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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 三学期
98/156

修学旅行二日目

 スキー板に沿って白い雪に跡がついていく。目の前の障害物を右に左に軽々と避ける。滑り終えて、スキー板の向きを一気に変えて雪を飛ばしつつ停止する。ベテランのスキー客の滑りを見てため息をつくわたしたちに、インストラクターが「帰るころにはあれくらいできるようになりましょうね」と笑った。女性のインストラクターで、ゴーグルを外したらそこ以外日焼けしているとわかった。内心慌てる。日焼けどめを持ってくるべきだっただろうか。確か山の上というのは雲が少なくて日当たりがいいから、焼けやすかったはずだ。

 わたしたちはホテルで借りたスキーウェアに帽子、ゴーグル、手袋をつけた着膨れした状態の格好にゼッケンをつけ、スキー板を靴に装着してストックを手に持った状態だった。いつもと違う感じがするし、何だか動きにくい。でも、寒さはあまり感じない。

 スキー板で傾斜の少ない雪の坂を登る。体力を使うし何度も繰り返すのがとても面倒くさい。インストラクターによれば、スキー板で歩くことに慣れれば次の段階もうまく行くとのことだが、地道な練習に早くも音を上げそうになっている。

 わたしや夏子たちは、クラスで一番運動音痴だと思う。美登里はバスケ部に入っていたくらいなのでそうでもないけれど。わたしたちはあまり体力がない。ましてやわたしは最近ご飯をあまり食べないので、余計に疲れる。インストラクターもそれがわかっているのか、休憩を入れつつ何度もさせる。他のグループは初心者向けのコースを滑る練習に入っていたりするのに、わたしたちはいつまでも坂を登っている。

「ひーっ。死にそう」

 と夏子が息を荒くして言った。

 休憩に入り、他のクラスのほうを見る。渚が初心者向けのなだらかなコースを滑っていた。身のこなしが滑らかで完璧だ。借り物のスキーウェアにゼッケンをつけて滑っているのに、とても様になっている。軽々と滑り終えると、インストラクターから大袈裟に褒められ、中級コースを滑るグループに入れられていた。羨ましいことだ。

 総一郎はどうしているだろう。もう癖になってしまっているのかもしれないが、わたしはきょろきょろ探した。総一郎は身長でわかった。岸と一緒なので、余計目立つ。二人とも中級コースを滑れるようになったらしい。少し離れたリフト乗り場に歩いていく。滑るところを見たかったなあ、と思う。

 午後になり、昼食を済ませてからも練習は続いた。美登里はとっくに初心者コースを滑れるようになっていた。やがて美術部の二人が初心者コースに行き、残ったわたしと夏子も昼を大きく回ったころにリフトで初心者コースの頂上に向かった。

「あー、滑れるかなあ。心配」

 夏子がため息をつく。わたしもそこには不安があるのでうなずいた。何度も滑り方を教わったとはいえ、初めて本格的に滑るのだ。誰かにぶつかったり、転んでしまったり、とまれなかったりするかもしれない。怖いのに、どんどん頂上が近づく。頂上には降りるのを手伝ってくれるスタッフが待っている。夏子が危なっかしく降りた。わたしも倒れそうになりながらそうした。

 頂上で立ち尽くすわたしと夏子は、お互いに「大丈夫大丈夫」と言い合って手を握り合った。数分そうしたあと、「よし」と夏子が力強い声を上げた。

 歩いて坂の上に立ち、ストックで体を前に押しやる。すうっと滑り出した体が、ゆっくりと加速しながら進んでいく。障害物を避ける必要もなく、夏子は数十秒で下に降りた。とまるのに失敗して転んだようだが、何の問題もないようだ。

 次はわたしの番だ。皆が待っているので少し焦った。ふわふわだと感じられた雪は、もう白い絨毯にしか見えなかった。体が固まった状態で、わたしは滑り出した。

「ハの字、ハの字! スキー板をハの字にしてー!」

 インストラクターの声がかすかに聞こえてきた。わたしはもうおしまいだと思いながら滑った。冷たい風が顔に当たる。スキー板の姿勢は修正できない。どんどん曲がっていく。他のコースに比べて広いはずの初心者コースを、わたしは斜めに滑っていく。体は固まったまま動かない。そして、一番下のほうでわたしは壁に激突した。体中がびりびりとしびれた。特に右足首が痛い。ずきずき痛む。ああ、わたしは本当に運動音痴だ、と思いながら、ほうほうの体で一番下に降りた。

「大丈夫?」

 インストラクターや美登里たちが駆け寄ってくる。わたしは恥ずかしいのをこらえ、「大丈夫です」と笑った。見れば田中先生や中村先生が走ってこちらに来ようとし、他のクラスの生徒もじろじろ見て騒いでいる。

「立ってみて」

 インストラクターの言うとおり、立とうとした。足首がずきんと痛んだ。痛くて立てない。壁にぶつかったあと、下まで降りてこられたのは必死だったからだろう。嘘、と声が出た。せっかくの修学旅行で怪我をするなんて、信じられない。

