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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 二学期
87/156

皆の目標

 少しずつ、総一郎は元気になっていった。不安定な様子を見せなくなり、いつもの落ち着いた態度が戻ってきた。剣道も熱心にやるし、家族の夕飯を作る時間が近づくと慌てて帰るのも相変わらずだ。わたしはほっとしていた。

 わたしが総一郎の話を聞いたことは、彼の役に立っただろうか? 傷をえぐりはしなかっただろうか? そればかり気にしていたので、彼が元に戻っていくのを見て安心した。

 総一郎は、近頃難しい本を読むことが増えた。ふと彼の教室に寄ると、渚が持っているような理系の高度な本だとか、古語で書かれた古典作品だとか、分厚い英文法の本のようなものを読んでいる。約一週間後には中間試験があるけれど、そういったものに対応した内容ではないので不思議に思っていた。

 部活に出る岸以外の三人で、放課後に勉強会をした。場所は学校の図書館だ。総一郎も渚もすごい集中力で勉強しているので、圧倒されてしまった。わたしも危ないから一応やっているのだが、二人の熱心さには敵わない。

 休憩のため、図書館を出てすぐ近くの自動販売機で飲み物を買った。ミネラルウォーターを勢いよく飲んでから、わたしは総一郎に向き直った。総一郎はきょとんと私を見る。

「総一郎、どうしていきなり勉強してるの?」

 わたしは訊いた。だって、総一郎は以前、少ない勉強量で高得点を取るこつをわたしに伝授していたのだ。あまりじたばたしなくても学年一位になれる総一郎が勉強する理由というのは何か、とても気になる。

「あー、あたしも思った。いつも余裕かましてる癖にさ、今回は違うよね。何? あたしを脅威に感じてきた?」

 渚がにやりと笑って総一郎に訊いた。総一郎は笑った。

「そうじゃないけどさ」

 渚が、何っ、と怒ったふりをした。総一郎はそれを見てから構わず続ける。

「今度難易度の高い全国模試があるだろ? あれで上位になれたらなって思って」

 模試のことなんて、わたしは頭になかった。その模試は偏差値七〇以上の人が行くようなレベルの高い大学に入るための、基準となるようなものだったのだ。田中先生も、半分の生徒はまともに回答することが難しいだろうと言っていた。だからわたしは一応受けるけれど、あまり関係のない模試だったのだ。

「あたしもそれで総合上位を狙いたいなあ」

 渚がため息をつく。彼女は理系科目は全国トップクラスだが、文系科目はまだまだ高度なレベルには至っていない。それでもわたしからしたら羨ましいレベルだ。

「総一郎、模試で上位取ってどうするの?」

 わたしは訊いた。総一郎はにっこり笑った。それから一言、

「内緒」

 と言った。わたしと渚は教えるように頼んで騒いだけれど、総一郎はそれ以降、にこにこ笑ったまま黙っていた。


     *


 中間試験が始まった。得意なはずの現代文もあまり手応えがない。英語も地理も凡庸な点数になる予感。数学を始めとする理系科目は惨憺たる有様。その中でも生物だけはまだましなほうかもしれない。

 クラスメイトは誰も彼も試験が終わるたびにうなっている。一年生のころより難しくなった科目に、苦心しているのだ。美登里と夏子のところに行ったら、二人とも苦い顔をしていた。夏子は古典や現代文が得意らしい。美登里は日本史。けれど、今回はどれも難しかったとうめいていた。

「わたし、大学に行けるのかなあ」

 席に着いたままの夏子がため息をつく。美登里はぼんやりしている。

「東京の大学で演劇関係の勉強をしたいんだよね。難しいかもなあ」

「東京の大学目指してるの? わたしもだよ」

 美登里がびっくりしたように夏子を見た。わたしも驚いていた。二人とも、東京に行きたがっているのだということに。

「わたしはマスコミ関係の仕事がしたくてさ。新聞とかテレビとか、何も決めてないけど」

「えっ。じゃあ二人とも合格したら、また会えるね」

 夏子が笑う。美登里が「気が早いよ」と苦笑いする。わたしは一人、黙っていた。

「おーい。歌子、どうした?」

 夏子がわたしの目の前で手を小さく振った。わたしははっとして、笑った。

「わたしは県内から出ないだろうなあ。二人みたいにやりたいこともないし」

 二人は自分たちの話題がまずかったと思ったらしい。慌てたように、「いつか歌子もやりたいことが決まるよ」と笑った。わたしはうなずき、二人の気遣いに感謝した。

 全ての試験が終わり、クラスメイトたちは解放されたように晴れ晴れとした顔で帰り支度を始めた。わたしは総一郎たちのところに行こうと教室を出ようとしたが、光に呼びとめられた。彼女も試験が終わってすっきりしたような顔をしている。

