事件前夜
「お、そうそう。 そうやって解くんだ。 出来るようになってきたな。 後問題は……お、一つじゃないか」
「五分で終わらせられる」
「言っておくけど、その台詞はもう聞き飽きたからな。 本当に五分で終わらせられるなら今すぐにそうしてくれ。 もうすぐ次の授業始まるから、移動しないといけないし」
本日最後の授業は化学で、実験室での授業となっている。 その為、ぼちぼちと教室からは人が去っていってる。
「……こう?」
「正解。 よっし、とりあえず数学はこんな物か? 後残ってるのは……国語か」
「それは平気。 一分で終わる」
「一番苦手ってことか。 まあ全部似たような物だけど」
だけど、飲み込みは結構早いな……。 恐らく、勉強すれば出来るタイプなのだろう。 それをしないってだけで。 そう考えると、朝言っていた「やれば出来る」というのも強ち嘘では無さそうだな。
「……失礼な言い方」
「はは、悪い悪い。 んじゃ、そろそろ行くぞ? このままだと遅刻するしさ」
「分かった」
俺と葉月は適当に課題のプリントを仕舞うと、席を立つ。 いつの間にか、クラスに残っているのは女子が数人と男子が数人だけになっていた。
「裕哉、次の授業って?」
「化学だよ。 時間割くらいみとけ」
額をこつんと突くと、葉月は「うっ」との息を漏らす。 そして突かれた額を擦りながら、机の中から教科書を取り出した。 しっかりと持っていることにも少し驚いたが、それよりも俺が驚いたのは……葉月の教科書が、まるで新品のように綺麗だったことだ。
「めちゃくちゃ綺麗だな、教科書」
「当たり前。 まだ一度も開いていない」
「もう十回くらいはあったからな。 授業」
こいつは本格的に、放っておいたらまともに進級出来ないぞ……。 今回の課題だけでは無く、ちょくちょく勉強を見てやらなければならないのか。
もしもこうなることが、あの宮沢美希という副担任の手の平の上だとしたら、いつか痛い目に遭わせたい。 既にかなりの分の痛い目を俺は受けているしな。
「やーおとめっくん!」
恨みを晴らす方法を頭の中で練っていたところ、唐突に背中を叩かれる。 振り向くと、そこに居たのは。
「葉山? あぁ、びっくりした」
「あはは、ごめんね。 ちょっとお話があって」
……なんつった?
「え?」
「八乙女君に、お話があるの。 今、大丈夫?」
誰か録音してないのか!? 確認の為、後十回程聞き直したいんだけど! まさか今、俺に「話がある」って言ったのか!? あの葉山が!? クラスで一番の美少女で、クラスで一番性格が良いと言われている葉山が!?
「お、俺に!? な、な、なんだ!?」
「だ、大丈夫? 八乙女君。 何だか、驚いてるけど……」
「大丈夫大丈夫! 全然大丈夫!」
「あはは、それなら良いんだけどね。 えっと」
葉山は言って、俺の後ろをちらりと見る。 ああ、気にしなくていいよ。 これはただの背後霊だから。
「あのね、実は」
実は、実はなんだ。 なんだ!?
「……その、北沢君が言っていた二人三脚? 一緒に、出たいなって思って」
「俺と!?」
「うん、そう。 八乙女君と」
ありえない! これはありえないことだ……。 何かがおかしい! もしやこれは何かの罰ゲーム……?
「駄目、かな?」
いやもう罰ゲームでも何でも良いや。 そんな上目遣いを使われて見られてしまったら。
「そんなことは……」
いつの間にか、クラスに残っていた女子と男子は全員こちらを見ている。 数えられる程の人数だが、とてつもないプレッシャーだ。 最早それは、何かの試練にも感じられる。
「そんなことは無いって。 葉山が誘ってくれるなら、俺としては是非……」
そう、試練。 折角の葉山の誘いを断らねばならないという、試練だ。
「……一緒にやりたいんだけど、先約があって」
悔やまれる! どうして順番が逆じゃなかった! どうして葉月の方と先に約束してしまったんだ俺! 昼休みの自分を滅茶苦茶殴りてえ!!