「どうしたんですか?」

 声が降ってきて、わたしはどきっとした。見上げると、総一郎が近くにいてわたしを見下ろしていた。ゴーグルをつけているので、顔はよく見えない。インストラクターが「捻挫かもしれないね」とわたしに言う。あまりのショックに、わたしは泣き出してしまった。ここしばらくの悲しみがどっと押し寄せ、泣きじゃくる。総一郎が見ているのに。こんな姿なんか見せたくなかった。どうして嫌なことばかり起こるのだろう。周りの生徒やインストラクターが、励ましようもなく黙っている。

「とりあえず、ホテルのロビーに連れていきます」

 総一郎が突然そう言った。わたしはびっくりして泣きやんだ。総一郎が? わたしを? 総一郎は自分のスキー板を近くにいた岸に渡すと、輪の中心にいるわたしのところに身を乗り出し、スキー板を外して抱き上げた。体が軽々と宙に浮く。

「えっ、えっ」

「インストラクターさんは田中先生に事情を説明してください。おれは彼女をホテルに連れて行くので」

 やっと田中先生たちが来た。田中先生は驚いたようにわたしたちを見、総一郎の説明を聞くとインストラクターのほうに向かった。中村先生は一緒についてくる。真っ白な地面の上で、ざく、ざく、と総一郎の足音が響く。彼の鋭い顔立ちが、かなり近くに感じられる。背中と足が彼の腕に支えられている感覚が、スキーウェア越しにもわかる。他の生徒の注目を集めているのはわかっている。嬉しさが、心臓の鼓動を早める。

「ごめんね。重いでしょ」

 と言うと、総一郎は笑わないで、

「いや、軽いよ」

 と答えた。ホテルに着き、ロビーのソファーに座らされる。中村先生は開いている病院を探すため、携帯電話を持ってどこかへ行ってしまった。総一郎は、わたしを一人きりにしないよう、そばにいてくれた。赤を基調とした広いロビーには、ぽつりぽつりとしか人がいない。

「痛い?」

 総一郎が口を開いた。わたしはどきどきしながらうなずく。

「うん、少し」

「無茶するからだよ」

「うん、ちょっと焦っちゃって」

「そう」

 沈黙が落ちる。わたしはずっと彼の顔を見られなかったのだが、ようやく勇気を出して顔を上げた。彼は同じソファーのわたしから少し離れた位置に座り、わたしの顔を見ていた。ゴーグルを外していて、心配そうな顔がよく見えた。

「あの、総一郎」

「何?」

「わたし、まだ総一郎のこと、好き」

 勇気を振り絞って言った。もう二度と言うことができないと思っていた言葉を。総一郎は目を見開き、ゆっくりと前を向いた。わたしは息が上がりそうな気分で彼の横顔を凝視し続けた。

「おれは……」

「あ、町田さん。病院に連絡ついたわよ」

 中村先生がやってきて、途端に総一郎は腰を上げた。

「じゃ、おれは行きます」

 総一郎は中村先生にそう声をかけ、行ってしまった。わたしは取り残された気分で、その後ろ姿を見ていた。言葉の続きが聞きたかった。


     *


 病院に行くと、案の定捻挫だと診断された。一週間ほど安静にしなくてはならないらしい。幸いにもわたし一人で帰ることはできないらしく、修学旅行に参加してもいいのだという。スキーは滑ることができないけれど、皆の応援をしているほうが性に合っているし、他の時間は友達と話したりできるので嬉しい。

 部屋で、わたしは総一郎のことばかり考えて過ごした。あの言葉の先には希望なんてないだろうけれど、期待をしてしまう。でも、「ごめん、おれは王先輩とつき合ってるから」と返ってきたら、完全に諦めようと思う。

 渚が部屋に来て、突然わたしに謝った。

「ごめんね! 怪我したときすぐに行けなくて」

「いいよ。だって中級コースで滑ってたんでしょ?」

「うん。遠いから気づかなかったんだ」

 じゃあ、総一郎と岸がすぐにやってきたのは何故だろう。渚に訊くと、

「総一郎が急いで滑っていったから何だろうって思ったんだけど、歌子が怪我したからみたい。よく見てるんだよ、きっと」

 それに岸がついていったんでしょ、と笑う。わたしは嬉しくてにこにこする。

「脈あり、でしょ?」

 渚は微笑む。わたしは首を振る。でも笑みはとめられない。

「今日、まだ好きだって言ったんだ。返事はもらえなかったけど、これで駄目なら諦める」

 わたしは笑った。久しぶりの、清々しい気分だった。

 わたしと総一郎のことで、クラスの友達は大騒ぎをした。夏子が「お姫様抱っこなんて漫画の世界」と言い、美登里が「確かに」とうなずき、光が「おめでとう。よりが戻ったんだね」と早とちりをする。わたしはどんどん嬉しさが増していくのを感じた。

 ただ、あまり期待はしないように気をつけた。

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