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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 三学期
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修学旅行一日目

 修学旅行のしおり作りも済み、必要なものは全て揃った。わたしたち二年生は毎日浮き立った気分で当日を待っていた。一月の寒さは日々厳しさを増し、北のほうにあるN県のスキー場はもっとだろうと思われたのだが、わたしと渚は空気が冷えきった廊下を歩きながら楽しく修学旅行の話をした。

 わたしは総一郎に偶然ぶつかった日から、少しいい気分になっていた。彼が今誰かの恋人であろうと、わたしは彼から言葉をもらえたのだ。何だか片思いの小学生のようだが、わたしは幸せなのだから、いいのだ。

 階段前の購買部に行く途中だった。わたしが箸を忘れたので、割り箸を買うために。でも、目的地にたどり着いたとき、わたしはどきっとして一瞬立ちどまってしまった。

 総一郎と王先輩が、二人で立って話をしていた。二人とも購買部のほうを向き、こちらには気づいていない。逃げようとしたら、渚が腕を掴んで二人の後ろに並ばせる。確かに買うものがあるのだから逃げる訳にも行かないのだが、どうしてもここからいなくなりたかった。

 王先輩はやはり総一郎に近づきすぎて見えた。ポニーテールの髪が艶々と輝いている。どんな手入れをしているのだろうなとぼんやり思う。総一郎の横顔は笑っていて、楽しそうだ。最近隣に並ぶことなどなかったので、余計に背が高く見えた。

「ソウ、修学旅行で羽目を外さないようにね」

 王先輩の、弦楽器のような声。こんなにきれいで豊かな声だったんだ、と思う。多分満たされているからだ、と考えて悲しくなる。

「スキー合宿なんですよ。羽目の外しようがないですよ。ケイカ先輩のときも、ホテルとスキー場の往復だけだったでしょう」

 総一郎が笑う。その笑い声は王先輩に向けられているのだ。もう一度逃げようとしたら、渚が目で「ここにいろ」と合図する。どうしてこんな場面で盗み聞きまがいのことなんかしなければならないのだろう。

「そうだね。でもね、わたしが言いたいのは……」

 王先輩が振り向き、わたしに目を留めた。わたしはわずかに体をすくめてしまった。目つきも弱々しかっただろうと思う。それはかなり屈辱的なことだった。だって、負けている人間の態度が丸出しだったから。

 王先輩につられて総一郎もこちらを見た。唇が「あっ」という形に開かれ、また閉じた。彼にまた見られるなら、こんな弱った小動物のような姿ではなく、楽しく生き生きとしている姿を見せたかった。わたしは泣きそうになり、それを見られる前に早足で教室に向かった。

 廊下で深呼吸をしていると、少し経ってから渚がわたしの割り箸を買って来てくれた。わたしは渚と両手を繋ぎ、廊下で唇を噛みしめ、まばたきを何度もし、どうにか落ち着いた気分になると、笑顔を作って教室に入った。


     *


 修学旅行の日が来た。学校に行く前に体重計に載ると、三キロ落ちていた。最後に量ったのは三ヶ月前で、急激に落ちたわけでもないだろうけれど、皆から「痩せた」と心配されるのも当然だ。元々太ってはいなかったのもあり、鎖骨が以前よりくっきりしていた。ご飯があまりたくさん入らないので、量を減らしてもらっていたせいだろう。

 こういうことが、いつまで続くのだろう、と思う。総一郎のことを忘れて福々と太れる日は来るのだろうか。でも、忘れたくない、と思うわたしもいて、わたしは二つに引き裂かれる思いだ。

 母に買ってもらった赤くて大きなスーツケースに様々な荷物を詰め込んだ。玄関にそれを持っていき、靴を履き終えてからわたしは笑顔を作る。後ろでわたしを見下ろしていた母に、

「行ってきます」

 と元気に声をかける。母は心配そうに笑い、

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 と言った。わたしは手を振って家を出た。


     *


「というわけで、皆はしゃぎすぎないように」

 田中先生の簡潔でいつもと同じ内容の話が終わった。クラスメイトたちはいつもより私語が多い。田中先生はそれをいちいち注意する。

「あと、男子も女子も、異性の部屋には行くなよ。これは絶対だ。そして、他のお客さんの迷惑になるから、夜中に騒いだりしないように」

 えーっ、と声を上げる生徒がいて、田中先生は彼をじろっとにらみつける。男子と女子の部屋は違う階になっているので、おそらくそれは難しいだろう。きっと先生たちも見張っているはずだ。

 クラスメイトたちは教室の外に停まった何台もの大型バスに興奮していた。これから行くのだという気分が高まっている。一組から三組まではもう乗車が終わっていて、四組は今から乗ることになる。

 田中先生の合図でバスのある校舎前に向かう。わたしはスーツケースを抱え、一階まで苦労して降りた。何だか以前より体力がない。やっと降りて目的地にたどり着くと、バスの運転手にスーツケースを渡せてほっとした。

