そして、夜が明ける
「悪いな。 待たせた」
「お疲れ様です。 休まなくて良いんですか?」
それから十分ほど経って、凜さんが姿を現した。 昨日までのしっかりしか雰囲気とは違って、俺から見ても少し疲れているのが見て取れるほどの姿で。
「はは。 これでも気になって気になって仕方無いんだよ。 例え今から寝ろって言われても無理だな。 あたしの患者で、妹だから」
「……ですよね。 大丈夫ですよ、あいつは」
「そうだな。 あたしもそう信じてる」
凜さんは言いながら、笑って、自動販売機の前へと行く。 白衣のポケットから小銭を取り出し、それを投入していった。
「お前は何を飲む? 裕哉」
「そんな、俺になんて良いですよ」
「遠慮するな。 鬱陶しい奴だな」
「一々言い方酷いですね……」
「で、何を飲む? 五秒やる」
五秒って。 飲み物を奢ってもらうのに、ここまで焦りと恐怖を感じたこととか無いんだけど! あの天羽とは全然違う人だな、本当に。
「あ、えーと、じゃあ」
「アウト。 勝手に決める」
「……はい」
そして、凜さんは二つ買った内の片方を俺に渡す。 冷たいそれは、りんごジュースだった。
「あれ、凜さんも同じのですか?」
「好きなんだ。 これが」
「……へええ」
「似合わないと思ったな、今」
「へ? はは、そんなわけ……少し、ありますけど」
この人に横目で睨まれると、どうも嘘が吐けない。 元より嘘を吐くのが俺は下手な方ってのもあるかもしれないけど。
「あたしもそう思ってるよ。 でも好きなんだ、これが」
りんごジュースの缶を片手で持ち、ジッと見つめる。 小さく笑っていて、何かを考えているようにも見えた。
「これはな、あいつが好きなんだ。 羽美が、好きなんだよ」
「天羽が……」
「毎日必ず一杯は飲んでいてな。 あたしは最初見ているだけだったんだが、あいつがどうにも美味そうに飲む物だから、釣られてな。 はは」
「仲、良いんですね。 二人」
「あたしはそう思っているけど……あいつはどうだろうか」
今度は空を見上げ、息を吸って、目を瞑る。
「あいつの気持ちを一番に優先したい。 けど、それだとあいつの体が持たない。 最初に手術を受けろと言った時は、酷く悩んだ物だ」
「……そうですね。 俺が凜さんの立場だとしたら、言えなかったかもしれません」
「かもな。 お前を見ていると、そう思うよ。 別にそれは悪いことでは無いさ、言うのには相当な勇気がいる」
「勇気ですか」
葉山はそれをしっかりと言ったんだ。 それがどれほどの物だったかは、言えなかった俺には分からない。
「だからと言って、お前にそれが無かったってわけでも無い。 裕哉、お前は……少し、優しすぎる」
「そうですかね。 迷惑掛けてばかりですよ、葉月にも、葉山にも、天羽にも」
「迷惑、か」
そう言うと、凜さんは立ち上がって海の方を眺める。 建物の上に行けば見えるのかもしれないが、ここからではそれは見えないだろう。 それとも、凜さんには見えているのだろうか? 綺麗に揺れる、海が。
「風が気持ち良いな。 仕事した後にこうやって、ジュースを飲みながら風を浴びて、こうしていると、凄く落ち着くんだ」
「お前の場合はどうだ? 落ち着く方法とか」
「俺ですか? 俺は……」
「部屋の中で、ぼーっとしてたり。 とか」
「ははは! 斬新だな。 でも案外、そういうのが良いかもしれない。 今度やってみよう」
……葉山と似たような事を言う人だ。 それとも、部屋の中でぼーっとするのって案外流行ったりするのか? 俺としては理解者が増えるのは嬉しい限りだけども。
「ええ、是非。 そういえば、凜さん。 凜さんの伝言、伝えておきましたよ」
「ふふ、そうか。 あいつはなんて?」
「あの女め! って。 はは、笑って言ってました。 それで、最後は……泣いてました」
「……そうか。 羽美は、泣いてたか」
凜さんは小さく笑って、空を見上げる。 夏の朝は早く、昇り始めている太陽の光が、空を彩っていた。
「それは是非、見たかったな。 私が最後に見たあいつの泣き顔は、あいつが中学生の時に、病室で泣いていた以来だよ」
「病室で?」
「そうだ。 それでその日から、あいつは今のあいつになったんだ」
……多分それって、葉山が行った日のことだな。 凜さんも来ていたのか、あの日。 下手したら二人が衝突してたかと思うと恐ろしい。
「何があったのか聞いても教えてくれなくてな。 けど、そうなる前の日よりずっと輝いて見えた。 何事にも笑って、学校へ行くと言い張って聞かなくて。 最初の内は無理やり寝かせていたんだけど、最後はこっちが根負けだ。 毎日一度、あたしが診察するって条件で退院させた。 普通は駄目なんだけどな? あたしの方がかなり無茶をして。 ふふ」