「先約?」
「ああ、葉月と約束してるんだ。 本当に嬉しいんだけど、ごめん」
「あ、あー。 神宮さんと。 そっか、それなら仕方ないよね。 私の方こそ、無理言っちゃったみたいでごめんね」
なんて良い子なんだ! ちくしょう、ちくしょうめ……。 俺の青春がことごとく、この背後霊によって潰されていっている!
「いやいや、俺の方こそ悪い! もし次機会があったら、是非誘ってくれよ」
「うん。 そうさせてもらおうかな。 あ、そろそろ移動しないとまずいよね? 私、先に行っちゃうね」
「あ、ああ。 また後で」
葉山は最後にはやはり、笑顔で俺に手を振りながら、教科書を持って教室を後にした。 残っていた女子たちは何やらひそひそと話していて、男子たちは「あいつ、頭がおかしいのかな?」みたいな顔で見ている。
……俺だって分かっているさ! すごく勿体ないことをしたのは! でも、先に約束してしまったんだから仕方ないじゃないか……。 くそう。
そうして俺の青春はまたしても過ぎ去って、背後霊と共に実験室へと向かうのだった。
「……はぁ」
「ため息ばっかり」
背後霊……じゃなかった。 葉月は何故? と言わんばかりの顔で俺のことを見ている。 なんとなく、本当にごく僅かな表情の変化を見て取れるようになってきたのが、若干嬉しいが……問題はそこじゃない。
「……はあ」
葉月の顔を見ていたら、何だか更に気分が落ち込んできた。 俺はどうして、葉月と廊下を歩いているのだろう。 もしかしたら、今横を歩いているのは葉山だったかもしれないのに! ありえた未来だったのに!
「ため息ばかりだと、幸運が逃げる」
「心配してくれてどうも……。 だけど、もう幸運は逃げて少しも残ってないから大丈夫だ」
「そう。 それは残念」
あれから化学の授業があったわけだが、葉山とは特にあれから何も無い。 ちらちら見た限りじゃいつも通りだったし、向こうは大して気にしている様子では無かった。
一方、俺をそんな目に合わせた葉月の方は、相変わらず授業中はノートを開いて絵を描いている。 名前順の班で分かれていたので、俺と葉月は別々だったのだが、葉月は実験を何もせず、ただ淡々と絵を描いているだけ。
あれだけしっかりやれと言ってもこれだからな……。 心底、どうやってこの高校に入学できたのかが気になるな。
それで、今はそんな葉月と廊下を歩いているのだ。 無論、家に帰るために。 教室はどうやら部活の会議に使われるとのことだったので、課題はなんとか明日に回して貰えた。 と簡単に言っても、俺が必死に頭を下げて頼みまわったおかげで。 当の本人である葉月はその間、昼休みに使ったベンチでぼーっとしていた。 殴りてぇ。
ま、図書室とか他の場所でやる選択もあったんだけどな。 だけど、この量だ。 今日一日で無理やり終わらせるより、なんとか明日までにして貰って、分けてやった方が葉月も楽だろう。
「裕哉」
葉月は言い、俺の腕の裾を掴む。 何か言いたいことでもあるのか?
