走る総一郎と王先輩
応援用の衣装を着た応援団が盛んに声を上げる。その前を男子の集団が一斉に走る。砂埃が舞う。わたしは日焼けが心配なので、自分が所属する白軍のテントの陰の中にいた。涼しいとは言えない。九月の頭なのだ。まだまだ、野外にいると汗がしたたり落ちるくらい暑い。蝉が鳴いているし、太陽だってさんさんと光を降らせている。男子の走りは力強い。彼らが大勢で駆け抜けていくと、砂が舞って肌が粉っぽくなる。女子も、自分の所属するチームのメンバーや仲のいいクラスメイトを応援するため、白線ぎりぎりのところまで出て大声で応援していた。どこのチームもそうだ。わたしは美登里や夏子と共にそれを見て、皆元気だねえ、などとつぶやいていた。
「歌子、昨日とは打って変わって冷静だね」
夏子が面白そうにわたしを見る。わたしはあははと笑い、
「毎年こうだよ。皆に圧倒されるんだよね。皆すごいよ」
と答える。美登里がしゃがんだままため息をつき、
「わたしも元々体育会系のノリが好きじゃなかったんだよね。体育祭の日は毎回圧倒される」
と言う。わたしは目を輝かせる。
「美登里は渚と気が合うかもよ。渚もそういうこと言ってた」
「何? あたしの噂?」
頭上から声が降ってきた。見上げると、渚。彼女は汗を滴らせ、手で顔を扇いでいた。白い肌は相変わらずで、日焼けどめがどうこうではなく体質のせいで日焼けしないらしく、羨ましくて仕方がない。汗がきらきら輝いているのも、彼女は様になっている。
「あれ? 渚は紅軍の応援しなくていいの?」
わたしが訊く。場所を変えると応援団長から大目玉を食らうのだ。渚はぺろっと舌を出し、
「大丈夫。ハチマキ外してきた」
と笑った。けれど彼女は目立つのだ。色分けされたハチマキを外したところで、応援団長たちに覚えられているに違いないと思うので、はらはらする。しかし、次に彼女が発した言葉でそれを忘れてしまった。
「次、総一郎が走るから教えに来たんだ」
「本当?」
「うん。総一郎、一位になっちゃうかもよ。応援しなきゃ」
わたしはいそいそとテントの陰から出た。美登里と夏子が呆れたようにこちらを見ているのがわかる。でも、総一郎が走るなら応援せずにはいられない。グラウンドは熱気に包まれていた。短距離走はリレーや応援合戦に次いで盛り上がるので、どこのチームも応援団が熱心に叫んでいるし、女子はそわそわしている。きっと好きな男子が出るのだろう。
「町田さん」
声がしたので横に立った人を見ると、王先輩だった。彼女は日の光の下で見ると、余計に非の打ちどころのない肌に見えた。つやつやの肌は陶器のようで、毛穴なんて存在しないかのようだった。
「町田さんも白軍だったんだね」
「はい」
わたしは動揺していた。どうしてこのタイミングで王先輩が? 彼女は白いハチマキをしていたので、わたしと同じ白軍だったらしい。
「次、ソウが走るらしいから、応援してやろうと思って。町田さんもでしょ?」
「はい」
「楽しみだね」
わたしは「はい」しか言えないのが嫌になり、微笑んだ。彼女はいつでも余裕がある。きっとわたしより大人だからだ。わたしは彼女に話しかける余裕もなく、ただひたすら男子の二百メートル走が始まるのを待った。
男子たちがずらっと並んだ。クラスの男子がちらほらいる。後ろを見ると、総一郎がいた。誰かと話をしている、と思ったら相手は拓人だった。総一郎と拓人は一緒に走るらしい。拓人の恋人の片桐さんは五組なので、多分青軍だ。ここから少し離れた場所にある青軍のチームで応援しているのだろう。
楽しみだな、と思った。わくわくする。隣に渚が立った。わたしを見下ろし、にっこり笑う。
用意、とスターターを構えた先生が言った。男子たちが構える。次の瞬間、ぱん、と大きな音が鳴った。同時にたくさんの足が走り出した。
砂埃が舞う。男子たちはすごい勢いで走っていく。短距離なのですぐに決着がつくのだが、一瞬一瞬に迫力がある。わたしのような運動音痴にはない力強さだ。女子たちは大声で応援をした。わたしも申し訳程度に声をかけた。すぐに結果がわかるので、そのたびに応援組が騒いでいる。
「あ、浅井君が走るよ」
