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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 二学期
89/156

王先輩の話と渚の話

 王先輩について行く。廊下を歩き、突き当たりのアルミの引き戸を引いて非常階段を降り、校庭の中庭に出る。王先輩はどんどん歩く。一体どこに連れて行かれるのかわからないまま、わたしは彼女を追う。中庭を横切って、普段わたしたちがいる棟の向こうに行く。ゴミ捨て場の前で、先輩は立ちどまった。

「うん、ここなら誰も聞かないかな」

 先輩は辺りを見回した。広い屋根つきのゴミ捨て場の辺りには、人がいなかった。運動部の声は聞こえるけれど、見えないくらい遠い。色んな建物の陰になる場所だった。こんな場所で王先輩からされる話なんて、一つしかない。さっきの王先輩の、隠そうともしない総一郎への好意に、わたしはやっと確信を抱いていた。

 王先輩は振り返った。唇にはあの妖艶な笑みが浮かんでいる。口紅を塗ったように赤い。目は輝き、いつも自信に溢れているのがよくわかる。今だって、自信に傷一つついていない。磨かれた玉のような自信。

「わたし、ソウのこと好きなんだ」

 王先輩は言った。わたしはゴミ捨て場の向こうのポプラの木々ばかり見ていた。紅葉を始めた緑の葉。

「だからソウをちょうだい」

「駄目です」

 わたしは一拍も置かずに答えた。先輩は「ふうん」と微笑んだ。

「ソウのこと、好き?」

「好きです」

「どんな風に?」

「いつでも幸せな気持ちでいてほしいって、思ってます」

「そう」

 王先輩は、そのままの笑顔で黙った。手を後ろに回して組んでいる。わたしは自分の表情が固くなっていることに気づいていた。余裕たっぷりの先輩の前で、それは悔しいことのように思われた。

「ソウから好きだって言われた?」

「言われました」

「そうだね。ソウはあなたのこと、好きなんだろうね。今日はそれがよくわかった」

 わたしは黙る。先輩は続ける。

「わたしはソウのことが大好き。大きな子供みたいなところがすごくかわいい。知識が幅広くて、一つ年上のわたしと対等に話せるところも魅力的だと思う」

「でも、総一郎はわたしの恋人です」

 王先輩は、一瞬むっとした顔をした。次の瞬間にはまた微笑んでいたけれど。

「どうせ何の苦労もせずに手に入れたんでしょ? ソウは言ってた。つき合う前は、自分が一方的に好きだったんだって」

 わたしは何か答えようとしたけれど、総一郎があのころのことを王先輩に相談していたことに動揺して、頭が真っ白になってしまった。王先輩は勝ち誇ったように目を輝かせ、「ほら」と笑った。

「別に好きじゃなかったんでしょ?」

「違います」

「わたしはずっと好きだったのにな」

「なら、言えばよかったじゃないですか」

 わたしの声は、聞いたことのないきついものになっていた。声は、そのまま王先輩を責める。

「先輩は、たくさん時間があったんです。わたしよりもたくさん。何もしなかったんなら、総一郎が先輩を好きにならなくても当然でしょう?」

 王先輩は、微笑むのをやめた。唇が震えている。手も、後ろで組むのをやめて、ただ横に垂らしている。それでもはっきりした声で、彼女は言った。

「あなたがいなければ、それでよかったんだよ。わたしは、ソウと仲良くできればそれでよかった。あなたが目の前でソウに大切にされるのを見なければ」

 王先輩は黙った。わたしも黙った。風が吹く。涼しい夕方の風。心臓が激しく鳴っている。怒りのためか、不安のためか、わからなかったけれど。早く戻りたかった。総一郎の顔を見て、笑って、いつもの自分を確認したかった。今なら戻ってもいいと思った。わたしは後ずさろうとした。

「ソウは、教えてくれなかった」

 わたしは後ずさるのをやめた。王先輩の言葉が、気になった。彼女は心持ち下を見て、唇を噛んでいた。

「お母さんの命日や、法事のこと。様子が変だったけど、教えてくれるって思ってたのに。一緒に悲しもうって思ってたのに。去年は教えてくれたんだ。わたし、一生懸命慰めた。ソウは、わたしの言葉に安心してくれた。でも今年、ソウはあなたに教えてわたしには教えなかった」

 王先輩は目を潤ませていた。わたしはまた動揺していた。二人の仲の良さを見せつけられた気がしていたから。でも、かすかに優越感を抱いてもいた。総一郎は、今わたしを選んでいるのだ。そこまで考えて、その優越感がひどく醜いものに思えて放り捨てたくなった。