「ん? どした?」
「さっきのこと。 教室で、葉山に」
「葉山に……ああ、二人三脚一緒に出ないかーってやつ?」
「そう」
それは分かったが……何を言いたいんだ、葉月は。 聞かないと延々にこのままで時間が静止してしまいそうなので、俺は葉月に続きを促す。
「それが、どうかしたのか?」
俺の問いに、葉月はこう言った。
「断ったのは、どうして?」
「どうしてって……だって、葉月と先に約束してたし」
「それでも、どうして?」
「約束を破るわけにはいかないだろ……。 逆の立場で、目の前で葉月に約束を反故にされたら俺だって嫌だしさ。 葉月だって、俺が葉山の誘いに乗ってたら嫌だろ?」
「そうだけど。 でも、葉山との方が楽そう」
「そりゃ身長も一緒くらいだし、葉月よりは運動できるとは思うし、だけどさ、そうは言っても」
「そうは言っても?」
「……やっぱり、約束破るのは嫌なんだよ。 それに、そうしないと葉月がしっかり課題やらないだろ? だから」
「……そう」
「だけどやっぱ勿体無いことしたよなぁ! ああくそ!」
「裕哉、馬鹿」
「誰の所為だと思ってるんですかぁ!? 葉月さぁん!」
「だだだだだだだから、ゆっゆゆゆゆらさっないで」
揺らすと、微妙に感情が出やすいのかもしれない。 今度から何を考えているのか分からない時は揺らしてみようか。
「まったく……。 とりあえず、今日は帰るか。 アニメ見るって話もしてたしさ」
「……」
しかし、その言葉に葉月は頷かない。 頷かないで、何かを考えるように窓の外を見つめている。
「おい? 葉月?」
「裕哉、私帰らない」
「帰らないって……なんでだよ?」
「課題、少しやっていく。 だから、先に帰ってて」
それだけ言うと、葉月は踵を返してどこかへと走っていく。
「葉月? おーい!」
呼び掛けには応じず、意外にも廊下を結構早く駆け抜けると、葉月は姿を消してしまう。
「なんだってんだ……」
課題を少しやっていくと言っていたか? でも、どうして急に。
折角、俺が課題を出している教師のところへ行って、頭を下げて明日にして貰ったというのに。 それに自分から課題をやるなど、言いそうに無いぞ。 一体どんな風の吹き回しなんだ? うーん……考えれば考える程に謎だな。
「ていうか、俺は本当に帰って良いのか……?」
だって、あいつ一人で課題をするとは言っても全然理解出来ていないしさ。 今までなんとか終わらせた課題も、俺が教えてギリギリだったし。
ああもう……ちくしょう! あいつどこへ行きやがった!?
結局今日は、放課後に学校へ残ることになったのだった。 まぁ、当初はその予定だったし別に良いか、なんて思いながら。
「やっぱりここか。 葉月」
一番最初に思い当たった場所、昼休みに一緒に弁当を食べたベンチだ。 とは言っても、校舎から出て行く姿が窓から見えたので、恐らくここだろうと思っただけだが。
「……裕哉、どうして」
「どうしてばっかだな、葉月は。 俺からしたら、葉月がどうして急に課題をやるって言ったのかが気になるよ」
「私は、別に」
「……別に、何でも無い」
「なら、俺も何でも無い。 文句無いだろ?」
「……」
「駄目、言って」
「当然のように言うんだな! まぁ、別に良いけどさ……」
そうやって言えと言われても、若干だけど恥ずかしいんだよな。 もしかすると、葉月も似たような感じなのだろうか?
「俺は、あれだ。 葉月はどうせ一人じゃ終わらないだろうし……帰っても暇だし、葉月が終わらないと見ようって言ってたアニメも見れないから。 だから、手伝おうと思って」
「ほんと?」
「嘘付いても仕方ないだろ? 本当だよ」
「……そう。 分かった」
「んで、俺が話したんだから葉月も話してくれるよな? 急に課題をやるって言った理由」
俺は葉月の横に座りながら、そう尋ねる。 横目で見ると、膝の上にはしっかりとプリントが広がっていて、今度は絵を描くこともせずに問題を解いていた。 間違えている漢字は多いし、文法の捉え方もどこか変。 だけど、しっかりとやっていたんだな、今回は。
「私は」
「約束、だから」
「約束?」
「裕哉と、約束した。 やるって。 だから」
「……裕哉は、約束守るって。 破ったら、嫌だって。 だから」
葉月はそう言う。 喋り慣れていない所為で、途切れ途切れの言葉で。 胸の辺りを抑えながら。
「ゆっくりで良いって。 ちゃんと聞いてるから」
「……うん」
「それで、私も……約束、守る」
つまり、俺が葉月との約束を守るってことが分かって、葉月はやる気が出たってことか。 もっと本当は色々な想いとかがあったのかもしれないけど、簡単に言うとそういう事だろう。
「……よっし!!」
葉月の言葉を最後まで聞いて、俺は勢い良く立ち上がる。 突然のことに驚いたのか、葉月は体をびくっと反応させていた。
「葉月、それ今日中に終わらせるぞ! んで、帰ったらアニメだ! そんで明日からは大会に向けての練習! 良いか!?」
「どうしたの、急に」
「やる気が出てきた! 絶対賞品取るぞ! で、葉月の部屋に飾ろう」
「もちろん。 取れなかったら、クビ」
「俺って雇われてたのか!?」
「でも、分かった」
「裕哉が真面目にやるなら、私も本気出す」
「言っておくが、俺は最初から真面目だからな。 それに葉月は最初から本気出しとけ」
「とりあえず、このプリント」
「これを五分で終わらせる。 見てて」
「おお……」
いつになく、やる気に満ち溢れている葉月。 この分でいけば、本当に本気を出していなかっただけかもしれない。 実は俺より頭が良かったり……するのか?
