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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 二学期
74/156

王先輩

 全ての劇が終わり、投票の時間がやってきた。学級委員が投票用紙を配り、わたしたちは体育館の出口付近で好きな劇の上に丸をつけて段ボールでできた投票箱に入れ、体育館の内や外に散らばった。わたしは総一郎の二組に入れた。岸がとても頑張っていて、面白かったからだ。自分のクラスの劇に投票してもいいのだが、自分をひいきするような気がしてそれはしなかった。大谷さんは美登里ちゃんを始めとする数人と連れだって体育館を出ていった。わたしも誘われたが、総一郎たちと行動することを伝えると、大谷さんはにやにや笑い、「仲いいよねえ、ほんと」と言った。美登里ちゃんが「いつもこうなんだよねえ」と諦めたように笑った。総一郎たちのところに行く前に、井出さんも声をかけてきた。彼女はいつも爽やかに笑っている。

「一人? 一緒に回らない?」

「ごめん。別の人と回るんだ」

 わたしが両手を合わせて断ると、井出さんはにっこり笑って、

「あ、篠原君か」

 と言った。わたしはうなずいた。

「いいよねえ、仲がよくて。わたし、彼氏なんていたことないよ」

「わたしも去年までいなかったよ」

「そっか。こういうのはさっぱりわからないね。部活や塾で忙しいからそんな暇がないし」

 彼女はバレー部でセッターをやっているということだった。塾にも通っているし、それは確かに忙しいだろう。

「あ、そうだ」

 井出さんがちょっと気まずそうに笑った。わたしは何だろうと思って彼女を見詰めた。彼女はこう言った。

「歌子、って呼んでいいかな。ごめん、順番間違えた。さっきいきなり呼び捨てにしてごめんね。わたしのことも(ひかる)って呼び捨てにしていいから」

 わたしは嬉しくなってにっこり笑った。友達を呼び捨てにすると、とても親しくなれた気分になる。呼び捨てにされるのも、そうだ。

「いいよ。じゃあ、光、投票結果が楽しみだね」

 彼女はぱっと明るい表情になり、うん、とうなずいた。

 光との別れ際に、レイカが坂本さんを引き連れて彼女の後ろを通って行った。怒った顔をしていた。光はレイカをちらりと見て、何でもないような顔で仲間の元に戻っていった。

「歌子!」

 明るい声がして、振り向いたら渚が立っていた。総一郎と岸も近づいてきている。わたしは笑って彼らに混ざった。岸は額の際に白い絵の具が残っていて、指摘されると「ん、大丈夫」と言った。彼は結構ずぼらだ。

「劇すごくよかったよー。優勝しちゃうかもよ」

「そうかな。そっちのもよかったよ。わたし、投票したし」

 渚の言葉に、わたしは照れながら答えた。渚はうなずき、「頑張った甲斐があったね」と笑ってくれた。

「それにしても歌子、クラスでうまくやれるようになってきたんじゃない?」

 渚が自分のことのように嬉しそうに言った。わたしは笑う。

「そうだね。何だかいい感じ」

「よかったな」

 総一郎が微笑むので、わたしは彼に笑みを向けた。様々な困難は、総一郎がわたしについているという自信で乗り切ったように思う。これからもそうできたらいい。もちろん、全面的にわたしの味方をしてくれる渚や、いつも一緒にいてくれる岸の存在も大きい。この三人がいなかったら、わたしの高校生活は灰色だったかもしれない。

「じゃあ、どっか回る?」

 渚が言うので、わたしたちはうなずいた。

「総一郎の展示物を見に行こうよ。何か書いたんでしょ?」

 わたしが総一郎に訊くと、彼はうなずいた。

「ちょっと大変だったよ。剣道部もあるから」

「そうだよな。結局何書いた?」

 岸が訊く。わたしたちは歩きだし、体育館を出て校舎に向かい出した。

「ええと、李白の……」

「李白って漢詩?」

 わたしが訊く。渚がうなずいている。どうやら最近は古典もちゃんとわかるようになってきたらしい。

「そうだよ。李白の五言絶句で題は……」

「それより、見に行こう。おれこいつに口頭で漢詩を説明されるとさっぱりなんだよ」

 岸が眉根を寄せて言うので、わたしと渚は吹き出した。岸は古典が少し苦手だ。漢文は特に。総一郎が漢詩について高度な説明をすると、頭を抱えてしまう。わたしも似たようなレベルではあるが、古典は好きなので頭を抱えるほどではない。

