その昔、一人の少女に会ったことと、遭ったことと、あったこと。
「葉山さーん、ちょっと良いかしら?」
授業が全部終わって、ようやく帰れるってところで担任の教師がそんな事を言いながら、私の席にやってきた。 うわー、なんか面倒くさそうなこと、また押し付けられる? もしかして。
「はい、何ですか? ミミ先生」
「もう、ミミって呼ばないでちゃんと宮下って呼びなさい。 分かった? 葉山歌音さん」
宮下瑞奈。 苗字と名前から一文字取って、あだ名はミミ。 もうそんな可愛らしいあだ名を付けられる年齢でも無いってのに、そう呼ぶと若干嬉しそうにするから仕方無く、本当に仕方無くそう呼ぶ事にしている。 学校で嫌な事のワースト5に入るくらいの嫌さ加減だよ全く。
「あはは、ごめんなさい、宮下先生。 それで、何か私に用事ですか?」
「うん、えっとね。 天羽さんって覚えてるかな? 一年生の時、一緒のクラスだった子なんだけど」
覚えてるわけ無いだろ!! 一体今、何年生だと思ってるの? この女。 三年生よ、三年生。 一年の時の連中なんてもう記憶の彼方だっつーの!
「……すいません、私少し物覚えが悪くて」
こつんと頭を自分で叩きながら言う。 こういう細かい仕草に、馬鹿な男は騙されるのだ。 そう本に書いてあった。
「そうなんだ。 あ、でも今も同じクラスだよ?」
……最初にそれを言えっての!! 馬鹿なのこいつ? 普通先にそっちを言わない? 今同じクラスならさすがの私だってすぐに分かるっての。
あれ? でも天羽って……誰だろう?
「そうなんですか? 居ましたっけ? 天羽さんって」
「あー、ちょっと訳アリでね。 そこで葉山さんに頼みたい事があるの」
少々失言だったかな。 これでもしも天羽って人が今この教室内に居たら、そこから嫌な噂が広まるかもしれない。 ま、多少の噂くらいならどうにでもなるけど。
「私に?」
「そそ。 実は、天羽さんって今入院中でね、クラスの代表としてお見舞いに行って欲しいなって要望があって」
……誰だ。 誰だ要望した馬鹿は。 確かにまぁ、気持ちは分かる。 クラスで一番人気があって、優等生で美人で誰にでも優しい私なら、そういうのは打って付けだろう。
けどね、ちょっと待て。 それは皆が見ている葉山歌音であって、私が今こうして動かしている葉山歌音では無い。 皆が見ている葉山さんなら、そりゃもう喜んで「ええ? 私で良いんですか? 逆に迷惑掛けちゃうんじゃ……」とか言うだろう。 で、私が知ってる葉山歌音、本来の葉山歌音なら「は? そんな病人のとこ行って病気移されたら責任取れんの? あんたが行け、年増女」って言うだろう。
そして、私は答える。
「ええ? 私で良いんですか? 逆に迷惑掛けちゃうんじゃ……」
「そんな事無いよ! 葉山さんって皆から人気あるでしょ? だから、きっと天羽さんからも気に入られるはずだから大丈夫!」
そう言いながら、宮下先生は私の肩を叩く。 笑顔で、優しそうに嬉しそうに。 私にはそれが、とても醜く見えて仕方なかった。
結局、この教師は疎ましく思っているのだろう。 病気で入院して登校してこない生徒。 勿論、宿題やプリントなどは全て教師が届けないといけない。 この宮下って奴は確か……今言った病院の名前とは正反対に住んでいる筈。
なるほど、つまりは私に面倒な事を押し付けたわけだ。 本当に醜い、気持ち悪い。 だったら素直に言えば良いのに。 あいつの所まで行くのが面倒だから、家の近いあんたが行けって。
「あはは、嬉しい事言ってくれますね。 ミミ先生。 家も近いですし、分かりました!」
ま、結局私もそんな醜い奴の一人なんだけど。
「あーだる……」
さすがに病気を移される事は無いとは思う。 もしもそんな病気で入院しているなら、面会だって出来ないだろうし。 でも面倒な物は面倒だ。 帰ったら最近暇潰し程度に読んでる裁縫本の続きを読もうと思ってたのに。
読むだけで実践はしないけどね。 読んで「へえ、こうやって縫っているんだ」と頭に入れておいて、学校での家庭科の授業で役立てるだけだ。 裁縫が出来る女子ってポイント高いらしいしね。
そうやって日頃からコツコツと色々な本を読んで、無駄な知識を仕入れている。 この前は男子からモテる100の方法。 という本を読んだっけ。 なんか珍妙な事が書いてあったような。 えーっと、なんだっけ?