と、誰かが言った。そちらを見ると、拓人と総一郎が並び、手足を回している。それから用意、と先生が言い、スターターが鳴る。どっ、と六人の男子が走り出した。
総一郎は、速い。長い手足を生かして、ぐんぐん前に行く。その横に、拓人が力強い走りで並ぶ。二人の一騎打ちだ。拓人はクラスメイトから好かれているし、女子に人気があるのできゃあきゃあ言われている。総一郎の応援をしているのはクラスでわたしくらいなものだ。
「総一郎、頑張れ!」
わたしは声を張り上げた。横で王先輩も彼に向かって叫んでいた。わたしはムキになって大きな声を出した。同じチームの拓人ではなく総一郎を応援するわたしと王先輩は目立っていたが、気にする余裕はなかった。応援する気持ちが強いほうが勝ち、という妙な考えで、一生懸命叫んだ。
総一郎と拓人がゴールした。こちらからはどちらが勝ったかよくわからないが、よく見たら拓人のほうが一位になったようだった。拓人には悪いが、少しがっかりした。
「総一郎は二位か。でもやったじゃん」
渚が笑う。わたしは気を取り直してうなずいて笑った。王先輩もわたしに話しかけてきた。
「ソウ、速かったでしょ」
「はい」
「ソウが足速いって、知ってた?」
「……いいえ」
王先輩は満足そうににっこり笑った。わたしは何だか悔しい気持ちで、それでもそれを表に出さないよう笑っていた。
「もー、白軍を応援しろよ、歌子」
いつの間にか戻ってきたらしい拓人がわたしに文句を言った。わたしは笑いながら謝る。拓人は王先輩をちらりと見る。彼女はわたしに手を振り、友達のところに戻って行った。
「気づいたら総一郎を応援しててさ」
わたしが言い訳すると、彼は大きくため息をついた。
「歌子の中のおれの順位も、相当下がったよなあ」
「そんなことないよー」
そこに総一郎が来た。わたしが応援していたことに気づいていたらしく、機嫌がいい。拓人が不満そうに総一郎にさっきのことを言う。総一郎は声を上げて笑い、
「ありがとう」
とささやいてくれた。わたしの気分は一気によくなる。総一郎が自分のチームのほうに戻り、拓人が仲間の元に行ってしまうと、わたしは渚と一緒に美登里たちのところに戻った。彼女たちは応援こそしていたが、テントの陰から出ることはなかったらしい。
「すごかったよー、女の戦い」
と、夏子。
「二人とも、敵対心剥き出し。男子が引いてたよー」
と、美登里。二人とも笑っている。わたしは驚いて二人の元に座った。
「え、そんなにすごかった?」
「いやいや、見物だったよ」
渚が一緒に座りながら笑う。わたしは考え込み、そうかなあ、と言った。わたしはともかく、王先輩は後輩を応援しているだけ、という雰囲気を出していたから。
「王先輩がライバルかあ、へえ、ふうん」
夏子がにやにや笑う。美登里は自分の頭の中のデータを引っ張り出す顔で、こう言った。
「王先輩は彼氏いないし、要注意だねえ。きれいでしっかりしてるから、もてるよ。頑張って」
まるで完全に王先輩が総一郎を好きだと確定したかのような言い方に、わたしは動揺した。
「王先輩は総一郎のこと好きだって、決まったわけじゃないじゃん」
「ええっ」
夏子と美登里が同時に声を上げた。信じられない、という響きがそこにあった。
「あの応援を目の当たりにして、まだわからないの?」
渚が訊く。わたしは頭を抱えていた。認めたくない。認めたくないけれど……。
「王先輩は総一郎のこと好きだよ。早く予防線を張らないと危ない!」
「そうだよ歌子」
背後から拓人が声をかけた。どうやらこっそり聞いていたらしい。
「歌子は呑気すぎるよ。もっと緊張感を持て」
「そんなあ」
わたしは皆がわたしを見るのをどきどきしながら見渡し、ますます頭を抱えた。王先輩がライバル。あのきれいな肌で胸が豊かな先輩が。勝てるだろうか。わたしときたら欠点だらけなのに。
でも、このときはひどく気にしてはいなかった。埃っぽいグラウンドと、蝉の叫び、青々としたポプラの木々、応援にいそしむクラスメイト。辺りはそういうことを気にするような空気で満たされていなかった。どうしよう。それだけ思って、すぐそれはぼんやりとした真実味のない悩みになってしまった。