忘れた話
その看護婦の人から案内されて、私は今、病室の前に立っている。 看護婦は別の看護婦に途中で呼ばれ、そっちの方に行ってしまったから今は一人。
さっきは「話してみる」とは言ったけど、ぶっちゃけそんな気は皆無。 私が何を言った所でその少女の病気が治るわけも無いから。 言うだけ無駄だし、適当にプリントだけを渡して帰ろう。 色々と忙しいしね、様々な知識を本を通して頭に入れないといけないから。
あーっと、そういえばさっきの看護婦はその少女の病気は厳しい物だって言ってたっけ。 確か「中学生の間はもう、厳しいって。 羽美ちゃんの頑張り次第なんだけど、今のままじゃ……ちょっといつになるか分からないわね」とか言っていた気がする。
それを聞いて私は「可哀想」とか「頑張ればどうにかなる」とか「諦めちゃ駄目」とか言うつもりは無い。 だって医者が診てはっきりと「厳しい」って言っているんでしょ? なら無理無理。 物事は諦めが肝心。
んで、なんで今それを思い出したかと言うと……。
「んー、まーた良い子にならないと駄目かと思ったけど、別にそれならいっか」
そう、私が私を偽る必要が無いと思ったからだ。
中学の間、私が通っている中学に来れないのなら、別にわざわざ良い子振る必要も無い。 この部屋の中に居るたった一人の悲劇のヒロイン様にどう思われようとも、私の人生に影響を与えるとは思えない。 だったら別にどうだって良い。 この部屋に入るのは私自身でも問題無い。
「お邪魔しまーす」
そう言って、乱暴に扉を開ける。 あー、やっぱ学校とこの病院で良い子振っていた所為でイライラが大分溜まってる。 こういう開放的瞬間ってのは癖になるけど、進んでやりたい事じゃ無いんだよね。 もっと私自身で接せられる所が増えれば良いんだけど……。 現時点では私が今住んでいる家と、この病室だけか。
「……」
返事無し。 挨拶は基本だと教わっていないのか?
思いながら病室の中を見ると、黒い髪の病弱そうな少女が一人ベッドの上で寝ていた。 寝ていたと言っても横になっているだけで、扉が開かれる音に驚き、少々体が反応していたけど。
「あー、薬くさっ。 病院ってこれだから嫌なのよね」
「……あなたは?」
顔をしかめながら中に入って、そのベッドの近くまで行く。 すると、ジッと私を見ていた少女が口を開いた。 ていうか普通はまず自己紹介でしょ。
「私は葉山歌音。 一応あんたと同じクラス。 で、あの馬鹿教師に頼まれて宿題とか持ってきてあげましたぁ」
「……そうなんだ」
あーうざ。 目は死にそうだし、体は痩せ細っているし、何より声に覇気が無い。 こういう病弱なのは苦手だ。 対応するのが面倒臭い。
「何? お礼も言えないわけ?」
「あ、ごめん。 ありがとう、葉山さん」
「チッ。 ま、別にあんたにお礼なんて言われても言われなくてもどっちでも良いけどね」
言いながら、私はベッド横の引き出しの上に、乱暴に教師から託されたプリントやら宿題やらの配布物を置く。 それを横目で見ながら、この女は呑気に窓の外を眺め始めた。
「ていうかさ、人に名前聞いといてシカト? 自己紹介くらいしろっての」
「……天羽、天羽羽美。 天井のテンに、羽ばたくのハネ。 羽美の羽もハネで、美は美しいのミ」
「へえ、そうなんだ」
聞いて、忘れた。 今日限りの関係だし、記憶する必要が無い。
「葉山さんの字は?」
「……あー」
どうしようかな。 適当に偽名っぽくしておこうか。 まぁでも、別に良いか。 本名を教えたってどうなるわけでも無いし。
「葉っぱのハにヤマ。 歌音は歌うのウタに、音のネ。 可愛い名前でしょ?」
「うん。 良い名前だね」
そこは可愛い名前だね。 って言っとけっての。 何が良い名前だね、だ。 名前なんてどうでも良いじゃん。
「んで、天羽さんは何してるの?」
「見ての通りだよ。 いつ治るか分からない病気。 毎日こうやって、窓の外を見てるだけ」
「ふうん。 あっそ」