「歌子、一緒に座ろ」

 光に声をかけられた。バスの座席は二人一組だ。笑ってうなずく。夏子たちはわたしが光と座るのを見ると、その前の席を選んで座った。

「歌子、最近本当に元気ないよ」

 座ってから、光がわたしに声をかけた。本当に心配そうだ。わたしはうなずき、

「大丈夫だよ。修学旅行で何かいいことが起きると思うし」

 と答える。本当はそんなこと、思ってもいなかったけれど。光は奥二重の目を細める。

「いいことね。いいこと、起きるといいね」

 元気いっぱいに励まされたので、そうなる気がしてきた。わたしは彼女から渡された甘いお菓子を食べて、久しぶりに満たされた気分になった。

 バスは数時間かけて空港に向かい、わたしたちは国内線の飛行機に乗った。バスでも飛行機でもざわざわと騒がしいわたしたちに、田中先生は呆れ顔だ。幾何学的な設計のN県の空港に着くと、先生はわたしたちを並ばせて半分怒りながらわたしたちに説教した。

「本当に、浮かれ気分でいるんじゃないぞ。『修学』旅行なんだからな。お前たちはスキー合宿を通して共同生活の大切さを学ぶんだ」

 わたしはその話を聞きながらも、二組の列の方を見ていた。総一郎の姿が目に入って仕方がなかった。短すぎるくらいの髪も、ひょろっとした体も相変わらず。ふと、視線が合った。でも、昔のように微笑んではくれず、すぐに目を逸らされた。ずきんと心が痛む。わたし、ストーカーみたいだな、と自嘲する。

 上がったり下がったり、忙しい。こんなに不安定で、修学旅行なんてやり通せるのだろうか。少し、不安になった。


     *


「すごい、見て、歌子! 一面の雪だよ!」

 光が叫ぶ。N県にあるスキー場に向かって、山をバスで登ったあと、スキー場が見えた。上りの道も雪だらけだったが、スキー場はもっと白かった。輝く純白の綿でくるまれたようなゲレンデは、温暖な地域で生まれ育ったわたしたちを圧倒した。広々とした地面が全て雪で覆われている。わたしは、わあ、と声を上げた。

「すごーい。きっとふわふわだよ。触りたーい」

 光は楽しくて仕方がない様子だ。すでに足踏みをしている。

「転んでも大丈夫そうだね」

 わたしが言うと、光は笑った。

「転ぶことを前提に考えてたら、上手くならないよ! 大丈夫大丈夫。簡単だから」

 道々光から聞いたのだが、彼女もスキー経験者らしい。ただ、ここまで上質の雪で滑ったことがないらしく、嬉しさがとまらないようだ。

 ヨーロッパの城のように白く大きなホテルの前でバスが停まった。わたしたちは早足で降りた。外に出ると、すさまじい寒さが体を襲った。こちらの空港に着いたときも充分寒かったが、その比ではない。慌てて手持ちのダウンジャケットを着込む。でも、タイツを穿いただけの足が凍えそうに冷たい。剥き出しの顔もだ。わたしたちは大慌てでホテルの中に入った。雪は、確かにふわふわしていた。


     *


 しおりに書いてあった通り、スキーは明日からのようだ。着いたのは夕方だったので、当然だろう。わたしたちは夕食を済ませると、大浴場でお風呂に入り、暖かくなった体でうろうろしてあちこちの部屋にお邪魔した。光の部屋で元気な女子たちとパジャマを見せ合って騒ぎ、夏子の部屋で美登里や夏子と話をした。自分の部屋には舞ちゃんがいるかもしれないので避けている。無言の舞ちゃんと二人で過ごすのは辛い。

 しばらくして、渚の部屋に行った。ドアを開けてもらうと、彼女は一人で部屋にいた。

「今まで何してたの?」

 と訊くと、

「作戦会議」

 と言う。誰と何の会議をしていたのか、教えてくれないのでわたしは不満な顔をした。渚は笑い、いいんだよ、気にしなくて、と歯を見せる。

「ね、歌子」

 渚はわたしをベッドに座らせ、自分も隣に座ると、こちらに身を乗り出してこう言った。

「総一郎のこと、どう思ってる?」

 体全体の血が、一気に動いた気がした。そのあともどきんどきんと脈打つ。

「どうって……、好きだよ」

 言ってから、泣きそうになった。そうだ。好きなんだ。おかしくなってしまうくらいに。実感を伴う言葉が、わたしをぎゅうぎゅう締めつけた。

「明日、話しかけてみない?」

 渚はわたしの顔を覗き込み、首を傾げてそっと訊く。わたしは首を振る。

「自然消滅しちゃったんじゃん。もう無理だよ」

 渚は困ったような顔になった。わたしはため息をつき、

「そんな顔しても、総一郎はわたしを許してくれないもん。無理だよ」

 と言った。渚はわたしの手を取った。ぎゅっと握って、

「そっか。悩ましいね」

 とわたしの中を見透かすようにつぶやいた。

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