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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 二学期
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光と教室

 朝起きた瞬間、昨日の興奮を思い出して完全に覚醒した。わたしはやったんだ。それにクラスの皆ともうまく行くようになったし、いいことばかり起きた。そう考えてから、王先輩の輝かんばかりの白い肌を思い出して憂鬱になった。総一郎と王先輩が笑いながら話をしていた。二人がそうやって楽しげに話してきたのはここ最近のことではない。総一郎が書道部に入ってからずっとそうだったのだ。それに今日は体育祭だ。運動が嫌いで集団行動が苦手なわたしは、昔から体育祭の日は自力で起きることができなかった。でも、目覚めてしまった。ベッドから降りるしかないが、降りたくない。

「歌子ちゃん、朝よ」

 母が呼ぶ。仕方がないので、わたしは返事をしてから起き上がり、ベッドから降りた。姿見の前で伸びをする。去年ほど平たい体ではないが、王先輩ほどは凹凸が豊かではなかった。本来の総一郎の好みとしては、どっちなのだろう。そんな愚にもつかないことを考えながら、わたしは部屋から出て階下に降りた。


     *


 教室に着くと、真っ先に光がわたしを見つけて挨拶をし、その他の生徒がそれに続いた。美登里と夏子はまだのようだ。わたしは光のほうに行く。光は部活で鍛えた力強い体を一杯に伸ばして準備運動をしていた。かなり張り切っている。周りの女子は運動部や帰宅部が混ざっているが、運動部の生徒はそれなりに体育祭が楽しみらしい。わたしのように暗い顔をした生徒はいない。帰宅部だとしても、わたしほど運動が苦手な女子は滅多にいないだろう。わたしは走るのが遅い。演劇で使うときの体の動かし方はわかるのに、純粋な運動のための動かし方がさっぱりわからないのだ。

「どうしたの? 元気ないね」

 光が笑う。わたしはため息をつき、

「走るのも跳ぶのも応援合戦も嫌なんだ」

 とつぶやいた。光はあははと大きく笑った。

「応援合戦の練習ではかなりやられてたね。応援団長の人たちは体育祭までの間だけは鬼になるからなあ。まあ今日までの辛抱だよ」

「そうだねえ」

 光の慰めはわたしには届かなかった。今日という日が辛すぎて、明日が見えない。全員参加という制約があるから、わたしですら二百メートル走と障害物競走に参加することになっていた。応援合戦の練習で血気盛んな応援団に怒鳴られた経験も嫌な印象を生んでいた。応援合戦がなかったら劇のない文化祭のように締まらないのだろうが、わたしは好きではないので、自分勝手ながら応援合戦がなくなればいいのにと思っていた。

「歌子、おはよう!」

 渚が教室に入ってきた。彼女も運動が得意なはずだが、特に張り切っているようには見えない。中学時代に陸上を辞めてから、体育会系のノリが苦手になったとは言っていたが。

「おはよう。渚は元気だねえ」

 わたしが言うと、渚はきょとんとした。

「どうしたの?」

「体育祭が全く楽しみじゃないんだ」

 渚は微笑んだ。わたしはまた「今日までの辛抱だよ」と言われるのだろうと思っていたのだが、違った。

「あたしは歌子の応援してるよ。走るのが遅くても、応援団にしごかれても、ずうっと心の中で応援してる。歌子が辛い思いを長引かせないようにね。だから大丈夫だよ」

 嬉しい。心が温かくなった。渚はいつもわたしに寄り添ってくれるのだ。今までも、これからも。わたしはにっこり笑い、「ありがとう」と言った。

「総一郎と護も、いっつもはらはらしながら歌子の体育祭練習を見てたんだから。あたしたちはいつも歌子の味方だよ」

 わたしは嬉しさに笑みを深くした。

「わたしも応援する。渚は何の競技に出るの?」

「二百メートル走とか、あといくつか。陸上部はとっくの昔に辞めたから、あんまり頼られてないよ。こういうとき、運動部だと色々任されるけど」

 そういえば、運動部、特に陸上部はたくさん競技をやらされていた。光も三、四の競技をやることになっているようだ。

 わたしと渚はしばらく話をしていたが、チャイムが鳴ったので彼女は自分の教室に戻っていった。わたしも着替えをすべく教室を移動する。体育祭は大人数なので更衣室が使えないが、教室を男女それぞれに割り振って着替えるのだ。着替えを済ませて片づけをしていると、光が近寄ってきた。さりげない様子で話を始める。