ああ、そうそう。 人と話すのが苦手な振りをする。 だった。 実際そんな奴が居たら省かれるだけでしょ。 女子の私目線から見ても面倒だしウザいし。 男子からしても一緒だと思う。 そんな奴に近づく男子なんてよっぽどの馬鹿か変わり者。 それかよっぽどのお人好し。
私は少なくとも、お近づきにはなりたくない。 賢く、誰にも深入りはされず、私は人気者として生きて行くと決めたんだ。 あの日、パパとママがいなくなって、周りの人間全員が私に哀れみの目を向けた時に。
一番最初は、小学校の時だったっけ。 先生が何かある度に声を掛けてきて、それに物凄く腹が立った。
どうして私だけをそういう扱いにするのか、どうして私だけに構うのか、どうして他の子と私を見る目が違うのか。
私の中では、両親なんて居ても居なくても変わらない存在。 だってもう気付いた時には居なかったんだから、それは仕方無い事だと思う。
その一件について、私ははっきりと整理出来て、何も気にしていないのに。
周りはいつだって、私を哀れみ、可哀想な子として見ていた。 授業参観が始まれば、終わった後に先生が褒めに来る。 あの問題良く出来たね、なんて事を言って。
授業が終わって保護者達が帰る時、私を知っている人は皆、私に声を掛ける。 頭良いんだね、とか。
そんな優しさがウザくて、ムカついて、腹が立つ。 どうしようも無い怒りで、どうしようも無い物。
だって、私には両親が居ないから。 私はきっと、可哀想な子なんだと。 そうやって思われてしまうのは仕方の無い事で、それもまた、どうしようも無い事なんだ。
……だから私は、他人より優れようと思った。
他人より頭が良ければ、勉強を教えてくれと周りが寄ってくる。
他人より可愛ければ、容姿を褒められもする。
他人より人との接し方が上手ければ、誰でも気軽に話し掛けてくる。
他人よりも正義感が強ければ、あいつはまとめ役に向いていると、教師達から評価される。
他人よりもドジな所があれば、意外な一面として受け入れられる。
他人よりも優しければ、皆は私にも優しくなる。
他人よりも明るい性格ならば、あいつが居ると楽しいと言われて、遊びに良く誘われる。
他人よりも真面目ならば、あいつの言う事は聞いた方がいいとなる。
他人よりも、他人よりも、他人よりも他人よりも他人よりも。
そうして、そうやって、私は私になった。
「うわ、ここ? ボロすぎでしょ……廃墟かっつーの」
誰も居ない事を良いことに、言いたい放題。 お婆ちゃんの前では基本はこんな感じだ。 あの人は孫が可愛くて可愛くて目に入れても痛くない存在だとでも思っているのだろう。 私がどれだけ口悪く言っても、あの人は笑って見ているんだ。
そしてそこが、私が今、唯一肩の力を抜いてゆっくり出来る場所。 帰り際に駄菓子を一つ拝借しても、お婆ちゃんは笑って私の頭を撫でたりする。 もうすぐ高校生になるっていうのに、いつまでも子供扱いはやめて欲しいよね。
念の為に言っておくけど、私は別にお婆ちゃんの事が嫌いと言う訳では無い。 私の唯一の家族だし、唯一本当の私を知っている人だ。 かと言っても、お婆ちゃんはもう足が悪く外に出ることが滅多にないから、だけど。
お婆ちゃんの作る料理は美味しいし、食べていて飽きない。 一緒に料理を作る時もあれば、私が作る事もある。 変に薄かったりすると「病人扱いするな」と言って、変に濃かったりすると「殺す気か」と冗談交じりに言ってくる。
……まぁ、一応。 私はそんなお婆ちゃんが好きだったりもする。
「すいませーん、受付ってここですか?」
病院の中へ入ると、中は意外にも意外、内装はかなり綺麗だ。 床もピカピカ光っているし、壁にもシミ等が見当たらない。 外見から比べて、随分綺麗な中だなぁ、なんて思う。 病院も人みたいに外見よりも中身が大事だったりするのかな? んー、でもやっぱり外見が良くないと入る人は躊躇するよね?
