私が想う日々【2】
『私、私はあなたのことが好き』
真っ白な病衣を身に纏い、病室のベッドの上に横たわっている少女は言う。 その横で涙を堪えているのは主人公。 窓の外には枯れてしまった桜の木。
『……後、もう半年もあなたとは居られない。 だから、この告白は叶わない告白。 あなたが受けてくれたとしても、後半年で終わってしまう恋』
良い場面。 私は息を呑みながら、画面を凝視。 凝視。 凝視。 見る予定だった再放送のアニメが終わり、こうしてお気に入りのアニメを一話ずつ見る。 それが日常の過ごし方。 そして今は、お気に入りのアニメのクライマックスシーン。
『どうして、だろうね。 神様はどうして、こんなに意地悪なんだろう』
ヒロインがそう言い、主人公が口を開こうとしたその時。
ピンポーンという、間抜けな音が鳴り響く。 誰だ、私の楽しみを邪魔する愚か者は。 まさか宅配業者だろうか。 でも、最近は通販も使ってない。 回覧板ならドアの前に置いといて欲しい。 むしろ、そのまま次の部屋に回しておいて欲しい。 とにかく私の邪魔をしないで欲しい。
まぁ、何かのセールスかもしれない。 むしろそうだ。 決めつけよう。
そして私は再び画面に視線を戻す。
ピンポーン。 また鳴る。 うるさい。
それでも無視を決め込んでいたところ、次に聞こえてきたのは声。
「すいませーん! 神宮さーん!」
ドンドンドンという、ドアを叩く音。 借金取りに追われているみたいでちょっとだけハラハラする。 でも、うるさい。
「隣の八乙女ですけどー!」
知らない。 私が知っているのは、この502号室の神宮だけ。 隣の人なんて興味が無いから名前すら覚えていない。
「チッ」
舌打ちをして、見ていたアニメを一時停止。 本当なら、そんなことはしたくない。 途中で休みはするが、それはひとつの話が終わった場合のみ。 一話一話は必ず、最後までノンストップで見る。 それが一番アニメを楽しむ、私なりの方法。 けれど、今の状態ではそれも叶わない。
名残惜しく画面を見つめ、のそのそと立ち上がる。 どうやら、中に居るのがバレてしまっている様子なので、出るまでしつこく呼んでくるかもしれない。 そしてそれを続けられたら、近所迷惑で私にしわ寄せが来る可能性も無くは無い。 面倒事は面倒だから面倒になる。
玄関に行くと、未だに時折ドアは叩かれていた。 私はそれを見て、鍵だけが掛かったドアにチェーンを掛ける。 用心するに越したことはない。 何よりアニメ視聴を妨害されてイライラしているから、せめてもの仕返し。
そして、私はドアをゆっくりと開ける。
「……あの」
こんな偶然というか、驚くことが起きたのは久し振りだ。 そこに立っていたのは紛れも無く、私が教室でぶつかったその人だったから。
「体調悪いところごめん。 これ、忘れ物って宮沢先生が」
あ。 課題。 そう言えばそんなのもあった。 でも、今は気分じゃない。 よって却下。
「……いらない」
「おい」
素早い反応だ。 もしかしたらその筋のセンスがあるかもしれない。
だけど、事実は事実。 いらない物はいらない。 よって却下。
「……さようなら」
私が言い、ドアを閉めようとしたところで、八乙女と名乗ったその男はドアを思い切り掴む。 押し売りセールスマンみたいな人。
「待て待て待て! 閉じるな! それだけじゃなくて、ノートもあるから!」
その言葉に、私は今も尚ドアを閉めようとしている腕の力を抜く。 ノートという単語に、そうさせられた。
「学校でさ、教室のドアのところでぶつかっただろ? その時、落としたっぽくて持ってきてやった」
反射的に私が聞き返していたのか、八乙女と名乗った男は言う。 ということは。