ああ、だからか。 だから天羽は毎日、帰るのが早かったのか。 宮沢によって、俺と葉山が水道を掃除させられていた時も。 気付けたのかな、あの時。 俺がもう少し天羽の事を見ていれば。
「あいてっ!」
そんな風に思ったところ、いきなり頭に衝撃。
「な、何するんですか!? いきなり!」
「別に深い意味は無い。 ただなんとなく、ムカついた」
「理不尽ですね……」
だけど、何だか思いやりのある、愛情のある拳だったな。 俺は大人しく受け取っておこう。 その痛みを。
「羽美は、笑っていたよ。 本当に綺麗に笑ってた」
「……それで、天羽は幸せだったと思いますか?」
俺はそれが知りたかった。 一番身近に居た凜さんから見て、そんな天羽は幸せだと思えたのだろうか? 葉山の言葉によって、そんな毎日を送るようになった天羽が。
「当然だろう。 あんなに笑って、元気で、一生懸命で。 そんな姿、初めて見たよ。 あたしも、羽美も、幸せだったさ」
「そうですか」
「なんだ、嬉しそうだな?」
「いえ、そんな」
ああ、隠しきれていなかったか。 怪しい人に思われるんじゃないかと心配だな。
「それで、高校に行けるようになって、お前らに出会えて。 あいつは毎日のようにあたしに自慢してきてな。 毎日毎日一時間だぞ? どれだけ時間を割かれたことか」
「それは……すいませんでした」
「全くだよ。 今日は八乙女くんが葉月ちゃんに暴力を振るったとか、歌音ちゃんが八乙女くんを土下座させてたとか。 そんな話ばかりだったけど」
「あの野郎……」
なんてことを話してくれているんだ。 俺にも一応、尊厳という物があってだな……。
「まぁそんなどうでも良い話をな、普通の女子高生がしてそうな話をな……あいつは、凄い楽しそうに話すんだよ。 まるで、宝くじが当たったみたいな顔で」
言い、凜さんは視線を落として缶ジュースの中を見る。 そしてそれを一気に飲み干して、俺の方を向いて言った。
「ありがとう。 裕哉」
「へ? えっと、何がですか?」
「あいつと友達になってくれて。 ありがとう」
凜さんは優しく笑顔で言って、頭を下げた。 これは姉としての言葉、だよな。 当然。
「そんな。 俺達の方こそお礼を言いたいくらいですよ」
「それに……なってくれて、じゃなくて。 あいつが天羽で、天羽だったから俺達は友達になったんです。 天羽羽美という一人の女子の今を見て、俺達は友達になったんです。 友達って、そんな物じゃないですか?」
「ふふ、そんな物か」
「そうです。 そんな物ですよ」
友達に定義なんて無いけれど、なんとなく友達だと思って、なんとなく友達になる。 そんな感じじゃないんだろうか。
だから、俺は葉月とも葉山とも天羽とも……友達だ。 大事な、大切な、友達で。 今のこの関係ってのが俺は好きで、壊したく無いと思っているんだ。
今の関係のままゆっくりと、仲良く、大切に。 そうやって、俺はこの高校での生活を送って行きたい。 そう、思っている。
「ところで裕哉、こんな言葉を知っているか?」
「……どんな言葉ですか?」
「他人とは、遠慮しあう仲である。 友達とは、遠慮しない仲である」
「初めて聞きましたね。 誰の言葉ですか?」
「あたしのだ。 あたしが考えた言葉」
「自分の考えた言葉を偉人の言葉っぽく言わないでください」
「そう言うな。 で、お前たちの場合はどれになる?」
凜さんは片手を腰に、片手をジュースの缶を持ったままで言う。 俺達の場合……か。
「当然、友達ですよ。 俺達は」
「そうか。 まぁ、今この場で冗談でも「他人」とか言っていたら張り倒していたけどな」
危ないな。 冗談でもアウトだったのかよ。 この人だったらマジでやりそうだ……。
「でも、友達だからって何も遠慮しなくて良いってわけじゃないですよね。 当たり前ですけど」
「そりゃそうだ。 それこそ関係の破綻になるだろう。 誰も彼もが遠慮しないそんな世界だったらな」
「だから、お前達ならしっかりとした関係を築けると思う。 そこに、羽美の姿があるのなら……あたしはそれで、満足だよ」
「勿論ですよ。 葉月が居て、葉山が居て、天羽が居て。 それで、一つです」
「ふふ、ありがとう」
「なんかさっきからお礼ばっかですね?」
「そういえばそうだな……。 お前も一回くらい言ったらどうだ?」
なんだそれは。 凄い理論を展開してくるな……。
「それじゃあ、ありがとうございます」
「おう。 素直でよろしい。 んじゃあ、あたしはそろそろ戻るかな。 まだ仕事が残っている事だし」