言ってから自分に対する皮肉なんじゃないかと思って、かぶりを振る。 あーあー、よし。 私は美人で優等生で優しい葉山歌音だ。
「あ、ごめんなさい。 どうされましたか?」
若い女の人が、私に気付いて小走りで駆けて来ると、そう尋ねて来た。 おお、やっぱり女子としては白衣にちょっと憧れるかも。
「えっと、ここに入院している天羽さんと面会をしたいんですけど……」
「あら、羽美ちゃんのお友達? いっつも学校の先生が来てくれるから、同い年の子は珍しいなぁ」
「あはは。 先生は今日、ちょっと忙しいみたいで。 代わりに私が」
にっこり笑って言う。 看護婦はそれを見て同じように笑って「優しいんですね」と言う。 こういうのに騙されるのは同い年の馬鹿連中だけだと思っていたけど、案外年上の大人も引っ掛かるんだよね。 楽しいことこの上無い。
「じゃあ、わたしが案内しましょうか。 わたし、結構羽美ちゃんとは仲良くてね」
看護婦はそんなどうでも良いことを話しながら廊下を歩き、階段を上る。 そんな話に付き合わされる身にもなって欲しいっての。
「それで、海が好きなんだって。 ほら、見てこの写真」
「……これは?」
「羽美ちゃんのお姉ちゃんと、ご両親。 夜になるとね、星がいっぱい輝いて、波の音と風の音を聞きながら見ていると、心が安らぐって」
「そうなんですか。 それは気持ちよさそうですね、天羽さんちょっと羨ましいなぁ」
まぁ、一回くらいはそういう体験もしてみたいかも。 本当にたまーにで良いけど、そういう休憩は大切だし。 次の日からまた、心が一新出来るしね。
「……ううん、このお話は羽美ちゃんのお姉さんからのお話。 それを聞いた羽美ちゃんが、わたしに良く「いつか行きたいなぁ」って話してくれるんだ」
「行けると良いですね、その海に」
「……そうね」
私の言葉に、看護婦は言いづらそうに返す。 その言葉だけで、状況が芳しく無い事は分かった。
「あの、天羽さんの病気って……すぐに治るんですか?」
「……正直に言うとね、本人も知っているんだけど。 中学生の間はもう、厳しいって。 羽美ちゃんの頑張り次第なんだけど、今のままじゃ……ちょっといつになるか分からないわね」
「今のままじゃ?」
「うん。 本人、凄く落ち込んでいるんだ。 なんで私だけ、ってね。 そういうのは本当に、病気の治りを遅くするからいけないんだけど」
「……ちょっと難しい、ですよね。 それは」
「そう。 だから、えーっと」
「あ、葉山です。 葉山歌音」
「歌音ちゃん? 可愛いお名前ね。 歌音ちゃんが励ましてあげたら、羽美ちゃんも頑張れるかもしれない。 だから、看護婦であるわたしがお願いするのもおかしいんだけど……お願い」
この人は、少なくとも私よりは優しい人だ。 目を見て分かる。 本当に天羽という少女の事を心配しているのだ。
正直な感想を言うと、他人の為にどうしてここまで思えるのかが分からない。 だって、別にその天羽という少女がこれから一生入院してようがしてまいが、この人には関係ない事だと思うから。 勿論、私にも関係無い。 極端に言ってしまえば、その少女が今死んだとしても別に私には関係の無い事だ。 私の生き方は揺るがないし、それが切っ掛けで変えようとも思わない。 だから私は答える。
「はい。 力不足かもしれないですが、話してみます」
そう、笑って言う。 偽って、騙して。 そうすることで葉山歌音は葉山歌音たり得るのだ。




