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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 二学期
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手紙

 電話をしようかと何度も迷った。もうお昼を大きく過ぎていて、法事は終わったはずだと思ったからだ。総一郎はどんな気持ちだろうか。今日で全てが解決してしまえばいいのだけれど。しばらく考えて、メールを打った。法事がまだ続いているかもしれないし、そしたら総一郎は出ることができないだろうから。メールの文面は簡単だった。

「法事、終わった?」

 それだけ。送信が済んだあと、わたしはベッドに倒れた。自分以外の人間のことをこんなに考えるのは初めてかもしれない。少し、疲れる。それでもやめられない。心配でたまらない。

 返事はなくて、わたしはそのままうとうとした。一時間くらいしたころだろうか。電話が鳴った。軽快な着信音を打ち消すように、わたしは慌てて電話に出た。総一郎からだった。わたしは努めて普段通りの声を出す。

「あ、総一郎?」

 返事はない。電話の向こうは無音だ。でも、何となく気配があった。心配が加速する。

「どうしたの?」

「……歌子」

 ひどく暗い声だった。わたしはどきどきしながら待った。あまり心配を表に出したらいけないと感じた。

「歌子、会いに行っていい?」

「いいよ」

 わたしは声の調子を崩さず、返事をした。それからわたしたちは清川のわたしの家に近い河川敷で会うことにし、わたしは夕方の晴れた空の下に飛び出した。ドアを閉める直前、母が、どうしたの、とわたしに訊いた。うん、ちょっとね。わたしはそれだけ答えた。

 河川敷で、しばらく総一郎を待った。総一郎の家からは、自転車だと五十分くらいかかったはず。河川敷の階段に腰かける。夕方の太陽が、段々熟したような色合いを見せ始めた。子供たちが遊んでいたが、親に呼ばれて帰っていった。見えないくらいの上流にある河川敷で、釣りをしている人がいた。こんな夕暮れに、釣れるものなのだろうか。清川にかかった鉄橋の上では車が行き来し、学生たちが時折帰路に就く様子が見えた。

 総一郎は三十分で来た。呼吸が乱れている。いつもの黒っぽい格好で、喪服みたいだな、と思った。自転車を降りてから階段をゆっくりと下る。わたしのすぐ横に座ったとき、彼は、はあっと大きく息をついて、それから呼吸はいつも通りの静かなものに変わった。

「いきなりごめんな。こんな夕暮れに」

 総一郎はいつもの声で言った。電話のときとは別人のようだった。わたしは首を振る。

「いいよ。家、近いし。総一郎は帰るの大変じゃない? ご飯作らなきゃいけないし」

 総一郎は、かすかに笑った。

「父さんが、今日は代わってくれるって」

「そう」

 父さん、か。総一郎がわたしの前で彼の父親をそう呼ぶのは初めてだった。

「……総一郎、今日の法事で何かあったの?」

 わたしがそっと訊くと、総一郎は少し黙ってからうつむき加減に話し出した。

「まあ予想通りに進んだんだよ。会場で待ってたら、親類や母親の友達がおれや優二にこの一年のことを訊いたり、慰めの言葉をかけたりしながら入ってきてさ、坊さんが入ってきてお経を上げて、気を遣われながら食事して。そういうのはわかってた。だから平気だった。でも、家に帰ったら」

 総一郎は黙った。わたしは彼の横顔をじっと見る。彼はうつむいていた顔を上げて、それでもわたしの顔は見ずに口を開いた。

「父さんが母さんからの手紙をおれと優二に渡してさ、読めって」

 総一郎は、お尻のポケットからくしゃくしゃになった白い封筒を出して、わたしに見せた。きれいな字で「総一郎へ」と書かれていた。

「優二、その場で読んでた。うなずきながら。それから『おれ、母さんのこと大好きだよ』って言った。おれは部屋に入って、こっそり読んだ」

「読んでいい?」

 わたしは訊いた。総一郎は虚ろな目でうなずいた。封筒から便箋を出すと、五枚の紙にびっしりと文字が書いてあった。明るい口調で、楽しそうに。総一郎がお腹にいるとき、どんなにわくわくしたか。生まれたとき、どんなに嬉しかったか。手紙の中で、総一郎は成長していった。わたしは嬉しくなりながら読んだ。けれど段々手紙の口調は静かなものになり、最後には謝罪の言葉が書かれていた。

 もっと生きてあなたたちの成長を見届けたかった。あなたたちが大人になるのが楽しみだった。待てなくて、ごめんなさい。

 読み終わって、わたしは手紙を封筒に入れた。総一郎に渡すと、彼は元通りそれをポケットにしまった。

「お母さん、総一郎のことを大事に思ってたんだね。それがすごく伝わってきたよ」

 わたしが言うと、総一郎は地面をじっと見つめてから、

「おれ、今まで恨んでたのは何だったんだろうって思った。色んなことを押しつけてきたとかさ、置いて行かれたとかさ、子供みたいに。母さんはおれたちを残すことが辛かったに決まってるのに。おれは二年間、母さんを恨み続けたんだ」