言って、凜さんは体を伸ばす。 医者というのは俺が思っている以上に、大変な仕事なんだな。
「……寝なくて大丈夫なんですか?」
俺が心配になって聞くと、凜さんは笑って言う。 その姿は本当に格好良く見えた。
「大人ってのは、子供にだらけてる所を見られちゃいけないんだ。 お前もあと数年後はそうなんだから、頑張れよ」
俺は黙って頭を下げる。 色々な、本当に色々な気持ちを込めて。
「ああそうだ。 最後に一つ、より良い関係を築くアドバイスだ。 まぁ、これはあたしの体験を元に考えたことなんだけど」
「何ですか?」
「大事なのは、遠慮するべき所としない所、そこの見極めだよ」
言いながら俺の頭に手を置くと、凜さんは白衣を翻して病院内へと戻っていく。 玄関口から中に入っていき、そのまま通路を通って。
そんな姿を見ている時だった。 何やら、凜さんが一人の看護婦から呼び止められている。 見た感じ、かなり慌てた様子で。
数十秒そうして話したと思っていたら、凜さんは踵を返して俺の方へと戻ってきて、言った。
「裕哉、急いで来い。 羽美が----------」
「葉山! 葉月! 起きろ!!」
未だに寝ている二人を起こすべく、俺は肩を揺らしながら叫ぶように言う。 葉山はそれで飛び起きて、葉月はゆっくりと体を起こして、目を擦る。
「な……なに? え? あれ……あ、そっか。 私、ここで天羽さんを待ってて……」
「……眠い」
「良いから! ちょっと急いで来い!!」
「急いでって……あ! 天羽さんは!? 手術!!」
「手術は結構前に終わってる。 で、今は病室で寝てるんだけど……さっき、看護婦の人が凜さんのところに来て……」
「容態が、急変したって、天羽の」
「……それって!」
葉山は聞くと、すぐに長椅子から立ち上がる。 立ち上がって、未だにあくびをしている葉月の体を掴んで自らの背中に乗せる。
「行くわよ八乙女君! 場所、案内してっ!」
「あ、ああ! こっちだ!」
病室の前へ行くと、扉は少しだけ開いていて、先程から医者や看護婦が慌ただしく出入りをしている。 少しの隙間から顔こそ見えないが、ベッドに横たわっている天羽の姿も見えた。
部屋の中からは凜さんの叫び声にも似た声が聞こえていて、場は緊張に包まれている。
「……大丈夫よね」
葉山は隣で、今にも折れそうな声で俺に言ってくる。 こいつのこんな声は、初めて聞いたかもしれない。
「大丈夫だよ。 な、葉月」
「うん。 余裕」
着いた頃にようやく葉月は完全に目を覚まして、今はぎゅっと自分の服の裾を掴んでいる。
口ではそうは言った物の、葉月は心配しているのだろう。
……勿論、俺も。 多分、この場に居る全員、そんな感じだったんじゃないかと思う。
それから待つこと、数分、数十分、一時間程だろうか。 実際はほんの数分だったかもしれないが、長く、とても長くその時間は感じられた。
「あの、天羽は……」
ようやく扉から出てきた一人の年配の医者に聞く。 しかし、俺達の方に一度視線を送るだけで、返事は無かった。
その顔は暗く、悔しそうで、それじゃあまるで。
まるで、駄目だったみたいじゃないか。
「……八乙女君」
「大丈夫だって! そう言ってんだろ!! だからそんな顔するな! 天羽のこと信じてるんだろ!?」
「……うん。 そうだよね、そうだ」
そんな言葉のやり取りを俺と葉山は続けた。 医者や看護婦が出てきて、話し掛けて何も返事が無くて、その度にそう俺と葉山は言っていた。 そうやって懸命に、嫌な方に考えがいかないように。
葉月はこんな時でも無表情で、ただ淡々と事の成り行きを見守っている。 何を考えているのか分からないが、服を握りしめている拳の力が強くなっているのは分かる。 気持ちは、分かる。
凜さんだって、まだ中に残っているじゃないか。 もう殆ど医者と看護婦は出て行ったけど……まだ、凜さんが残っているじゃないか。
あの人は言ったんだ。 絶対に助けるって。 例え1%の確率だったとしても、100%成功すると信じているって。
だから、そんなこと。
「……」
「凜さん! 天羽さんは!? 天羽さんは大丈夫ですか!?」
凜さんが姿を現すのと同時に、葉山が飛び掛かる勢いで言う。
しかし、凜さんの表情も先程の医者達と同じく暗く、拳を強く握り締めている。
「裕哉、歌音、葉月」
俺達の方をしっかりと見て、凜さんは口をようやく開く。 きっと、凜さんも先程出て行った人達と同じで、言いたく無かった筈だ。 口にしたくなかった筈だ。 だってそれはあまりにも。
「……すまん」
あまりにも、辛い現実なのだから。