大層つまらなそうな日々だなぁ。 まるでドラマに出てくる病弱少女だ。 あの木の葉っぱが全部落ちたら死ぬんじゃないだろうか。
「葉山さんは、学校でも有名人って聞いてるよ」
「……へえ」
言ったのはあの宮下か。 余計な事を言ってくれる。
「なんでも、裏の頭って呼ばれてるとか」
「……は?」
いや、確かに聞いたことはある。 私に八方美人な性格にムカついて絡んでくる連中を軒並み叩きのめしたから。 勿論、物理的にじゃなくてね。 そいつらの様々な悪事を撮って学校に送りつけたり、教師と一緒に協力して現場を抑えたりしただけ。 それで、風の噂で私が「裏の頭」とか呼ばれているってのは耳にしたことはある。
けど、待って。 どうしてこの女がそれを知っている? あんなのは本当にごく一部しか知らない筈なんだけど。
「宮下先生が言ってたよ。 葉山さんは、実は凄く強い子だって」
……知っていたのか? 私のこの性格を宮下は。 いやでも、学校ではまずこの性格を表に出すことは無いし……だとすると、勘付いた? あいつも大概、偽って生きている方の人種だし。
一番考えられるのは、同族の匂いを嗅ぎ分けた。 それが一番近いかもしれない。
「あっそ。 ま、それはそれで良いや。 けど今言ったように裏の頭とか言わないでくれない? 可愛くないし」
「そう? 格好良いと思うよ?」
可愛くないと言って、格好良いと思うとの返答が来た。 舐めているのか、この女。
「どこがよ。 次言ったらその顔をこの花瓶で殴るから」
「……そんな事言われたの初めてだなぁ」
弱々しく笑って、この女は言う。 今にも消えてしまいそうな、儚い笑顔だった。
「文句でもあんの? 病気で辛ければ優しくされるとでも思った?」
「ううん、嬉しくて」
「……嬉しくて?」
「そう。 皆、あたしには優しいんだ。 これなら食べられる? とか、読みたい本とかある? って。 そんな事ばっかり言ってくるんだよ」
「あたしはただ、普通に接して欲しいだけなのに。 こうやって病気で入院してるってだけで、皆優しくしてくるんだ。 他の誰かが誰かに接するように、して欲しいのに」
その時、私は一緒だと思った。 私と同じだと。
両親が死んで、周りに優しくされた私と、この病気で入院しているから優しくされる女。 状況は全然違うけれど、一緒だ。
だからこそか、だからだったのか、分からない。 とにかく私はその時、物凄い頭に来た。 一緒だけど一緒じゃないこの女に。
「は? だったら優しくされないようにしなさいよ!! そんな如何にも死にそうな顔して、如何にも助けてくれって顔をしてるからそうなるんじゃないの!?」
先程置いたプリントを持って、少女に投げつける。 看護婦が見たら激怒しそうな行動だ。
同じ状況で、だけど何もしないで文句だけを言うこいつが許せなかった。 ただただ今の状況に流されるだけ流され、何もしないこの女に、私の行動を馬鹿にされているような気がして。
「それが出来たら苦労しないよ! 出来ないから、出来ないからどうしようも無いんだ……」
プリントを私に投げ返して、辛辣に言う。 目から涙をぽろぽろ落として言う。
それを見て、私はなんて酷い事を言ったのだろうと後悔……するわけない。 精々、何私に向かって物を投げてるんだこのクソ女は。 くらいしか思わなかった。
「はっ! なら死ねば? そのままずっとそのベッドの上で一生行けない窓の外を眺めながらさ! そっちの方が楽だし苦じゃないでしょ? 皆に優しくされながら死ね!!」
「……あたしは、あたしはただ……それが嫌なわけじゃなくて。 こんなあたしが嫌なんだ」
「悲劇のヒロイン気取りもいい加減にしたら? 行きたい場所があるって聞いたわよ、さっき看護婦の人から」
「……それって」
一瞬息を飲んで、少女は言う。 恐らくはあまり知られたくない事だったのだろう。 恨むのなら私ではなく、あの看護婦を恨むべきね。