「あなたから奪えば、わたしは今みたいな惨めな気分を味わわなくて済むんだ」

「でも、駄目です」

 王先輩は、微笑んだ。目を潤ませたままの微笑みは、とても美しかった。わたしは慌てて言った。

「すみません、もう戻ります」

 それから踵を返した。歩きだしたわたしは、ほっとしていた。やっと解放される。

「わたし、頑張るから。わたしにはもう時間がない」

 後ろから声が聞こえた。わたしは早足になり、校舎に飛び込んだ。白とクリーム色の廊下は、いつものようには見えなかった。紺色の制服を着た生徒が点々といて、風景の一部のようにしか見えない。どきどきする。わたしは不安に強く支配されていた。それに、王先輩に対する憎しみが、わたしを誰よりも汚くしているように思えた。わたしは、そのまま歩きだした。


     *


「はあっ? 何それ」

 渚が身を乗り出す。わたしたちはわたしのクラスにいた。あのあとわたしは書道室に顔を出し、部活に参加することにした総一郎とは挨拶だけ交わして渚を連れ出した。彼女はひどくそわそわしていて、わたしを見るととても安心したような顔をした。王先輩とのやりとりを説明すると、みるみるうちに怒り出したけれど。

「王先輩、図々しくない? 『ちょうだい』? 今まで何もしなかった奴が、いきなり何言ってるんだっつうの!」

 渚はばん、と机を叩いた。彼女の怒りは、わたしを落ち着かせた。強ばっていた顔が、ようやく柔らかく表情を作れるようになった。

「それも思うけど、総一郎と王先輩が意外にかなり仲よかったことがショックでさー」

 わたしは自分の声が普段のものと同じであることにほっとした。さっきまでの声は、自分のものではないようだった。

「仲よかったと言っても、先輩と後輩として、でしょー? 今の歌子と総一郎みたいに、とは行かないでしょ」

 渚の言葉はどんどんわたしを安心させていく。確かにそうだ。でも、しこりのようなものがなかなか消えない。渚はしかめ面でわたしをじっと見る。そして、突如として立ち上がる。

「よし、あたしが言ってあげる。『何をしようが、総一郎は歌子のものですから』って」

「いい、いい」

 わたしは慌てて彼女を座らせる。

「そんなこと、しなくても大丈夫だよ。わたし、頑張って言ったと思うし……。それに、総一郎はわたしの所有物じゃないよ」

「はあ? 本気で言ってる? 歌子」

 彼女は中腰だったのを椅子に落ち着けてわたしを見据える。

「『わたしのです!』って言っちゃうくらい強い態度じゃないと、取られるよ」

「でも、所有物ではないじゃん」

 わたしの言葉に、渚は「まあねえ……」と頬杖を突いて考える顔をする。しばらく考えて、渚は怒りを崩さずに、

「それでも、強気の態度を崩さないようにね。自信がないと思われたらかっさらわれるよ」

 と言った。わたしは呆気に取られ、

「え、だって総一郎だよ。総一郎は他の女の子に好きだって言われても断るって言ってたよ」

 渚は唇を尖らせた。

「わたしも総一郎のことは信じてるよ。でも、何が起こるかわからないじゃん。強気は崩さないように」

 わたしは圧倒されながらもうなずいた。渚はわたしの味方なのだ。それだけでも嬉しくて、わたしは心の中で感謝した。

「あたし、歌子よりは恋愛ってものをわかってるから相談に乗れるよ。任せて」

 渚が笑う。わたしはうなずき、次の瞬間にはぎょっとした。

「え、渚、昔は彼氏いたの?」

「うん。彼女もいたけど」

 彼氏が一人、彼女が一人いたことがあるらしい。わたしはびっくりして彼女を見た。彼女はわたしを驚かせることができて、嬉しそうに笑っている。渚とはあまり恋愛の話などしたことがなかったから、知らなかった。わたしはまじまじと彼女の顔を見つめる。きれいな顔。こんなにきれいな彼女に恋人がいたことがないというのは、確かにあり得ない。

「どっちもね、楽しいときと苦しいとき、両方あったよ。恋愛っていうのはそんなものだよ。歌子も踏ん張って乗り切れ!」

 渚は笑いながらぱっと手を大きく広げた。その仕草がわたしの重荷を解放してくれているような感じがして、わたしはとても安心できた。渚というのは偉大な親友だなあ、と思う。こういうとき、とても救いになる。

「うん、乗り切る」

 わたしは微笑んだ。渚も安心したように表情を緩めた。それからわたしは、彼女の恋愛話を最初から最後まで聞いた。泣いたり笑ったり、心を揺さぶられる話だった。

 窓から見える校庭のポプラは、風に吹かれ、なびいている。また、総一郎と話したら、わたしはきっと元に戻れるだろう。

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