……マズイ。 そのノートは、マズイ。 さすがに女子のノートを勝手に覗き見するという愚かなことはしていないと思うが、ひらひらとこの男はノートをちらつかせている。 まるで餌みたいに。
よし、ノートを奪還しよう。
その後のことはあまり覚えていない。 気付いたら、八乙女……じゃなく、裕哉は私の家に上がり込んでいた。
名前は私がノートを奪おうとした時に、裕哉の鞄が開いていて、その隙間からノートが見え、そこに書いてあったのが見えた。 どうやら、学校からここに来るまでの間開きっぱなしだったみたい。 なんて抜けた人なのだろう。
そして、今は裕哉をリビングで待たせ、私は部屋に一人きり。
ちなみに、裕哉は愚かなことをする人だった。
「どうしよう」
呟く。 裕哉は絵を描くと言っていたから、もしかしたら趣味が合うかもしれない。 そんな期待を持って、勢いに任せるままにこうなってしまったが。
……どうしよう。 そもそも他人をこの家に上げることすら、初めてだ。 いざこの部屋に招こうとした時になって自分が何をしているのかに気付き、寸前で思い留まったけれど。
このまま放っておいて寝ようか。 いやでも、さすがにマズイかな。
そんなこと思いながら、私はベッドの上でゴロゴロと転がる。 万に一つも無さそうな可能性……私の勘違いという可能性も、あるにはある。 だから一応、この部屋に飾ってあるポスターやフィギアは片付けたい。 でも普通に時間が足りない。 後日とかにすれば良かった。 後悔。
「しかも男とか。 何してる私」
今更。 本当に今更。 布団を口までかぶり、天井を見つめる。
でも。 だけど。
あの人……裕哉。 裕哉は、同じだった。
教室でぶつかった時。 あの時、私は無視という結構酷い対応をした。 なのに、今でも一緒だ。 裕哉は私に対して、何も思っていない。 悪いことを思っていない。
どうしてだろう?
その理由が気になったんだと思う。 今までに会ったことが無いタイプの人に、興味を抱いていたのかもしれない。 けれど、一番の理由は……友達が、欲しかったのかな。
だから、一歩だけ踏み出してみようと思った。 壁を一度だけ取り除いて、外に行こうと。 もしもそれで駄目だったら、またこの部屋に来ればいい。 この部屋だけが、私が安心して居られる場所なのだ。
そして、私は裕哉を部屋へと入れる。 フィギアやポスターが並ぶ私の部屋へ。
最初のひと言で、終わるんじゃないかと思った。 一歩だけの冒険は幕を閉じるのでは無いかと。
しかし違う。 裕哉はこう言った。
「……うお、凄いなこれ」
「凄い?」
耳を疑った。 初めに出てきた感想が、それだったんだから。 裕哉にそういう趣味があるのは事実だろうけれど、それでも女子である私の部屋がこんなことになっていたら、最初に言うべき言葉はもっと違う物だと思っていた。
この時ほど、嬉しいことはこの先無い。 その時の私はそう思っていた。 具体的に言うと、この先にもっと嬉しいことがあったのだが、それは順を追って話す。
とにかく、とにかく私は嬉しかった。 親にも何度否定されたか分からない、私の趣味。 長い長い出張……ええい、面倒だ。 頭の中でくらい、正直に話そう。 出張では無く、旅行。 その旅行から帰ってくる度に、否定された趣味。 避けられていた趣味。
それを初めて認められた気がして、嬉しかった。
「ノーコメント」
そんな嬉しさが顔に出そうになるが、抑える。 私は表情を作らない。 それをしたらまた、あれが見えてしまうかもしれない。
「ノーコメントかよ!? ってか、それは良いとして、なんで俺に?」
素早いツッコミ。 優しそうな見た目の割に、意外と他者との壁を感じない人なのか。 長いこと両親以外とまともに話していない私にとって、それはありがたいこと。