「ま、でも今のあんたじゃ一生無理ね。 そうやってだらだら自堕落に生きてるあんたには。 世話してくれる人が居て良かったわね。 おめでとうおめでとう」
「違う! 違う違う違う!! あたしは絶対行く! 何がなんでも、絶対にあの場所に行くんだから!!」
「ムーリ。 無理無理。 私が保証してあげる。 今のあんたじゃ無理」
あざ笑うように、貶すように、言ってやる。
しかし、この女はそれでも言い返してくる。 無理だと思いたくないのか、諦めたくないのか。
「絶対行ける! お姉ちゃんも行けるって言ってた!!」
「……」
ああ、駄目だ。 ムカついてムカついて頭に来て。 苛立って腹が立って。 今すぐにこの女を殴ってやりたい気分だ。
「……チッ」
私はベッドのすぐ横に立って、ベッドに横たわっている少女の胸倉を掴む。 そして、思いっきり顔を引っ叩いてやった。 パン! という小気味良い音が部屋に響き渡る。 あはは、ざまあみろ。
「無理よ、無理。 そうやって信じてるだけじゃ変わらない」
「……そんなこと、そんなこと無い!!」
少女は未だに胸倉を掴んでいる私の手を片手で掴んで、次に顔を睨んでくる。 そして、空いている方の手で思いっきり私にビンタを放ってきた。
「いった! こんのクソ女!!」
もう思考なんてしなかった。 少女の容態とか、ここが病院とか、それで私の立場とかこいつの立場とか。 そんなのは頭から一切消えて無くなっていて、私はもう一度思いっきり引っ叩く。
「……一生そうしてろ!」
先程よりももっと強く叩いた所為か、少女はベッドの上に倒れこむ。 頬を抑えて、涙を流しながら。
「……ここまで思いっきり叩かれたのは初めてかも」
馬鹿なこいつは、私の顔を見て笑って言う。 だから私も笑って返す。 嘘の笑顔では無く、本来の私の顔で。
「良かったじゃない。 一日で初めてのことが二つも起きて。 感謝してよね」
「絶対しない。 ばーか」
「良く言うわね……。 それじゃ私は帰るわ。 ここに居たらまたあんたのこと叩きたくなるし」
言って、そそくさと私は帰り支度をする。 これ以上揉めて殴り合いでもして看護婦にバレでもしたら、確実に学校に連絡が行って大問題だ。 それは好ましくない。
「……絶対忘れないから、葉山歌音。 いつか仕返ししてやる」
「あはは! 別にあんたの覚えられたって何も苦労しないし。 一生ここで生活なんだから」
言いながら私は病室のドアに手を掛けた。 もう、ここに来ることは無いだろう。 次は誰か他の人に回して貰おう。 多少、私の評価がそれで落ちたって構わない。 これ以上ここには居たくないし、来たくない。
「葉山さ……歌音ちゃん」
後ろから聞こえてくる声は、心無しか先程よりも活気がある声だった。 多分、気のせいだと思うけど。
「歌音ちゃん、最後に一つ聞きたい」
「……何よ?」
振り返ることはせずに、扉に手を掛けたままで返事をする。
「歌音ちゃんは、どうやって葉山歌音になったの?」
「そんなの、決まっているでしょ」
その質問は、私にとって初めての質問だ。 好きな食べ物は何かとか、好きな色は何かとか、夢は何かとか、将来何になりたいのかとか、そういう聞き慣れて答え慣れた質問では無くて……初めて、私が答える質問。
「私は、他人の事を信じたんじゃない。 希望とか夢とか、そういうのを信じたんじゃない。 変わりたいとか頑張りたいとか、そういうのに憧れたわけでも無い」
「私は、私自身を信じたのよ」
変われると、変わろうと、強く想って。 そうしてきたんだ。
「そっか。 ありがとう」
馬鹿にされると思ったのだが、少女は優しそうに笑って言った。
それにやはり私は腹が立ち、素っ気なく。
「それじゃ、さようなら」
そうやって返事をして、そうやって私は、病室を後にする。 既に外は夕方。 最後に見たその少女の目は輝いて見えて、入った時に見た顔よりも、断然良い顔をしてたのはきっと、気のせいだ。
こうして、初めての出遭いは最悪の形で終わった。