「……」
「葉月?」
「やっぱ、本気出すのやめた」
「おい」
「裕哉、ここ教えて」
「……はいよ。 んじゃ、とりあえず順番にやっていくぞ」
結局こうなるわけだ。 俺が教えて、それに葉月が頷いて。 時々葉月が変なことを言い出して、それに俺がツッコミを入れて。
そうやって過ごす時間は、やはり面白い物だった。
「おっしゃー! マジで終わったな!」
「さすが」
なんだなんだ。 そうやって俺のことを褒めてくれるなんて、少しはやった甲斐がある物だよ。 ちょっと嬉しいじゃないか。
「私」
「どうしてそうなるっ!? 殆ど俺に教えられて解いてたじゃねえか!」
「裕哉」
「今度は何だ……」
「……とう」
「え?」
「……」
何やらぼそぼそと、いつもより更に小さい声で葉月は何かを言っている。 あまりにも聞き取れないので、俺は葉月の口の近くへ耳を持っていき、葉月の言葉に神経を向けた。
「……ありがとう」
「へ? あ、ああ。 なんだ、お礼か?」
「……」
こくこくと、首を縦に振る。 山のようなプリントを手伝ってくれたお礼ってことか。
「まだだろ? ちゃんと、えーっと……なんとかダンシングって奴のポスター。 あれ取らないと」
「ワルキューレ・ダンシング」
「そうそう、それそれ。 あれ取るまでが約束だからな。 葉月」
「ポスターじゃない。 タペストリー」
「……どう違うんだ?」
「ポスターは紙。 タペストリーは布」
「へえ……要するに、ポスターの上位がタペストリーってこと?」
「大体、そんな感じ」
また要らぬ知識が増えてしまったな。 いつか役立つ日が来るのだろうか。
「なるほどね。 まあ、それを取るまでが約束だから、お礼なんて全部終わってからで良いよ。 な?」
「分かった。 さっきのは無し」
「おう。 そうしてくれ」
「だから、代わりの言葉」
「代わりの? 何だ?」
「ご苦労」
「だからどうして上から目線なんだよっ!?」
まったく……これなら、いっそのことやはりお礼を言われたままで良かったんじゃないのか。 いやでも、一度は聞けたし良いとするか。
「お疲れ……さま?」
そう言い、首を傾げながら俺に言う。 その仕草はやはり、本当に少しだけ可愛かった。
「はぁ、酷く疲れたなぁ……」
あれから課題を教師に提出して、そのままの足で一緒に帰宅。 俺はそのまま葉月の家へと行き、約束通りアニメを一緒に見て、ようやく自分の部屋へ戻ったところだ。
時刻は既に22時を回っている。 今日は色々とあって、さすがに眠い。
葉月のこともそうだし、あの葉山のこともだし。 どうしてあいつは、俺を二人三脚の大会へ誘ったのだろうか? 蒼汰が誘った時は「走るのが得意じゃない」と言っていたと思うんだけど……。
うーん……やっぱり、そういうこと……なのか? いやいや、ありえないありえない。 何かきっと、理由があるはずだ。 こうやって考えてしまうのって、もしかして捻くれてるのか?