……ありがたいことだけど、何か今妙なことを言われた気がする。
「え? だって、裕哉がそういうの好きって言うから」
その妙なことに対して、私は問う。 聞き間違えだろうが、念の為に。
そして、私と裕哉は数回言葉を交わす。 結果、判明。
私はどうやら、とんでもない勘違いをしていたようだ。 同じ趣味の人を見つけたという感情の昂ぶりで、全く周りが見えていなかったようだ。
よし。
蹴って記憶を消そう。
しかしそんな決意も、上手く躱されてしまう。 結果的に私は裕哉とアニメを見ることになるのだった。
それから、私と裕哉は様々なことで一緒に居ることが増えた。 裕哉は勉強を見てくれて、私の趣味にも付き合ってくれた。 私が話す内容をしっかりと聞いて、返事をしてくれた。
いくら私の対応が酷い物でも、裕哉はいつも何も思わない。 悪い意味では無い、良い意味で。
たったそれだけのことが、幸せだった。 普通の人が普通に暮らしていれば普通に手に入れられるような、そんな物がとても幸せだった。
「裕哉、命令」
「……あのなぁ、人に物を頼む時はもう少し言い方ってのがあるだろ。 で、何だよ?」
文句は言う。 けれど、いつも私を助けてくれる。 この人はそんな人。
この人と居る時は、不思議と世界が変わって見える。 薄暗くて真っ黒な感情にまみれた世界が、綺麗な物に見えてくる。 輝いて、見える。
「じゃ、また明日な」
その日の別れの言葉は、決めていた。 明日に繋がる言葉に。 それは私が言ったわけでも無ければ、裕哉が言ったわけでも無い。 自然と、そう決まっていた。
「うん。 また明日」
私が開けてしまった秘密の通路……もとい、壁の穴。 そこから裕哉は自室へ帰り、私は板で蓋をする。 この板は防音性が良い。 快適。
そのまま私はベッドの上へと移動して、布団をかぶる。
今は、夏。 今度は皆で旅行に行くことになっている。 私と、裕哉と、葉山と、天羽。
葉山とは色々あって、私も色々想った。 けれど、悪い人では無い。 私が裕哉と友達になれたように、葉山とも良い関係が築けると思う。
……問題は、天羽。
あの人は、何かを隠している。 とても大切な何かを隠している。 そんな笑顔を毎日している。
それが何かは分からない。 でも、大丈夫。 皆が居ればきっと大丈夫だろう。
「……おやすみ」
壁の向こうに向け、私は言う。 返事は勿論無い。
それがどうしようも無く、一人だということを自覚させる。
私が気付いたことだ。
前まで、とても居心地の良かった私の部屋。 好きなことを好きなだけ出来る、私が大好きだった場所。
そこが今では、どうしようも無く怖い。 夏だというのに、部屋の中はとても寒い。 冷たく、薄暗い私の部屋。
唯一の居場所だったこの部屋がそうなっていくのが、私は怖かった。
もしも、この部屋が私の居場所で無くなってしまったら。
私の居場所は一体、どこにあるのだろう。
「裕哉」
名前を呼んでも、返事は無い。
当然だ。 聞こえていないのだから、返事があるわけも無い。 もう今日は寝よう。 これ以上起きていたら、嫌なことばかり考えてしまいそうだ。
……裕哉の家は、暖かったっけ。 まるで暖房が常時付けられているかのように、暖かかったんだ。 それを疑問に思って、聞いたこともあったっけ。
その時裕哉は何を言っているのか分かっていない顔だった。 私も、同じだったと思う。 暖房が付いていないのなら、どうしてこんなにも暖かいのだと疑問に思ったんだ。
でも、今なら分かる。 あの暖かさは、私がもう何年も感じていない物なんだ。 それがなんなのかというのも忘れてしまった物だ。
