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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 三学期
99/156

修学旅行三日目

 清々しく朝を迎えた。勢いよく起き上がり、びっこを引きながら朝の支度をする。お腹が空いていた。こんなに強く何かを食べたいと思うのは久しぶりだ。朝食はブッフェスタイルと決まっているので、足を怪我しているわたしは困惑する。隣のベッドの舞ちゃんは、昨日の疲れが取れないのかまだ寝ている。誰かに朝食を手伝ってもらいたいけれど、舞ちゃんには頼みにくいのでそのまま部屋を出る。同じ部屋なのに、舞ちゃんとはまだ一言も口を利いていない。目を合わせてすらいない。

 部屋を出て、エレベータで二階に向かう。一軒家のわが家以外の場所で朝を迎えるということは滅多にないので、朝のエレベータというのは朝の夢の続きにまだいるように感じさせる。エレベータが停まり、ほとんど左足だけで大きな音を立てながら歩き出す。大広間には、まばらに人が集まっていた。

 わたしたちは二階の大広間で毎朝ホームルームを行う。学年全体でやるので、日に焼けて白っぽくなった赤い絨毯の部屋には早起きをした他のクラスの生徒が集まっていた。わたしは疲れたので隅の椅子に座った。そのままぼんやりしながら渚にメールを打つ。誰かが前に立ったので、見上げる。総一郎だったので、動揺して携帯電話を落としてしまった。慌てふためくわたしの目の前で、総一郎は携帯電話を拾ってくれた。携帯電話にはまだあのコウモリのイヤホンジャックが挿してある。しつこい女だと思われたかな、と少し迷いながら受け取る。

「あの、おはよう」

 どもりながら言うと、総一郎がかすかに笑った。わたしは嬉しくて飛び上がりそうになりながら彼の顔を凝視する。総一郎はわたしの右足を見つめながら返す。

「おはよう。足はどう?」

「あ、うん。痛いけど大丈夫。やっぱり捻挫だって。駄目だね、わたしって運動音痴で。怪我人第一号だね。痛いんだけど皆が助けてくれるから平気だよ。それで、あの……」

 総一郎を引き留めるために一生懸命喋ったのだが、取り留めがなくなってしまった。わたしは総一郎の顔を見たまま言葉が出なくなり、ついに固まった。総一郎はうなずきき、「よかったよ」と言ってからどこかへ行ってしまった。わたしは自分の動揺に呆れ返る。そのまま力尽きて体全体がばらばらに崩れ落ちる感じがする。渚に送りかけていたメールを書き直す。総一郎とうまく話せなかったもどかしさを事細かに書いていたら、渚本人がやってきて挨拶をしてくれた。早朝の彼女は格別の美しさだ。淡い色の髪と目が、日に当たってきらきら輝いている。目は大きくて、透き通っていて、虹彩の模様がよく見える。吸い込まれそうだ。

「わたしも渚みたいにきれいだったら総一郎もまた好きになってくれたかも」

 わたしの第一声はそれで、渚を大いに呆れさせた。

「総一郎があたしを好きになったことなんて一度もないじゃん。馬鹿なこと言ってないの。恋する乙女は本当に馬鹿」

 恋する乙女か。そうかもしれない。わたしは総一郎に片思いをしているのだ。初めて総一郎を好きになったときのことを思い出す。あのときは好きになった瞬間から両思いだったのだとわかっている。だからか相手の気持ちがわからない今の片思いの状態は、ひどく舞い上がる。昨日までの落ち込んだ気分が嘘のように。失恋から片思いに変わったのは、総一郎がわたしを助けてくれたからだ。どんなに気をつけても期待してしまうからこんなに心拍数が上がるのだ。

「歌子は本当にかわいいから大丈夫だよ。さあ、ホームルームが始まるよ。早く行こう」

 渚がわたしを促す。わたしは渚の言葉に念を押して確認し、馬鹿みたいだと思いながら列に並んだ。

 ホームルームのあとの朝食は、今までにないおいしさだった。焼きたてのパンを、いくつも口にした。補助をしてくれる渚が笑ってしまうくらいに、わたしは食べた。少し太れるかもしれない。わたしは明るい気分が膨らんでいくのを感じた。