「歌子、どうだった?」

「駄目。今回また成績が下がるよ」

「そっか」

「光は、将来やりたいことある?」

 わたしは唐突に訊いた。彼女は一瞬のためらいも見せずに「何も」と言い切った。

「何にも決めてないよ。まあ一応できるだけいい大学に入っておいて、選択肢を広げとこうと思ってるけど」

「それでモチベーション保てる?」

 わたしは訊いた。彼女は目標がないという点でわたしと同じだが、彼女の成績の評判を聞くに、結果は違っているからだ。彼女は学年二十位内には必ず入っている。光はにっこり笑い、答えた。

「人生をよりよくしていきたいから、いつでも人より前に進んでようと思うんだ。だから、保てるよ。まあ、負けず嫌いなんだね、単純に」

 彼女は白い歯を見せてにっと笑った。エネルギーのある子だな、とわたしは感嘆した。わたしにも演劇をやったときはそういうものがあったのだけれど、終わるといつものわたしに戻ってしまった。どうやったら美登里や夏子や光のように、前に進もうとすることができるのだろう。

「ありがとう。わたしも頑張るよ」

 わたしは光に手を振り、教室を出ようとした。レイカにぶつかりそうになって、よろけた。レイカはわたしと光をにらみ、

「邪魔なんだよ、ガリ勉」

 とだけつぶやいて教室に入った。光はため息をつき、

「レイカ、毎回何かしらの教科で赤点取って追試受けてるんだ。苛々してるんだよ。気にしたら損」

 とわたしに笑いかけた。わたしはうなずき、笑って教室を出た。


     *


「おれ? まあどこかしら大学の理系の学部に入って、環境学やりたいなあとは思ってる」

 岸が笑った。わたしは総一郎のクラスに入り、総一郎たちにこの先の目標を訊いていた。岸は環境問題に興味があるらしい。ものが無駄なく循環していく社会って、理想だよなあ、とうっとりしている。

「こいつ、いつも大雑把な癖に、剣道部員がゴミ捨てするときだけはやたらうるさいんだよ」

 と総一郎が言った。

「ペットボトルの蓋は別にしろとか、これはプラスチックゴミだから専用のゴミ箱に、とか」

 そういえば岸は、学校で自動販売機のジュースを飲まない。いつも水筒のお茶だ。そのことを思い出して岸に訊くと、

「うん。だってゴミが出ないだろ」

 と笑った。初めて知った彼のこだわりに、わたしは驚いた。渚もそうだ。

「へえ。護は環境に優しい男だったんだねえ」

 と微笑んだ。岸は照れたように頭を掻く。

「で、渚は?」

 わたしは彼女のほうを向き、訊いた。渚はうなずき、

「皆が知ってる通り、京都大学に入って物理学をやるよ」

 と答えた。もはや確定事項らしい。

「で、留学をして世界に通じる研究者になる」

「留学?」

 わたしと総一郎と岸は驚いて声を揃えた。二人とも初耳だったらしい。わたしもそうだ。渚はくすくす笑う。何でもないことのように。

「そんな驚くこと? あたしはやるよ。立派な研究者になる」

 わたしたち三人は呆気に取られていた。渚は留学を目指しているのか。この理系クラスの教室にはたくさんの優秀な生徒がいるけれど、留学まで目標にしている人は何人いるだろう。少し、渚が遠い存在のように感じられた。

「総一郎はー?」

 渚が訊いた。総一郎は自分に順番が回ってきたことに驚いたように彼女を見、一瞬眉根を寄せて考える顔をしてから、にっと笑った。

「内緒」

「えーっ」

 渚が抗議の声を上げる。わたしたちは総一郎の席を囲むように立ったり周辺の席に座ったりしているのだが、総一郎の前の席から彼に話しかけていた渚は身を乗り出して不満な顔を作った。

「最近の総一郎には何かあるよ。内緒にされるとますます気になる。ね、歌子」

 渚はわたしを見た。顔は不満そうなままだ。岸も総一郎も苦笑いしている。といっても、岸は総一郎の秘密を知っているわけではないらしい。「おれにだけ教えて」と言って断られている。

「教えてよ、総一郎」

 わたしが手を合わせると、総一郎は微笑んで、

「そうだな、最初は歌子に教えようかな」

 と答えた。岸と渚が抗議をするが、聞き入れられない。わたしがもう一度頼んでも、それ以上教えてくれない。

 でも、わたしはほっとしていた。総一郎には目標ができたんだと思ったから。渚に行きたい大学を訊かれて「未定」と答えていた彼に。心から、嬉しかった。

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