拓人に関わる出来事
中間試験の結果が出た。総一郎が一位、渚が二位だそうだ。岸は少しだけ順位が上がったらしい。わたしは順位を更に五つ落としたけれど。総一郎はいつもの澄まし顔、渚が惜しい順位を残念がり、悔しがっている。わたしは落ち込んでいたけれど、三人が慰めてくれたし、総一郎と渚がまた勉強を教えてくれるというので気を取り直していた。また家に呼んでしまおう、と企む。
総一郎と話していると、王先輩を思い出す。書道部に行ってほしくないとも思う。でもわたしはそれをおくびにも出さずに総一郎にべたべたしていた。くっついていると自信を取り戻せるし、総一郎の目を見ていると安心する。総一郎のクラスの真ん中でそんな振る舞いをするわたしに、岸と渚は呆れ顔だ。渚はわかっているから冷やかす程度だけれど、岸は恥ずかしそうにしている。彼らとは対称に、総一郎は平気な顔をしていた。むしろ少し喜んでいるかもしれない。
「そろそろ教えてくれてもいいと思うわけ。総一郎の目標。全く、点数上げやがってさー」
渚はまだ二位だということを悔しがっていた。わたしからすればとても素晴らしい順位だけれど。総一郎は考え、
「いいけど、最初は歌子に教えるよ」
と答える。わたしはぱっと気持ちが明るくなる。
「目標が定まったのは、歌子のお陰なんだよ」
「そうなの?」
わたしが訊くと、総一郎はうなずく。わたしはうきうきと気持ちが浮き立つ。
「じゃあ、今歌子に教えて、次にあたしに教えてね」
渚が文節ごとに強調しながら言うと、総一郎は笑い、
「放課後な。今は教室が人で一杯だから」
「引っ張るなー!」
渚がご飯をぱくっと食べて、唇をうねらせて咀嚼した。わたしと総一郎は笑い、わたしは総一郎を見ながら、
「じゃあ、放課後また来るね」
と笑った。総一郎も、笑った。
*
放課後、わたしは美登里や他の友達と会話を楽しんでから教室を出た。総一郎の教室に行こうとしていたのだ。総一郎の目標って何だろう。わくわくしながら歩く。きっと、たくさん勉強しなければ達成できない目標なんだ、と考えたり、そうなったらどこの大学に入るのだろう、と思ったりした。遠くの大学に行くと言い出しても、応援できるだろうか。そしたら、わたしは総一郎を追いかけて近くの大学に入ればいいんだ。わたしの頭の中は、そういうお気楽な考えで満たされていた。
教室と教室の間にある階段を、拓人の恋人の片桐さんが上ってくる。挨拶をしようとした。けれど、彼女はちらりとわたしを見ると、何だか泣きそうな顔になって走り出してしまった。わたしの横をすり抜け、自分の教室がある方向へ去っていく。わたしは挨拶をするために上げた右手をぱたっと落として、階段の踊り場を見下ろした。拓人が階下から上がってきた。わたしは彼の顔を見て、慌てて駆け下りた。ひどく辛そうな顔だった。朗らかな彼に似合わず、唇を噛みしめている。目は足下を見つめ、のろのろと踊り場を歩いていた。
「拓人、どうしたの?」
踊り場に着いたわたしが開口一番にそう言うと、拓人はわたしをじっと見た。その目が潤みだした。
「……静香と別れた」
涙はこぼれないが、確実に泣いている。わたしは近づき、どうすればいいか迷った。拓人が片桐さんと別れたことには驚いていたが、わたしはまず彼に何かしてあげたいと思ったのだ。
「拓人、元気出してよ」
「こんな状況で元気出すなんて、無理だろ」
拓人は涙声で少し笑った。さりげなく目頭を指でぬぐって。
「わたし、どうすればいいかな」
わたしは拓人にまた一歩近づいた。拓人はまた微笑む。
「優しいなあ、歌子は」
「そういうのはいいから。拓人は何してほしいの?」
わたしの一言が終わった瞬間、拓人はわたしを抱き寄せた。あっという間だった。彼はわたしを抱きしめ、鼻をぐずぐず鳴らして泣いた。わたしは彼の手から逃れるべきだと思ったけれど、彼がどうしても可哀想で、髪の毛にそっと触れ、ぽんぽんと軽く叩いた。
「拓人、離れようか」
「やだ」
「やだじゃないでしょ」
「やだって言ったらやだ」
わたしの頭は彼の頬にくっついているので、妙に声が響く。わたしはやんわりと拓人を引き離した。拓人はもう泣きやんでいた。わたしはほっとして、同時に誰かに見られていることに気づいて二階を見上げた。
総一郎がいた。
体全体がさっと冷えていくのを感じた。総一郎は呆然とわたしたちを見下ろしていた。唇が開き、何か言おうとしてやめた。そのまま踵を返す。わたしは慌てて追いかけた。
「総一郎、違うよ。全然違う」
うまく言えないのをもどかしく思いながら、わたしは階段を上がる。総一郎の背中は角を曲がって見えなくなる。わたしの横を拓人がすごい勢いで走り抜けていき、総一郎の腕を捕まえたのが見えた。
「違うんだって、篠原。おれ、ショックなことがあって歌子に甘えてただけで、歌子は離れようとしてたし、本当に違うんだよ」
「何が違うんだよ!」
総一郎が声を荒らげた。総一郎がそんな声を出すことなんてなかったので、本当に大変なことになってしまったのだと思った。どうしてわたしは拓人を荒っぽく突き飛ばさなかったのだろう。でも、そんなことはできない。拓人はとても可哀想だったし、わたしの大切な幼なじみで……。
「何が違うのか、全然説明できてないだろ」
総一郎はそう言って、拓人を乱暴に振り払い、教室に入る。教室にも廊下にも、生徒はある程度いて、わたしたちを注視していた。総一郎と一緒に、渚が出てきた。とても驚いた様子で、総一郎に何事か訊いた。総一郎はそれを無視して、鞄を持ったまま階段を下りた。帰ろうとしているらしい。
「総一郎、帰らないで。お願い、話を聞いてよ」
わたしは必死で腕にすがる。総一郎は、立ちどまってわたしの手をそっと離してから、無言で階段を下りる。彼が昇降口に着き、靴を履いている間、わたしは懸命に説明した。拓人が泣いていたこと、わたしは拓人をほったらかしにできなかったということ、拓人を拒絶して傷つけたくはなかったということ。総一郎は靴を履き終わり、歩き出す。わたしは靴を突っかけて話を続けようとする。総一郎は、くるっとわたしに振り向いた。それからこう言った。
「ついてこなくていいから」
その言い方はまるで全くの他人に対するようなもので、わたしはぽかんとした。立ちどまり、総一郎が歩いていくのを見る。涙がじわじわ溢れる。後ろから誰かの手がわたしの肩に乗り、振り向くと渚だった。渚は心配そうな顔をしていた。彼女の顔を見ているうちに、わたしは頭の中が熱い炭酸水で満たされていくような気がして、あるとき突然わっと泣き出した。