雪枝さんのお母さん
土曜日がやってきて、午前十時には渚がわたしの家を訪れた。二人でわたしの母に送り出されながら家を出て、歩く。雪枝さんの家はわが家からかなり近い。商店街を歩いて狭い道を行くと、茶色い雪枝さんのアパートが変わらず建っていた。駐車場には雪枝さんの赤い小型車だけでなく白いバンも停まっていて、雪枝さんがせっせとその中に段ボール箱を積んでいた。声をかけると、彼女は嬉しそうに笑って手を振った。
「二人とも、来てくれてありがとう。荷造りは済んだから、わたしの部屋からどんどん段ボール箱を持ってきて!」
わたしと渚は慌てて二階の雪枝さんの部屋に入った。鍵はかかっていない。不用心だ。中は小さめの段ボール箱で一杯になっていて、雪枝さんの古本臭い部屋には段ボールの化学物質の匂いが混ざっていた。ベッドの上にもテーブルの上にも段ボール箱は置かれ、引っ越し当日のように見える。それだけこの部屋には少女漫画がたくさんあったということだ。わたしと渚は慌てて一人一つそれらを持ち、運び出す。紙というのは束になると結構な重さだ。故にわたしは腕が抜けそうになる。渚は力が強いのか、軽々と段ボール箱を持ち上げて階段を下りた。わたしは雪枝さんとすれ違ったので、訊いてみる。
「雪枝さん、他の友達は来てないの?」
雪枝さんは驚いたように答えた。
「歌子と渚だけだよ。あ、バンは友達に借りたけど」
「えーっ」
「ごめんごめん、思ったより重いね」
「いいけどね。うーん、誰か呼ぼうかなあ」
誰か手伝ってくれそうで腕っ節の強い男子を思い浮かべたが、今は総一郎と岸は剣道部、拓人はサッカー部で活動している時間だった。頼めそうにない。
「いいよ。頑張ろう!」
わたしはよろよろと階段を下り、バンの座席を一つ倒した上に段ボール箱を置いた。それからまた雪枝さんの部屋に戻る。それを二、三回繰り返すと、雪枝さんと渚がわたしの二倍くらい頑張ったのでどうにか全ての箱がバンに収まった。
雪枝さんの部屋はきれいになった。元々アンティーク風の家具で揃えられたおしゃれな部屋だったらしく、粗末なブックスタンドが上に乗っかっていない箪笥はキャラメル色の繊細な彫りがなされた品だったし、本棚も後から買ったらしいベニヤの本棚よりはずっと素敵な、箪笥と同色の品だった。ベッドも、ヘッドボードの棚が少女漫画で満たされていないとこんなに素敵なんだなと感心するくらい上品なものだった。本がこれらを全て隠していたのだ。
わたしたちはわいわい言い合いながら雪枝さんが出した冷たい麦茶を飲み干し、汗を拭き、また外に出た。それからバンで出発した。雪枝さんが運転し、わたしが前、渚が後ろの唯一無事な座席に座って。
雪枝さんの実家は市内だが隣の区にあるらしかった。窓の外はどんどんよそのものに変わっていく。わたしは清川のそばからあまり離れたことがなかったので、雪枝さんの地元の知らないビルや知らない住宅街を珍しがってじっと見た。わたしの住む辺りは新しい住宅も多いが、この辺りの住宅街は古い平屋建てが多いらしい。雪枝さんの実家はその中でも大きめの二階建てだった。ざらざらした素材でできたコンクリートブロックの塀の中に、そのきちんとした家は収まっていた。
雪枝さんがバンを停める。それからわたしたちを家族に紹介しようと玄関のガラス戸を開く。
「ただいまー」
元気一杯だ。わたしが家に帰るときより元気がいい。雪枝さんの実家は当然ながらよその匂いがして、下駄箱の中の段に飾られた赤茶色のコスモスが白くくびれた花瓶に活けてあるのが印象的だった。
「雪枝さん、あれは何て花?」
「ん? あれはねー」
そこに、誰かが中からととと、と走って出てきた。その人を見て、わたしは唖然とした。国語科の教師で、わたしのクラスの副担任である中村先生。彼女が、紺色のエプロンをつけてわたしたちの前に姿を現したからだ。
