放課後の篠原と拓人
校庭のポプラを見詰めながら、じっと動かなかった。運動場ではたくさんの生徒が部活にいそしんでいる。様々なかけ声、野球部の打球音。賑やかなそれらは全部遠い出来事。そんな気がした。
「町田?」
声がしたので振り返ると、篠原が黒板側の扉のそばに立っていた。頭を少し引っ込めて、中に入ってくる。
「もう暗いのに、電気つけないの?」
そういえば、もう五時近い。わたしはうなずき、笑おうとした。笑みを作る前に涙がこぼれだした。涙は熱く、肌を焼きつけるように思えた。声もなく泣くわたしの元に、篠原が走り寄る。
「町田、どうしたの?」
初めて聞く、篠原のうろたえた声。わたしはその不安定な声に反応し、ますます涙を流した。
「大丈夫?」
「……うん。大丈夫」
篠原はじっと立ち尽くし、大丈夫ではないわたしを見詰めていた。
「何かあった?」
「ううん」
篠原に、さっきのことを話すわけにはいかなかった。けれど泣きじゃくるわたしを見て、本当にわたしが言った通りだとは思わないだろう。
「何かあったんだろ?」
わたしはただ体を震わせた。篠原はわたしの高さにかがみ込み、手を伸ばそうとした。
「篠原、何やってんだよ」
どこからか怒った声がした。見ると、練習用のユニフォームを着た拓人がわたしのほうに走ってきていた。
「何もしてない」
篠原は本当に戸惑った様子で首を横に振った。
「教室に入ったら町田がいて、話しかけたら泣き出した」
拓人は篠原をじっと見詰め、わたしに向き直る。わたしの机に寄りかかるようにしゃがみ込み、落ち着いた優しい声でわたしに話しかける。
「女子たちに何か言われたんだろ?」
わたしはうなずいた。涙はとまるどころか溢れてきた。
「歌子は多いよなー、そういうこと」
拓人は笑う。
「大丈夫だよ。おれがついてるから」
それから、ぽんぽんとわたしの頭を撫でた。わたしの涙は出なくなってきた。わたしは涙を指で拭いながら、拓人に笑いかけた。
そういえば、昔からこうだった。女子に嫌われやすいわたしは、小学校高学年くらいからちょっとした意地悪をされて、家で泣いた。拓人は家に来て、わたしが泣いているのを見て、今みたいに頭をぽんぽんと撫でてくれたのだ。中学でもそう。拓人は普段わたしの弟みたいなのに、そういうときだけは兄のようにわたしを甘えさせてくれた。
「ありがとう、拓人」
拓人はにっこり笑った。わたしは篠原のほうを見る。
「篠原も、ありがとう」
「おれは何もしてない」
篠原がきっぱりと言った。
「でも、落ち着いてよかった」
ちょっと笑う。拓人はわたしを見ながら篠原に話しかける。
「歌子はさ、昔から女子に嫌われやすいんだよ。おまけに歌子っていつも平気そうに笑ってるから、皆大丈夫だと思っちゃうんだよな。ほんとは結構もろいんだ。内弁慶だしな」
「余計なこと言わなくていいよ」
わたしがちょっと睨むと、拓人はひょうきんな顔になってわたしを笑わせた。
「そっか」
篠原がつぶやいた。
「幼なじみだしな」
「息は合ってるよな」
拓人がわたしに言う。
「つき合い長いし」
わたしはうなずき、篠原を見た。篠原は以前のような無表情になっていた。長身を持て余したようにわたしを見下ろすその姿は、何だか悲しそうに見えた。けれど、わたしは焼けついたようになった体を気にしてばかりいたから、あまり気にならなかった。子供のように、拓人の軽口や冗談に笑っていた。
「おれ、部活に戻るよ」
篠原の言葉に、わたしは顔を上げた。篠原はあの小さな笑みを浮かべていた。
「部活? 篠原部活やってんの?」
拓人が訊く。
「うん。書道部」
「渋っ」
拓人は笑い、篠原に何か冗談を言おうとした。篠原はそれを遮って、
「じゃあな」
とわたしたちの元から去っていった。拓人はそれを見送りながら、
「でっけー」
とつぶやいていた。それからわたしに向き直り、
「篠原ってかっこいいよな」
と言った。わたしは驚いた。篠原は地味な顔だし、あまり笑わないせいで人に好かれる感じでもないからだ。
「背が高いしさ、頭いいじゃん。いつも冷静で、声もいいし。運動神経もいいよ。でかいからバスケのときかなり活躍してる」
そこまで言うと一瞬黙り、
「おれも篠原みたいになりたかった」
とつぶやいた。わたしは笑う。
「拓人もかわいいじゃん。もてるでしょ?」
拓人はむっとした様子でつぶやく。
「男がかわいいって言われてどんな気持ちになるか、歌子はわからないんだよ。それに」
また、沈黙。
「歌子にもてなきゃ意味ない」
わたしは何だか悲しくなった。今のままで充分素晴らしい関係だと思うのに、拓人はどうして今以上のものを求めるのだろう。わたしはそれが少し、切ない。
「少し考える時間をちょうだい」
わたしは言った。拓人の顔がぱっと明るくなる。わたしは用心深くうなずき、
「必ず答えを出すから」
と続けた。