ベッドの上に寝転がって、今日あったことを考える。 葉月と葉山。 そういや同じ「葉」か、すごくどうでも良いけど。 葉月の葉は悪い物だ。 で、葉山の葉は良い物だ。 多分。 こんなことを考えているのがバレたら間違いなく、葉月に殴られるだろう。
今はとりあえず、明日のことかな? 葉月が大量に抱えていた課題は終わったので、明日辺りからは二人三脚の練習をしないと駄目だろう。 ただでさえ、身長が違って体格もかなり違うんだから、走りづらいだろうし。
それに葉月は確実に体力無いだろうからなぁ。 だとすると、まずは体力を付ける為に走ることからか? 本当に大丈夫か心配になってきたぞ……。
そんな明日からの心配に頭を悩ませていたとき、窓からコツンと何かが当たった音がした。
……ホラーアニメを見た後だから、なんかビビるんだが。 大丈夫だよな? カーテンを開けたら、いきなり幽霊がいたりしないよな?
「……」
唾を飲み込み、カーテンの方へ。
コツン、コツンと時間を開けて、未だに窓からはそんな音がしている。 規則正しく、コツン、コツン、コツン。
「……勘弁してくれよ、ほんとに」
願いを口に出しながら、カーテンに手を掛けて……。
「……せいっ!」
勢い良く開けると、そこにあったのは。
「……なんだこれ? 紐?」
ビニール紐。 その先には小さな石がぐるぐると巻かれて固定されている。
「う、動いた!?」
その石はゆっくりと一人でに動き出す。 まるで誰かが引っ張っているように。
「……ん?」
やがて、石は隣のベランダへと消えていった。 そして何故こんなことが起きているのかと考える前に、視界の隅に何かが映る。 辺りは既に暗くて見えないが、小さな物がこっちに勢い良く向かってきて。
「いたっ!!」
見事、俺の額へと命中した。 かなりの勢いで飛んできたのか、結構痛い。
というか、さっきからコツンコツンいっていたのはこれか! 納得した!
いやいや待て、問題はそこじゃないだろう。 落ち着け裕哉。 それよりも大きな問題があるとしたら。
「おい! 人の家の窓を割ろうとするんじゃねえ!」
俺はその石を掴み、引っ張る。 するとやはり……その先は隣の家のベランダへと繋がっている。
「引っ張らないで。 危ない」
すぐ隣。 ベランダは繋がっているが、仕切り板で区切られている。 その向こう側から、隣人の声が聞こえてきた。
「危ないじゃねえよ! 何やってんだ葉月!」
「……暇潰し」
「暇潰しで俺の部屋の窓が割られて堪るか! ていうか、俺の額に当たったからなそれ!」
「そうなの?」
「ああそうだよ!」
「案外、良い角度だった」
「やかましいわ! 良いから変なことしてないで、とっとと寝ろ!」
「……」
少々苛立ちながら言うと、葉月は黙ってしまう。 若干、言い過ぎたか?
「葉月?」
「……」
相変わらず無言で、もしかしたらもう居ないんじゃないかと思い始めた時。 仕切り板を避けるように、葉月の手が出てきた。 んで、こっちへ来いとやっている。
「……何だよ?」
俺は渋々その手の指示に従って、仕切り板の近くまで移動した。 腕を手すりに置き、身を少しだけ乗り出して隣を見る。
「……実は」
と、葉月は言う。 いや、待て。 そんなことより……顔が近い。 こいつがまさか、こんな近くに居たとは思わなかった。
「実は、寝れない」
「ね、寝れない? なんで? 今日はあれじゃん、葉月は頑張って勉強してたし、疲れてるだろ?」
「疲れてる。 眠い。 だけど、寝れない」
「なんでだよ? 何か理由でもあるのか?」
俺が言うと、葉月は手すりを握っている手の力を少しだけ強めた。 まるで、何かを我慢するように。
「……さっき」
「さっき?」
「見たアニメ。 怖くて」
「ならどうして見たっ!?」
いや確かにだよ。 確かにあのアニメは怖かった。 アニメでここまで怖いのってあるんだなってくらいに。 だけどさ、葉月はそれを持っているわけだろ? どれだけ怖いかって知っているわけだろ? 俺はてっきり、一度見たアニメだから大丈夫なんだなぁ、とか思うわけじゃん。 だから一緒に見ていたんだけど……。
「裕哉が見るって、言うから」