中村先生はびっくりした顔でわたしと渚を見ている。雪枝さんはそれに気づかず、彼女に話しかける。
「お母さん、花瓶に活けている花は何ていうんだっけ? コスモスなのは確かなんだけど……」
「チョコレートコスモスよ」
「あ、そっか」
「雪枝、どういうこと?」
「何が?」
「その二人はわたしの生徒よ。どうしてうちにいるの?」
「え?」
中村先生は腕を組んで雪枝さんを見た。わたしと渚はぽかんとしていたが、雪枝さんは中村先生に、へへへと笑いかけた。
「どういうことなんだろうね」
どうやら雪枝さんもわかっていないらしい。
*
中村先生が漬けた白瓜の奈良漬けをぽりぽりかじりながら、麦茶を飲む。ホワイトデーにもらった奈良漬けもよかったが、これもまた甘みがあっておいしい。半透明の奈良漬けは瑞々しく、不思議な茶色をしている。畳の上に絨毯が敷かれた中村先生の家の居間で、わたしたちは四人で話をしていた。
「本当にびっくりだよね。二人がお母さんの教え子なんてさ」
雪枝さんが麦茶をごくりと飲んでから言った。中村先生は呆れたように彼女を見つめ、長いため息をついた。
「あなた、わたしが町田さんたちの学校に赴任してたことはわかってたでしょ? 二人がどこの生徒か知っていたでしょうに、何をとぼけてるの」
わたしと渚は目を見合わせる。確かにそうだ。というか、わたしが雪枝さんと中村先生の血縁関係に気づかなかったことも問題なのだ。雪枝さんの姓が中村だということは知っていたし、雪枝さんのお母さんが高校教師であることも知識として持っていたのだから。けれどそのことは言わず、わたしは雪枝さんが中村先生に責められるのを黙って見ている。
「町田さん、雨宮さん、ごめんなさいね。暑いのに手伝わされたんでしょう」
中村先生がわたしたちに眉尻を下げて言う。わたしたちは慌てて「いえいえ」と否定し、話題を変えようとする。
「でも、すごいですよね。わたしたち、雪枝さんの先生がどういう人か、すごく気になってたんですよ」
「どうして?」
「だって、雪枝さんのお母さんは、雪枝さんが教師を目指すきっかけなんでしょう?」
「え?」
雪枝さんが慌てたような顔になる。何となくまずいことを言ってしまったらしいと、今更ながら気づいた。
「そうそう」
渚が口を挟む。雪枝さんは彼女の横で音も立てずに人差し指を唇の前で立てているが、中村先生のほうを見ている渚には伝わらない。
「雪枝さん、すごいですよね。今までそんなつもりなかったのにいきなり教師を……」
「渚、そこまで!」
雪枝さんがとうとう渚の言葉を遮った。しかし手遅れだ。中村先生は雪枝さんをじっと見ている。
「雪枝、どういうこと?」
へへへ、と雪枝さんは笑い、次に真面目な顔になってこう言った。
「来年教員採用試験を受けるつもりなんだ」
中村先生は目を見開いて驚いた顔になった。
「お母さんみたいな教師になりたくて」
「ええっ?」
「いいよね」
「そりゃあ、あなたは大人だから何を目指そうが勝手だけど、どうして?」
雪枝さんはひと呼吸ついて、この間わたしたちに話したことを丁寧に言った。勉強を教えるだけじゃなく、思春期の子供たちを支えたい、ということを。中村先生がその気にさせたことも、ちゃんと言った。すごい勇気だ。わたしなら、照れて言えない。
中村先生はそれを真剣な顔で聞き、やがて大きくうなずくと、こう言った。
「まあ、やるなら最後までやりなさいよ。ちゃらんぽらんな教師にならないのなら、わたしは文句を言ったりしないわ」
雪枝さんは嬉しそうにうなずいた。わたしは中村先生があっさり雪枝さんの目標を認めてくれたので、驚いた。雪枝さんと中村先生の関係は、子供のわたしがまだ経験していないものをはらんでいる。そういう風に思った。