前……それまだ言ってるのかよ」
桜夜が言っている「俺に助けられたこと」というのは、簡単に言ってしまえば桜夜の悪口を言っていた奴と喧嘩をしたことだ。 あのときは小学生だったし、喧嘩の方法といえば殴り合いしか知らなかった時期のこと。 懐かしいな。
「だって、年上の人達に「このやろー!」って行くにぃに格好良かったし!」
「……お前、言っておくけどあのときお前な、ぼこぼこにされた俺に対して「弱っちいにぃには嫌い」って言ったからな。 忘れたとは言わせないぞ」
実に酷い妹である。 まぁ小学生の喧嘩だから、怪我もなく大きな問題にもならなかったことだ。 ただ、その上級生たちは桜夜に謝ってくれたけども。 結果的にいえば、俺がぼこぼこにされたというだけの話。
そして、そんな俺を見てこいつはさっきの発言をしたんだ。 酷い妹だろ? マジであれほど後悔したことは数えるほどしかない。
「えぇ~? そんなこと言ったっけ?」
「おう間違いなく言った。 ついでに言うと「にぃに弱すぎっ!」って一週間くらい会う度に言ってきてた」
「そんなこと……あったかもねぇ」
遠い目をする妹である。 こいつもしや、本気で忘れていたんじゃあるまいな。
「ほら! だから、こうして今になって感謝しているんだよ? あのときはにぃにがどれだけわたしを愛しているか分からなかったから……」
「別に愛してねえよ。 気持ち悪いなお前」
「ひどっ! にぃにはすぐそういうことを言うんだから。 でも、真面目な話だけど」
桜夜はソファーの上でごろごろと転がりながら言う。 真面目な話をする奴の態度じゃないのが気になるが、聞いておこう。 こいつって結構思慮深いところも一応あるから。
「助けたとか、助けられたとか。 そういうのって結局、傷の舐め合いみたいなものだよね。 助けた方は優越感に浸ることができて、助けられた方は表面上は感謝する。 そういう、傷の舐め合い」
「……かもしれないな」
傷の舐め合いで、自己満足。 まさしく桜夜が言う通りなのかもしれない。 結局は俺も、そういう中のひとりなんじゃないかって。
「あ、けどわたしは助けられて超ハッピーだからね。 そこで相談なんだけど、実は最近駅前に美味しいと噂のお菓子屋さんができて……」
「その手が二度も通用して堪るか。 お前、この前はよくもハメやがって……」
褒められて乗せられて、見事に言いなりになっていたのを思い返す。 そう考えたらなんかムカついて来た。
「もう、相談料としてそのくらいは請求して良いと思うんだけどなぁ」
そんな桜夜の言葉を最後に、その日の相談は終了。 全部が上手く行ったら、そのときはプリンの一つや二つ、買って来ても良いけどな。 あいにく、とても今の状況では上手いこと話が進むとは思えないんだ。
そして、そんな不安は見事に的中する。
その日を境に、花宮に対する嫌がらせはエスカレートしていったのだった。 無論、それは花宮の味方として認識された俺に対しても。