 わたしはやっと納得した。総一郎は、自分のことが許せなくてこんなに暗い顔をしているのだ。

「お母さんはきっと何とも思わないよ」

 わたしは総一郎の顔を見上げた。彼はわたしの顔を見つめ返す。悲しそうな目をしていた。

「ほら、こんなに優しい人だしさ。ねえ、お母さんと総一郎の話を聞かせて」

 わたしは微笑んだ。総一郎はうなずき、また黙った。話したくないのだろうかと思ったら、彼は突然話し出した。

 総一郎は、長らく一人っ子だったので小学一年生くらいまでひどい甘えん坊だったらしい。幼稚園に行くときは必ず泣いていたのだとか。彼の母はしばらく彼を抱っこして、あやしてから幼稚園バスに乗せた。毎日毎日、そうしてくれた。彼は家で母親と遊ぶのがとても楽しかった。母親の料理を食べるのも大好きだった。

 彼の母は、専業主婦だった。けれど友達が多くて、忙しい人だった。会ったことのない彼女の友達に紹介されるときが、総一郎を一番不安にさせた。けれどいつのまにか懐いて、母を喜ばせた。

 優二君が生まれてから、家族皆で幼い優二君をかわいがった。優二君にお菓子やおもちゃを譲ると、母親が褒めてくれて嬉しかった。

 思春期に入り、総一郎の口数が減ってからは何としても話させようと母親がトラップを仕掛けた。突然現れて驚かせたり、手伝いを頼んで会話を始めたりして、話さずにはいられない状況を作るのだ。

 亡くなる直前に、母親から身長を訊かれた。わざわざ学校で測って教えてあげた。一八〇センチメートルを越えていることを知ると、母親は大笑いした。

 総一郎の母は、癌になってから体調を崩して寝込んだり吐いたりした。髪が抜けてかつらを買ったときは、悲しかった。

 しばらく治ったと思っていたのに、癌が再発した。とても辛かったし、母親も辛そうだった。

 何もできなかった、と総一郎は言った。淡々と。

「置いて行かれたと思ったし、自分に対する怒りがあった。しばらく胸の中が空っぽだった。それに……」

 彼は突然顔を歪めた。泣きそうな顔。わたしはすぐに彼の顔を両手で挟んだ。彼がわたしを見つめた瞬間、わたしは彼にキスをした。唇を離すと、総一郎はわたしの体が離れる前にわたしの体に腕を回した。これまでにないくらい強く力を込める。総一郎はわたしにすがるように、ぎゅっと抱きしめていた。わたしはもう一度キスした。総一郎の手がわたしの顔を包んだ。耳に彼の暖かい指が触れて、わたしはぞくっとした。彼は舌を差し入れた。わたしの声が漏れた。舌はわたしの口の中で動いた。わたしは総一郎と二人で一つの体になってしまったように感じた。柔らかい舌と舌が触れ合って、境目がわからなくなってきたのだ。何もかも崩れて、一つに混ざり合う感じがした。溶け合って、区別がつかなくなってしまう。全部全部許してしまえばいい、とわたしは思った。流されてしまえばいいんだ。この先に待っている関係も、全部受け入れてしまえばいい。

 ぐいっと、体が離された。総一郎がわたしの肩を掴んで遠ざけたのだ。わたしはぼんやりと彼を見ていた。彼は上気した顔で息をしていた。わたしもそうであるように思う。わたしは呼吸を整えながら黙っていた。

 しばらくして、総一郎が声を出した。言葉にならないかすれた一音をのどから放ち、それからわたしのほうを見、最後に目を逸らした。

「一年の一学期、歌子が声をかけてくれたのを未だに覚えてるんだ。『篠原君、おはよう』って、それだけなんだけど。はっとした。周りの様子がようやく見えてきた。死んでるみたいに生きてたのが、段々そうじゃなくなってきた。おれは、歌子に感謝してるんだ」

 わたしは黙っている。

「泣いたのが恥ずかしいよ。優二だって泣かなかったのに」

 総一郎の言葉に、ようやくわたしは笑った。

「いいじゃん、お兄さんが泣いても」

 わたしの言葉に、総一郎は微笑む。わたしたちは二人で笑い合った。

「今、どんな気持ち?」

 わたしは総一郎に訊いた。総一郎は、すぐに答えた。

「寂しい」

「そっか」

「認めたら、あんまり辛くないな」

 総一郎が空を見上げた。オレンジ色の夕焼けが、世界の終わりのようにひどく寂しげに見えた。けれど、世界は明日、再生するのだ。朝焼けとともに。わたしは明日の朝焼けを見よう、と心に決めた。

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