「さあ行こう。書道部は写真部と一緒の教室だっけ?」

 岸が訊くと、総一郎はうなずいた。

「写真部、すごいよ。呆れるくらいブロマイド写真だらけ」

「写真部? 誰のブロマイド?」

 渚が訊くと、総一郎はにっと笑った。

「各部活のスター選手や、明日の体育祭で応援団やるやつらの写真だらけ。結構のりのりで写ってるよ。あれはほとんど女子が買うんだろうな」

「買えるの?」

 渚が尋ねた。わたしはびっくりして渚に訊いた。

「買いたいの?」

 渚は笑って手を振って否定した。

「そんなわけないじゃん。でも、自分の写真を自分が知らないやつの手に渡るなんて嫌じゃない? 撮られた人たちの気が知れない」

「わたしは応援団の人たちがすっごく苦手だから絶対いらない。大声で怒鳴る人って嫌い」

 明日の体育祭のため、夏休み前後に全員参加の応援練習をしたのだ。わたしは大声で怒鳴って一般の生徒をしごく応援団員がとても嫌だった。体育祭前後には一時的に彼らの人気が上がるので、写真が売れるのはそのせいだろう。

「怒鳴られた?」

 総一郎が訊く。

「うん。わたしは皆に合わせて動くのがすごく苦手だから、はみ出したり遅れたりしてかなり目をつけられてたよ」

「体育祭が終わったら、一緒に帰ろう。嫌なことがあったら聞いてやるから」

 総一郎が心配そうに言うので、わたしはうなずいた。優しい彼が好きだ。わたしは彼にくっつきそうなくらい近寄って歩いた。学校ではこれが限度だ。渚と岸が呆れたように笑っている。わたしと総一郎はべたべたしすぎるかもしれない。

 横から青空が見える屋根つきの渡り廊下を歩いて、生物や化学などでの移動教室で使う棟に入る。ここの三階に、茶道室や美術室などの特殊な教室がある。展示がされるのは二階の多目的教室らしく、わたしたちのクラスから見ても窓ガラスに展示物についての宣伝の紙が貼られていたのでわたしもちゃんと知っていた。二階に上がって、廊下を歩く。ここは体育館から割と近いので、劇が終わった直後なのもあって人が多い。多目的教室の廊下側の窓に、「書道部・写真部展示」と書かれた紙が貼ってあったのですぐにわかった。わたしは総一郎の作品が楽しみで真っ先に入った。

 ブースが二つに分かれていた。囲まれた場所が書道部、その他の部分が写真部の展示場所のようだ。写真部も書道部もブースに二人くらい人がいて、顧問の先生と各部活の所属の生徒が一人ずつという組み合わせらしい。その他の見ているだけの生徒も数えると、十五人くらいいた。

「うわあ、結構人がいるね」

 わたしが総一郎のほうに振り向くと、総一郎は特に嬉しそうでもない顔だった。

「ほとんど写真部目当てだよ。女子ばっかりだろ?」

 そういえばそうだった。写真部のブースにいくつか置かれたついたてには写真がたくさん貼られ、女子たちが夢中でそれを見ていた。ちらりと見ると本当に運動部や応援団員の写真ばかりだった。まるでアイドルだ。

「総一郎の作品はどれ?」

 わたしは書道部のブースに入り、きょろきょろ探し始めた。白い紙に黒い墨の文字が書かれているだけの書道部の作品だが、写真部に比べて迫力がある。どれを見ても字が上手く、子供じみた癖のある字を書くわたしは恥じ入るばかりだ。総一郎が答えてくれないので振り向くと、彼は書道部のブースでずっと立っていた女子生徒に声をかけていた。