     *


 日中はホテルのロビーで過ごし、救護係のような仕事をした。とは言っても大きな怪我をする生徒は一人もいなくて、わたしは風邪を引いてしまった他のクラスの女子と一緒にぼんやり外のスキー場を眺めていた。大きな二重になったガラスの窓の外は真っ白で、本当に家から離れたのだな、という気がする。

 隣に座っていた女子は気だるげに立ち上がり、近くにいた中村先生に部屋で休んでいいか訊いていた。中村先生がうなずき、一緒にエレベータに向かって歩いていく。

 わたしは外の様子をもう一度見た。スキー客や同級生たちは色とりどりのスキーウェアを着て、白い雪にドットのような模様を作っていた。わたしは総一郎が何かの理由で飛び込んでくるのを待っていた。そんなことは、なかったけれど。

 総一郎は王先輩とつき合っているのだろうか。そうではないとしたら、わたしのことはまだ好きだろうか。仮定に仮定を重ねて、わたしは頭の中であみだくじを作っていた。たくさんの可能性の中で、右往左往していた。


     *


 スキー講習の時間が終わったので、お風呂のあとに部屋に戻ってぼんやりしていた。舞ちゃんはあやちゃんが来ると部屋を出て行ってしまった。あやちゃんはもじもじした様子は相変わらずだったが、わたしを完全に無視しているという点は違っていた。舞ちゃんがわたしのことを嫌っていると、あやちゃんまでわたしを無視するというのがよくわからない。まあ、あやちゃんは元々わたしのことが好きではなかったようだし、大した変化ではないな、と思い直す。

 部屋に舞ちゃんがいなくなったので、渚を呼ぶことにした。メールを打ち、送信する。ベッドの縁に座った状態で寝転んだ。総一郎の返事はまだもらっていなくて、もう二度ともらえないのかもしれないと思い始めていた。それでもまたそこから選択肢が現れ、わたしはあみだくじに誘い込まれる。

 ドアがノックされた。大急ぎで歩いて覗き穴を覗く。渚がにこにこ笑って立っていた。何かプレゼントを持ってきたような、そんな笑顔。ドアを開けると、渚が入ってきて廊下にいる誰かを手招きした。不思議に思っていると、ドアの陰からにょきっと岸の顔が出てきた。びっくりした。だって岸とはわたしと総一郎が仲違いして以来顔を合わせていなかったから。岸はにっこり笑い、更に後ろのほうを見た。もう一人の人物がおずおずと姿を現し、わたしは痛いくらい心臓が大きく鼓動を打つのを感じた。

「どうしたの? 総一郎」

 わたしはささやくような声を出す。総一郎はかなり迷ったような顔で廊下に立ち尽くし、わたしの顔を見られないでいた。Tシャツにスウェット姿で、寝間着っぽさが表れている。渚がひそひそと言う。

「歌子、早く入れて。誰かに見つかっちゃう」

 そういえば男子は女子の部屋に行くことができないのだった。慌てて三人を招き入れ、ドアを閉める。わたしと舞ちゃんのささやかな二人部屋に、四人の人間が集まる。わたしはびっこを引きながら部屋の奥に三人を案内した。

「歌子、座ってていいよ。足、辛いでしょ」

 渚がわたしをベッドに座らせた。そわそわした気分は落ち着かなかったけれど。三人はめいめいの位置につく。

「女子の部屋ってやっぱりきれいなんだなあ。おれの部屋は地獄の有様だよ」

 岸が口を開く。相変わらず剽軽な笑顔。

「人それぞれだよ。わたしは同室の子が几帳面だから。散らかりまくってる部屋もあるよ」

「そうなの? 何だ。そんなもんか」

 岸と話すのは本当に久しぶりなので、とても嬉しかった。あのころと変わらない雰囲気で、優しく接してくれる。

「護はさ、歌子の怪我を本当に心配してたんだよ。落ち込んでないか、痛がってないか、あたしに何度も訊いてきたんだ」

 渚が言う。岸は目を泳がせ苦笑いをする。

「ありがとう、岸」

 わたしが笑うと、岸もにっこり笑う。

 ずっと黙っていた総一郎が、わたしを見た。どきっとして目を合わせる。総一郎は、強ばった表情でわたしに訊いた。

「今は、どれくらい痛い?」

「うん。あんまり変わってないけど、何もしてないときは痛みを忘れるよ。大丈夫」

 とても緊張した。でも朝のように取り留めなくはならなかった。頭の中で色々考えるのも、とまった。気分が落ち着いてくるのを感じる。

「総一郎は、どれくらいスキーうまくなった?」

「まだ中級だよ。上級を滑るのはインストラクターが許してくれないみたい。スキー経験者や運動できるやつも、中級でくすぶって文句ばっか言ってる」

「そっか」

 わたしは笑みを作れているのを感じた。総一郎もかすかに笑い、わたしはこっそり息を吐いた。

「歌子、あたしと護でジュース買ってくるね」

 渚がさりげなく言った言葉に、わたしは初めて動揺した。岸も立ち上がって笑っている。二人きりにする気だ。まだ覚悟ができていないわたしは思考を停止させ、出ていく二人を見つめ続けた。