「雨宮さんって変わってるでしょ?」

「ううん。普通だよ」

「そう。前に雨宮さんと同じ中学だった子から色々聞いたからさ」

「色々?」

「うん」

「……そういう噂、どうでもいい」

「ごめんごめん。わたしも雨宮さんの悪口言うつもりないよ。高二にもなって悪口とかいじめとかやってらんないし、そういうの陰湿だしね」

 光は明るく笑って否定した。もやもやした気分になりながら、ならどういうつもりなのだと思ったら、彼女はこう続けた。

「同じ中学の子っていうのはレイカだしね。レイカ、今日はサボりだね。意地張ってるんだよ。本当子供」

 確かに、レイカはいなかった。元々学校行事を熱心にやるタイプではないからそんなに気にしてはいないが、レイカにはわたしを受け入れたクラスメイトを認めたくないという気持ちもあるのかもしれない。

 多分、レイカはこの間までのわたしのようにクラス中から無視されることはないと思う。高二にもなって悪口やいじめなんかやってられないという気持ちはクラスの女子の間に確かに存在する。わたしはクラスメイトの幼さの犠牲になったのだとわかっている。体育祭が終わればわたしたちは受験勉強に打ち込むことになるだろう。ならば余計に周りにかかずらう暇なんてなくなる。

 わたしをいじめていた張本人なのに、光はそのころの自分を他の誰かみたいに扱っている。そしてまた渚やレイカを見下そうとしている。何となく、好きになれないところがあると思った。でもそういう性質は多くの人に存在するものだ。わたしにもあるかもしれない。

 ただ、わたしは微笑む光を見ながら、彼女とは表面的な「仲良し」にはなれても、渚みたいな「親友」にはなれそうにない気がしていた。

 華やかな光とその友達は生き生きと輝いて見えるが、わたしは美登里や夏子のほうが好きだった。彼女たちは地味だけど誠実に生きている感じがする。

「教室って何やっても窮屈だよね」

 わたしが言うと、光は少し考え込み、こう言った。

「上手にやれば、窮屈じゃなくなるよ」

 それってどういう意味だろう。わたしが光を見ると、彼女は微笑み、

「上手く逃げるんだよ」

 と言った。逃げる、と聞いて少し見えるものがあった。そうか。皆逃げていたんだ。自分が標的になることから。わたしはうまく逃げられなかっただけなんだ。何となくわかっていたけれど、わかってみると何だが馬鹿馬鹿しかった。どうして皆逃げるだけなのだろうと疑問を抱きもした。だって、目の前の不愉快な現実は全然解決していないじゃないか。

 けれど、わたしは否定しなかった。

「そうかもしれないね」

 と答えたのだ。そして、光と一緒に教室を出た。否定することはできない。わたしだけが正しいなんて言えないから。何でいじめなんかするの? と大声で叫んでも、皆どうしようもないとわかっている。自分を守るのが精一杯。でも、仕方がないとは言いたくない。

 多分、レイカ同様わたしもこれからいじめられることはないだろう。それでも、違和感はつきまとい続ける。その違和感は、社会的な立場を捨てなければ振り払えないもので、わたしは捨てることも振り払うこともせずに生きて行くのだろう。

 早く大人になりたいな、と思った。大人になったらこういう一つの教室にぎゅうぎゅう詰めになれることはなくなるんじゃないかと思うし、打開策がわかるくらい明晰になれる気がしたから。

 でも、それも幻想かもしれない。

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