「ケイ先輩、お疲れさまです」

「お疲れ。案の定人が入らないね」

 総一郎に先輩と呼ばれたその女子生徒は、苦笑しながら彼を見上げていた。黒くてつやつやの長い髪をポニーテールにした、色っぽい雰囲気の人だった。それから彼女はわたしを見て、

「ソウ、あの子彼女?」

 と総一郎に訊いた。彼は微笑んで「はい」と言った。彼女が彼を「ソウ」と呼んだことにも驚いたが、彼が微笑みかけることのあるわたしの知らない女子がいたのだと、わたしは衝撃を受けた。総一郎はわたしを手招きし、わたしが行くとわたしにも微笑みかけた。何故だかあまり嬉しくなかった。

「え、あなたさっき劇で主役やってなかった?」

 ケイ先輩と呼ばれていた彼女は、驚いたようにわたしを見た。透き通るようなきれいな白い肌で、わたしは自分の肌のことを思った。

「そうです。町田歌子と言います。お名前、ケイって……」

「ああ」

 彼女は微笑んだ。笑うと、短く揃えた前髪の下の目は長い睫毛の向こうで潤む。

「さっき、あなたの劇での名前がそんな名前だったよね。わたしは実を言うとケイじゃないんだけど、便宜上ケイって呼ばれてるだけだよ」

「便宜上?」

「先輩は中国人なんだよ。本当はワン・グイファって感じの発音の名前なんだけど、難しいから漢字の一つを日本風に読んでケイになってるんだ」

 総一郎が説明する。自然な様子だ。彼は女子に対してはよく人見知りをするけれど、先輩の前ではあまり緊張していないようだ。

「字はどう書くんですか?」

 わたしが訊くと、彼女は生徒手帳を白い制服の胸ポケットから出し、見せた。写真の横に、「王桂花」と書いてあった。

「下の名前が発音しにくいから、何となく日本風の読みになっちゃったんだ。名字は簡単だと思うけど、何となく『オウさん』で定着してしまって。訂正しにくいからそのままにしてるけど」

 にこにこと、彼女は笑っていた。

「じゃあ、二人はニックネームで呼び合ってるんですね」

 わたしがそっと訊くと、彼女の笑みは深くなった。

「そう。わたしがケイ先輩、彼がソウ。後輩は大抵オウ先輩って呼ぶけど、彼は特別。いい子だからね」

「いい子、ですか」

 総一郎が笑った。二人は目を見て笑みを交わし、一緒にわたしを案内した。わたしはようやく総一郎の作品を見ることができた。ついたてに張り出されたくすんだ色の和紙に、整然と力強い字が並んでいる。五文字四行、一部の乱れもない。題は「杜陵絶句」。総一郎の解説によると有名な漢詩だそうで、色々説明してくれるのだが、頭が王先輩のことで一杯であるため、入ってこない。ちらりと見ると、王先輩と目が合った。彼女は柔らかく微笑んだ。それから総一郎に話しかけた。

「ソウの字はかっこいいよね。わたしはここまで強い字は書けない」

「そうですか? ケイ先輩の字は力強さがありますよ」

 総一郎が応じる。王先輩に導かれ、わたしたちは別の作品の前に立った。それは美しい字で書かれた王先輩の和歌の書道作品だった。崩した字で書いているから読めはしなかったけれど、かすれた部分や始点のはっきりした輪郭から、総一郎の言う意味がわかる気がした。意志の強さが感じられる字だ。

「内容、わかる?」

 王先輩が訊くので、わたしは少し考え、

「わかりません」

 と答えた。先輩は笑って言った。

「額田王。知ってる?」

 さすがにそれは知っている。確か、情熱的な恋の歌を多く残した飛鳥時代の女性歌人だ。教科書にも作品がたくさん載っている。わたしがうなずくと、先輩は微笑んで、

「わたし、額田王好きなんだ。身の内が燃え上がるような素晴らしい歌を詠んだ人だから。千年以上昔の人だなんて信じられないよね。わたしも情熱的でありたいと思ってはいるけど、なかなかね。恋する相手がいないから」