 少しの間、黙り込んだ。わたしは上目遣いに総一郎を見た。総一郎はわたしをじっと見つめていた。どきどきする。

「久しぶりだね、こうして四人でいるのって」

 わたしが言うと、総一郎はうなずいた。

「岸はわたしのこと、心配してくれてたんだね」

「何かおかしいって気づかない?」

「え?」

 総一郎の言葉に、わたしはきょとんとする。総一郎はさっきより柔らかく笑っていた。

「岸は歌子が怪我して、すぐ雨宮に具合を訊ける状態にいたんだよ。おかしくないか?」

「あっ」

「あいつらずっと内通してたんだよ」

 そういえば、少しおかしかった。渚が言っていた作戦会議の相手もきっと岸だ。総一郎が説明する。渚と岸は、それぞれわたしと総一郎の味方のふりをして、こっそり情報交換をしていたのだという。

「くそー、全然気づかなかった。あいつら教室では目も合わせないし」

「わたしも」

 わたしは総一郎に同意した。それから、二人で目を見合わせて笑った。久しぶりの感じに、とてもうきうきした気分になった。それに、誕生日に渚が誰かからもらっていたプレゼントは、きっと岸からのものだ。二人はまた接近しているのだろうか。わたしはくすくす笑う。総一郎はそんなわたしをじっと見つめる。

「それで、岸から聞いたんだけど」

「ん?」

「浅井にまた告白されたって本当?」

 わたしは総一郎から視線を外さず、うなずいた。

「断ったって、本当?」

 もう一度、うなずく。

「おれのこと、まだ好きって本当?」

 何度もうなずく。それから一言、

「好きだよ」

 と答えた。総一郎は、表情を変えずにうなずいた。

「総一郎、今彼女はいる?」

 王先輩の名前を出さずに訊いた。総一郎は首を振る。

「誰ともつき合ってない」

 舞い上がる一方、本当に? と心の中で訊く。だってあんなに仲がよさそうだったのに。わたしのベッドの離れた場所に座っていた総一郎は、そのままの位置でこう言った。

「歌子、キスしていい?」

 どきどきする。疑問は飛び去った。わたしは何も考えずにうなずいた。総一郎はベッドの上のわたしに近い場所にやってきた。表情に変化はない。固い表情はあまり崩れない。

 総一郎は、わたしの顔に片手を触れた。指先が震えていた。顔が近づいてくる。それから総一郎は乾いた唇でわたしの唇に触れた。もう一度キスをする。今度は強く押しつける。二度、三度とそれを繰り返し、体を離した。二人で黙ったまま下を見ていると、総一郎は突然わたしを抱きしめた。

「ごめん! 許さなくて、ごめん。本当に、ごめん。おれ、歌子のことが本当に好きなのに、こんなに長い間許せなかった。もう修復できないんじゃないかと思ってた。本当に、ごめん」

 耳元で、総一郎の声が聞こえる。密着した体の感覚がわたしの感情を柔らかくしてくれる。わたしも、許そうと思った。総一郎の頑なな部分や、嫉妬深いところ、心を許しにくいところ、王先輩と仲がいいという事実も、全部許そうと。総一郎はわたしを許してくれたのだ。

「いいよ。わたしはね、総一郎のことが世界で一番好きだから。無視されたって、嫌われたって好きだから」

 総一郎は体をゆっくり離し、わたしの顔を覗き込んだ。目を潤ませ、切ない顔をしていた。わたしはその顔を見て、ぎゅっと抱きしめたくなった。

「ねえ、わたし、また総一郎の彼女になっていい?」

 総一郎が大きくうなずく。わたしは総一郎に笑いかけ、自分から抱きしめた。総一郎の体は、温かくて気持ちがよかった。

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