「俺の所為にするんじゃない!」
「……別にそうじゃない」
「ったく……俺は知らないから寝るぞ。 もう今日は疲れたから」
「……」
葉月は無言で俺の顔を見つめる。
「明日も早いし」
「……」
葉月は無言で俺の顔を見つめる。
「眠いし」
「……」
葉月は無言で俺の顔を見つめる。
「……あーもう! 分かった分かりました! 少しだけ話くらいなら付き合うから、それで良いか!?」
「ほんと?」
「……本当だよ。 嘘吐いてどうするんだ」
「うん。 分かった」
夏前ということもあり、夜風は暖かく気持ちが良い。 マンションの五階から眺める景色は、今までしっかり見たことは無かったが、意外にも綺麗な物だった。
「そういえばさ、葉月」
「なに?」
「まだしっかり聞いてなかったなって思って。 どうして昨日、俺を家に入れたんだ?」
「あれは」
「……言わない」
「はは、言わないのかよ。 まあ、それは別に良いか」
「気が向いたら、言う」
「そうかい。 んじゃ、俺は葉月の気が向くのを気長に待っとくよ」
「うん」
遠くの方で、夜景はきらきらと輝いていた。 俺にもいつか、こんな景色を一緒に眺める奴が出来るのかな? なんてことを思う。 ああ、それで思い出したが、葉山のことはやはり名残惜しい……。
「裕哉」
「ん? どうした?」
「裕哉はどうして、頑張る?」
「頑張る? えっと、何について?」
「……今日のこと」
「今日のこと……あー、葉月の勉強見たり、あの大会のこととか?」
「……」
葉月は無言で、首を縦に振る。
「……自分でも分からないんだって。 ていうか、昔から言われるんだよ」
「昔から?」
「そ。 お前は後先のことを考えない、とかな。 結果、今こうなってるってわけだ。 葉月さん」
「良い結果」
「それはじっくり話し合う必要があるな。 俺は悪い結果として意見を申したい」
「それは、葉山のこと?」
意外にも鋭いな。 俺の心の中がまるで読めているようだ。
「……思い出させてくれるなよ。 でも、確かに葉山のことは名残惜しいけどさ、結果的に言えば葉月がやる気出してくれたし、良かったよ」
「そっか。 裕哉は」
「裕哉は、いじわる」
「おい何だよ急に」
グサリと刺さる、葉月の言葉。
「それに、馬鹿」
「……あのなぁ」
更にグサリと、容赦なく俺の心にダメージを与える。
「ワガママ」
「どっちがだ!?」
今度はチクリと来たな。 次は一体何だ。
「それに、変」
「それはお互い様だろ」
それは、葉月にもダメージが行くぞ。 諸刃の剣か。
「でも、優しい」
……まったく。
「それは……なんていうか……どうも」
「今日は寝る。 おやすみ」
「また急だな!? って、もう部屋の中入ってやがる……」
とりあえず、それなら俺も今日は寝るとしよう。 なんだかんだ話している間に、三十分ほど経っているし。
普段なら時計が一番上を回った頃に寝るんだけど、今日はどうにも、疲れが一気に溜まった。 気持ち良く眠れるだろう。
こうして、葉月と出会ってから二日目が終わりを迎える。 たった二日だけど、俺と葉月はそれなりには仲良くなれたと思う。 今はまだ、お互いのことなんてほんの少ししか知らないけどな。
ただ、なんとなく。 なんとなく、葉月とは長い付き合いになりそうだな。 なんて、俺は思った。
そして次の日からは学校が終わり次第、帰ってきたら二人三脚の練習といった感じで過ごしていった。 最初の方こそお互いにぎこちない感じではあったが、次第に慣れていくと案外息も合ってきたと思う。
一番の問題は体格差とこいつの体力の無さ。 さすがに十秒走った段階で息切れをおこしていた時はどうしようかと思ったな。
大会が開かれるのは6月の中頃。 そしてその大会を一ヶ月程先に控えたある日。 事件が起きた。
その日は俺と葉月は別々に登校して……とは言っても、俺がただ単に鞄を忘れて、途中で引き返した所為でだけど。
それで、少し遅れてやってきた俺は教室内の異様な雰囲気に息を飲む。 皆が何やらヒソヒソと話しているが、状況が明らかにおかしいから。
教室内では、とあるひとつのイベントが行われていたのだ。