それが最近になって、少しずつだけど思い出してきた。 裕哉や葉山、新しく部活に入った天羽の近くに居ると、段々とそれを思い出す。 人は皆、暖かい手をしているんだ。
もうひとつ。
私が、皆に言えないこと。
皆と居る時間が増えれば増える程。 皆と遊ぶ時間が長ければ長い程。 皆と仲が良くなれば良くなる程。
同時に、一人のこの時間が辛い。
世界にたった一人だけ、取り残されてしまったこの感覚。 こんなのはずっと、私が浸っていた物だったのに。
一度慣れてしまえば、それが当たり前になってしまう。 そんな当たり前が私にとっては、もしかしたら毒なのかもしれない。
「……」
一人は楽だ。 とても、とても楽だ。 それは知っている。
けれど、皆と居ると楽しい。 楽しくて、幸せ。 それも知ってしまった。
私は一体、どちらを取るべきなのだろう。
「まだ起きてるか? そういやちょっと気になったんだけど」
突然、板が退けられ裕哉が顔を見せる。 私はその顔を思いっきり蹴飛ばしていた。 条件反射。
「いってぇええ!? おい葉月! いきなり人の顔面蹴っ飛ばすってどういう了見だよ!?」
「いきなり人の部屋に入るのも一緒」
言って、私は慌てて板で通路を塞ぐ。
「……あー、それは悪かったよ。 なんか慣れてくると、自分の部屋みたいな感覚になるから困るな」
「勝手に侵略しないで」
「いやそれはしないけどな」
壁越しでの、会話。 私は背中を壁に合わせ、その場に座る。
……驚いた。 裕哉はいつも「いきなり部屋に来るな」と言う癖に、自分のことは棚に上げている。 裕哉が私の部屋にいきなり来る方が、よっぽど問題ありだと思う。 私はそんな素振りは見せないが、本当に驚いて変な声が出るところだった。
「……それで?」
「ん? ああ、いやさ、宿題ちゃんとやったのかなって思って」
忘れてた。 そう言えば、そんなのもあった気がする。 やることを前提としていないので、簡単に頭の中から消えてしまう。
「その反応だとやってないだろ。 また怒られるぞ……。 今から俺が手伝うから、やるぞ」
「……」
私は。
「大丈夫。 やってある」
「……本当か?」
「本当。 だから大丈夫」
「そっか。 疑って悪かったよ。 んじゃ、心配事も消えたし俺は寝る。 あんま夜更かしするなよ」
「うん」
数秒置いて、私は再び口を開く。 もう壁から離れていても、それはそれで良いと思いながら。
「裕哉」
けれど、裕哉はどうしてか、そういうことに気が効いてしまう。
「ん?」
居ない物と思ってばかり居たので、またしても少々驚きながら、私は淡々と言った。 さっき、言えなかったこと。
「おやすみ」
「……おう。 おやすみ」
そして今度こそ、裕哉は壁から離れていく。 見たわけじゃない、そういう風に聞いたわけでも無い。 なんとなく、分かった。
だから、独り言。
「ごめん」
私が裕哉に、本当に伝えたい言葉。
「……ごめん、ごめん」
その言葉は、私の冷たい部屋の中へ消えていく。 誰にも、届かない。
私はずっと、嘘を吐いている。 とてもとても、大きな嘘。
そんな嘘に比べれば、さっき私が吐いた「宿題をやった」という嘘なんて、小さい物だ。 それが明日になればバレて、きっと裕哉に怒られることになるだろう。
でも、もう一つの大きな嘘。
私がずっと感じているこの気持ちは、一生誰にも話すことは無い。 そう決めて、そう自分に言い聞かせているから。 そしてそれは本当なんだ。 嘘でも偽りでも無く、本当。 本当のことだ。 嘘じゃない。
もしも言ってしまえば、私が裕哉に言ってしまえば。 それが悪い意味で本当になってしまう。 臆病な私はどうしても、それが怖くて出来なかった。
私の大好きな、お母さんとお父さんの為に。