 と総一郎を見る。わたしは一瞬胸がずきんと痛んだ。王先輩が彼を見る目が、ひどく熱っぽく、真っ直ぐに見えたからだ。彼はそれに気づいた様子はなく、何も考えていないかのように笑った。

「何となく、先輩と印象が重なります」

「え、どこが?」

「情熱的って部分です」

「そう?」

 わたしは蚊帳の外に置かれていた。総一郎はわたしをあまり見ず、王先輩とばかり話していた。よほど仲がいいのだろう。わたしはもやもやと、言いようのない嫌な感情が湧き出るのを感じた。先輩は渚と比べて美人というわけではない。レイカと比べて意地悪というわけでもない。ただ総一郎と仲がいいだけ。それなのに灰色の煙がわたしの心の中で色んなものを覆い隠してしまいそうになっていた。総一郎を引っ張って、外に連れ出してしまいたかった。

「歌子、総一郎。そろそろ他の展示物見に行かない?」

 声がして、はっとした。振り向くと渚が岸と一緒に立っていた。わたしがいる場所はただの広い教室にしか過ぎないのに、ついたてに囲まれた場所の外は何だか解放感がありそうな気がした。

「岸も雨宮も、どこに行ってたんだよ」

 総一郎が訊く。渚がえへへと笑って答える。

「写真部のブースを見てた。ごめんね、作品見なくて。どれが総一郎の?」

「これ」

「あー、上手いねえ」

 渚は感心したようにしばらく見詰めたが、それからすぐに、

「一年生がやってるお化け屋敷に入ろうか」

 と提案した。総一郎は呆れたように笑い、

「いいよ」

 と答えた。わたしはほっとして笑った。やっとここから総一郎を連れ出せる。岸は少し作品を見回してから、

「おれには書けないな。古典も書道も駄目だから」

 とつぶやき、ブースから出た。わたしと渚もそうした。総一郎は王先輩に挨拶をして、わたしたちについてきた。廊下に出ると総一郎は岸と話を始めたので、わたしは渚と並んで歩く。心が少し晴れていた。煙は薄くなっていた。渚は考える様子で手を顔に寄せ、わたしをじっと見ている。

「歌子、さっき嫌だったでしょ」

「何が?」

「とぼけても無駄だよ。すっごい負のオーラが出てたから」

 わたしは苦笑した。渚に対する誤魔化しは無駄らしい。渚が訊く。

「どう思う? 王先輩」

「普通にいい人なんだろうなって思う。ただ、総一郎と仲がいいから何かやだ」

「王先輩、多分総一郎のこと好きだよ」

「え」

「勘だけど」

「勘ならまだわからないじゃん」

 どきどきしながら、わたしは笑った。笑って不安を吹き飛ばそうと思った。王先輩はわたしと同じくらいの身長で、わたしと違って女性らしい体型だった。顔立ちもオリエンタルな雰囲気で、不思議な魅力を醸し出していた。透き通るような肌も、ポニーテールにされた艶のある髪も、わたしにはないものだと思えた。わたしは意識していなかった総一郎の恋人であるという自信が、揺らいでいることに気づいた。恋人なのは、確かだ。ただ、恋人だと周囲に胸を張っていいのかがわからない。

「何こそこそ話してるんだよ」

 総一郎がすぐ後ろから声をかけたので、わたしと渚はびっくりして飛び退いた。彼はそんなわたしたちをきょとんと見ていた。渚が後ろ向きに歩き、総一郎に質問する。

「総一郎さ、王先輩と仲がいいんだね」

「うん。書道部に誘ってくれたの、ケイ先輩だしな」

「いい人?」

「うん。色々親切にしてくれる」

「色々?」

「ええと、お菓子くれたり」

「それで懐いたら子供みたいだよ」

「懐くって……。まあ、気が合うし」

「あ、そう」

 渚はわたしと一緒に前に歩きだした。振り返ると総一郎の横に岸が並び、二人とも不思議そうな顔をしている。渚はこそこそとわたしに耳打ちする。

「総一郎は何とも思ってないみたいだけど、要注意ね」

 わたしは何でもないことのように笑い、うなずいた。けれど、煙は完全に消えたりはしなかった。

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